第114話 認知の旅の始まり

 人は自分が認識できないような事象や、他人のありようについて、見ない、見えないふり、ただ眺めるだけ、否定する、受け入れようと対話をするなど、いくつかの選択肢と、それを選ぶ傾向があります


 傾向――すなわちそれは、性分と言う者であったり、立場であったり、内的要因、外的要因によってどれかに偏る場合もあれば、選択の都度、手法がかわるという性分もあれば、外圧によって変化したり、或いは毎回同じ方法を取らないというルールや気分もあるでしょう


 人はたとえ物事の本質を見定めることが叶わなくとも、最良の手段を選ぶことができる


 深く考えようとも、浅く考えようとも、或いはもう考えもしないで、正しい選択をすることができます


 ならば考えても無駄なのでしょうか

 本質など見抜こうとすることは非効率なことなのでしょうか


 この世には無駄な事とか無意味なことは、それほどないのだと僕は考えます


 失敗から学ぶ人もいれば、一度の成功から足を踏み外す人もいます


 何が正しくて、何が間違っているか一概に言えないのは当たり前のことなのですが、では、その当たり前のことを、こうして言葉にする意味はあるのかと問われれば、僕は

”今はないかもしれないが、何年か経って僕が読み返した時には意味がるかもしれないとか、或いは僕が何かの賞を取ったり、犯罪を犯したりしたとき、この文章は意味を持つようになるのかもしれない”

などと煙に巻くようなことを言うのでしょう


 つまり事象とは多元で多面的であり、本質とは核である以上、表層に何もあらわれないということもないので、難しく考えなくても本質にたどり着くこともあれば、どれだけ苦労しても、まるで届かないことだってある


 どうにでもなるし、どうにもならないのが世の中の本質である


 どうです?

 この詐欺まがいの……おっと失礼、そんなことを言ったら本職の詐欺の方に怒られてしまいますね


 とはいえ、認識とか認知というのは、十分に意識すべきことがだであることは、どうしてもお伝えしたいと思ったのです


 それを踏まえてさえいれば、人がどれだけいい加減で繊細であるかがわかります


 人は見たいように物事を誤認し、何も見ようとせずとも、本質を見てしまう


 そこに意識と無意識を定義して推論を立てれば、大抵の物事は認識できるし、認知できる


 何も瞑想をしたり、苦行を積んだり、教えを乞うて、悟りを開かずとも、人の認識力はどこまでも拡大するし、認知度は何処までも深くなります


 ただし絶対にすべてを認識することも出来なければ、真実の泉の底に触れることはできません


 それが人というものの限界であり、限界のないものは、このよに存在しえないというルールに反します


 そんなルール誰が決めたって?

 それこそ神のみぞ知る

 いや、そのルールそのものこそ神なのかもしれませんね


 では、また次回

 虚実交えて問わず語り

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