第3話 涙

 彼女はほんの一筋か二筋の涙をこぼしただけで、やはり『大丈夫』と言って俺から離れた。

 彼女がこぼした涙の量はほんの僅かで俺に頼った時間だってかなり短い。けれど、わんわんと大泣きされるよりも深く深く刺さってしまった。


「髪のお礼に今度何かご馳走するね」


 短くなった前髪のせいでいつもより幼く見える顔にはまだ涙の跡が残っている。

 今ここで俺が頷いたら彼女は部屋に戻り再び泣くんじゃないか。鏡に自分を映してさらに落ち込むんじゃないか。

 それだけは取り除いてあげなきゃという、責任感のようなものが込み上げた。


「お礼はいいのでちょっと酒でも飲みません?」


 喉乾いたし、と付け加えたのは心配している気持ちを悟られたくなかったからなのだけど、きっとそういうのバレバレなんだろうとも思った。


「じゃあ……」


 一度ずらした目線をこちらに向けた彼女は得意な顔をして俺を手招きした。

 部屋から出てキッチンに寄りビールとポテトチップスを抱え二階に上がる。


「どうぞ」


 案内されたのは彼女の部屋――に、ついているバルコニーだった。

 シルバーの華奢な骨組みの椅子が一つと丸い小さなテーブルが置いてある二畳ほどのその場所。

 そこに立った途端、サワサワと音をたてる風に包まれた。それは抱き寄せた時と同じ匂いのする彼女の部屋に緊張した俺を落ち着かせるような柔らかな風だった。

 自分の暮らす家なのに初めて立ったその場所は真っ暗な色に囲まれているけれど、かなり居心地の良い場所だと思った。


「いいでしょ」

「いいっすね」


 プルタブを同時にあけ、どちらからでもなく缶と缶を軽くぶつける。

 彼女が口を開くまでそう時間はかからなかった。


「三年付き合ってた彼氏と今日別れたの」


「他に好きな人が出来たって」


「右向いててって言ったらずっと右向いてるような人だった」


「会いたいって言ったら会ってくれて」


「忙しいって言ったら頑張ってねって言う人だった」


 彼女は計算式でも唱えるように淡々と話し出した。


「キスがなくなったの」


「セックスはしても、キスしてくれなくなった」


「倦怠期かなって思って、ワイン買ってデパ地下で洒落たサラダとお惣菜買って、サプライズ気取って押し掛けたの」


「そうしたら」


「知らない女の人がいて、テーブルには手作りのご飯が並んでた」


 相槌を打ったり、質問したり、そんなことを一切しない俺に彼女は少しだけ心を許したのかもしれない。


「その女の人、普通の人だった」


「たぶん年も同じくらい」


 彼女の声は震えたりしなかった。瞳が潤むことだってなかった。



「でも、私より優しそうだったな」



 ――彼女は心の中で誰よりも激しく泣いていた。

 抱き寄せた肩の細さを手のひらが思い出し、いたずらに吹く風が彼女の香りを近付かせる。

 こんな人は始めてだからだろうか、一旦は落ち着いた体が再び緊張し始めた。

 湧き出た気持ちを隠すためにただただビールに口をつけた。

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