第119話 旅の空に月を読む

 思いや考えというのがあって、それを確かめるために実際に見てみたり、触れてみたりするのは大切なことだと思います


 僕は旅をしました

 その地は自然がとても豊かであるのと同時に厳しくもあり、圧倒的な自然の力の前に人は無力だろうな想像をしていました。

 しかし、観光の名所とそこに住む人の話を聴いたり、表情を見たりすると、そこで生きている人の逞しさに触れて「人が生きる」ことの力強さを侮っていたと気づき、その根源は自然に対する謙虚さと畏れ、すなわち信仰に繋がるのだという仮説に至りました


 人間だけが神を持つ


 僕は人の内面に注目し、神は人の弱い心=死ぬとわかっていても生きなければならい不条理を論理的に理解し、死や老いや病にたいして苦しみや悲しみや怒りを感じることのできる、厄介な機能が作り出した安全装置だと考えていました


 理不尽を肯定する超越的存在、宇宙的存在としての神


 しかしよくよく考えてみると古代人は内面的な不安よりもむしろ外敵=すなわち自然の驚異の方が圧倒的に理不尽でもあり、また生きるための恵みを与えし存在であり、尚且つ、神を崇めるという共通の信仰に至るまでには、共通体験が必用であり、内面的な思考と外面的な経験と客観性――すなわち複数の人が同時に体験と共感をするようなスケール感のある事象が必用不可欠であるわけです

 

 故に古代の信仰は山の神、海の神といった恵みと災害をもたらす存在、そしてそれらを統括する超常的で絶対的な存在=理不尽と慈愛と秩序と混沌を併せ持つ”すべての事象を司る神”を作り上げたのだと、今回の旅を通じて考えるようになりました


 しかし現代においてそうした信仰心は蔑ろ(ないがしろ)にされ、人の自然に対する傲慢さ、人の驕りが進行していると感じているのは、僕だけではないと思います


 そこで僕は昨今起きている大きな自然災害と言うのは、人が生まれ持っている無意識下の潜在的な自然に対する畏れ=不安が集約されて、大きな代償を払うような事態を”招きいれているのではないのだろうか?”ということを考え始めました


 これは量子力学的なアプローチでありますが、そのことはさておき、思考があって、検証があって、何かを感じて、また別の考えに至る


 今回の旅は、そうした思考の新しい着地点を見つけるという体験と同時に、問題に対して論理的思考を重ねても、思わぬ形で振出しに戻ってきてしまうメビウスの帯のような体験をしたのでした

 しかしそれもまた誰の心にも備わっている『安全装置』のではないかという、絶望にも似た希望の発見もありました


 それは一つの感情を突き詰めていったとき、例えば”愛しい”という感情をその対象に注ぎ続けているうちに、まったく逆の性質である”憎い”という感情に変わってしまうことがある、あるかもしれない、という体験をしました


 もちろんすべてがそうなるわけではなく”特定の条件下でおきるねじれ”ということなのですが、人の心はその構造の一部に”メビウスの帯”と似た形状をしているところがあり、そこに入り込んでしまうと、帯を切る以外に正と負の繰り返しを防ぐことができないのではないだろうか


 そしてそれはエラーではなく、心が壊れてしまわないための、或いは命を守るための安全装置なのではないだろうか


 僕の思う究極の愛、人を好きになる感情の行く末は、破滅的な結果を想像してしまうのです


 相手を食らってでも一つになりたいという悪魔的な業や狂気や執着


 今回の旅の経験と、そこで感じたり考えたりしたことは、今後の創作活動の大きな糧と、そして枷(かせ)となるだろうし、何かノルマを課せられたような前向きさとは真逆の真坂な体験と相まって・・・旅先の宿で満月を眺めながら、眠れない夜を過ごしたのでありました


 では、また次回

 虚実交えて問わず語り

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