第2話 大丈夫

明里あかりさん?」


 扉を開けてすぐに気が付いた惨劇――白い洗面台に散らばった髪の毛と彼女が持っていた普通のハサミ、そして……眉の上に不自然に作られた前髪。

 俺が遭遇したのは、彼女の持つ完璧なシルエットが無惨に崩された瞬間だった。


「あーあーあーあー、何してんですか!」

「……レオ」

「こんな切れないハサミでやっちゃダメなんすよ!しかも真横に入れたでしょ、ハサミ」


 思わず触れた前髪から短い毛が何本かパラパラと床に落ちた。


「あー、サイドの髪まで切ってるし!言ってくれれば良かったのに!」


 慌てる俺とはまるで正反対に彼女は笑った。


「そっか、レオ、美容師さんだったね」

「……あ、は、はい」


 一瞬言葉に詰まるほど、その笑みは寂しげに見えた。前髪ひとつの綻びが彼女を違って見せたのかもしれない。


「直しますか、俺で良ければ」

「……ほんと?ラッキー」


 彼女はすぐにいつも以上の笑顔でそう喜んだけれど、嘘をついているような気がしてならなかった。


「じゃあ、俺の部屋でいいですかね?」

「もちろん!」


 シェアハウスに住んでいるからといって、個々の部屋を行き来することはゼロに近い。

 自室に誰かを入れるのは初めてだったけれど、なぜだかリビングで切るのは避けようと思った。ここに住むみんなは気のいい人ばかりだけど、彼女の今の姿を見せるのは正解じゃない気がしたから。


「プロみたい」

「プロですよ」


 ハサミを入れ始めた途端、彼女はそう茶化したがそのあとは瞳を軽く閉じたまま無言になってしまった。

 話題を作るのは得意なはずなのに、なぜだか声をかけられなくなった俺はただひたすらに前髪の手直しを始めた。

 短い髪が頬や鼻に落ちたけど彼女の顔はピクリとも動かない。白い肌と綺麗な顔立ちのせいかモデルウィッグを相手にしているみたいだとも思った。


「明里さん、出来ました」


 頬の髪を払っても手鏡を渡しても彼女の瞳は開かなかった。


「明里さん?」

「……」

「大丈夫だから、見て下さい?」


 ようやく開いた彼女の目。

 そして、ゆっくりと顔を鏡に映すと「可愛くなった」と呟き微笑んだ。


「明里さん、なんかありました?」


 彼女は自分の感情をさらけ出すことなんかなくて、酒を飲んでも最後の最後まで潰れることもなかったし隙を見せることもなかった。だから、弱さを見せることなんて一生ないと思ってた。


「どう……したんですか」


 微笑み細めた目に涙が溜まって睫毛が濡れ無理して上げた口元が悲しげに揺れた。


「……若い子だったらまだ良かった」

「若い子?」

「そう、私より若いとか、スタイルがいいとか。そしたら仕方ないって思えたかもしれないのに」


 髪を切って笑ってくれる人はいても、こんなにも辛そうな顔をする人は今の今までいたことがない。せっかく可愛くなったのに彼女からは悲しみしか溢れていなかった。


「……切らなきゃ良かった……かな」


 溜まった涙が一筋落ちる。

 躊躇いもせずにその肩を抱き寄せたのは、こんな切ない泣き方をする人がいるんだと動揺したから。こんな顔をさせているのは自分じゃないかと不安になったから。

 彼女は何度も何度も『大丈夫』と繰り返し涙を隠そうとする。


「大丈夫に見えないですよ」


 その時はシェアハウスのことも、カノジョのことも頭になかった。

 彼女のこと以外、俺は何も考えられなかった。

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