第113話 瞑想に迷走する境地
瞑想とか解脱という言葉をここ最近の会話の中で耳にすることがあって、まぁ、日常会話的にそれらしく使うことになんら抵抗はないのだけれども、言葉を使う以上、それがどういうことかを知るというのは、包丁は引いて切るのか押して切るのかみたいな、些細でもあり、大事なことのように思うわけです
そもそも解脱なんて言葉は日常会話にはまるでそぐわないというか、無茶なことの比喩や揶揄くらいしか使い道がないでしょう
真面目な顔をして”俺さぁ、昨日解脱したんだ”なんて言われた日には、悪い物を食べたか、薬を盛られたかと思ってしまいます
”やべー、もう悟りの境地が開けそう”
仕事とか作業に追い詰められて、何も考えられない状態になるとこういう弱音を吐くことがあります
或いはスポーツ選手などが、ここぞという時に発揮する集中力は周りがスローモーションで見えて、尚且つちょっと先の未来が見えるようになることもありるそうです
一般的にそういった状況を”ゾーンに入る”と言ったりしますが、これはつまり入ろうと思ってなかなか入れるものではなく、出たくなくても、出されちゃうものらしきことは、ニュアンスとして伝わると思います
悟りや解脱といったものは、ともすれば、そのような状態にいつでもなれるような心身の”完璧なコントロール”が必用となり、それを得るために人は厳しい修行を自らに課して、その境地を目指すのです
いやー、頭が下がります
そして僕は首を横に振るでしょうね
人の自然な心というものは、そのような状態に長く耐えられるようにはできていないというのが僕の仮説です
つまりゾーンの状態を修行によってある程度持続することは可能かもしれませんが、そのような感覚は誰とでも共有できるものでもありません
或いは人間社会との感覚の共有を切ることで、神のような存在に近づき、その言葉を自らに宿すようなことがあるのかもしれませんが、果たして僕にはそのようなものに何の価値も見出せません
僕は人でいい
つまるところ悟りや解脱などというものは、人でなしが目指す最果てではなかろうかと、人でありたい僕は思ってしまうのです
仮面ライダー1号 本郷武は改造人間で、その力は通常の人間のそれをはるかにしのぎます
サイボーグ009のメンバーもしかり、彼らは苦悩します
自分が異能の存在であるがゆえに、人とは違う道を歩まなければならないことを自覚し、覚悟し、そして悲しみます
キカイダーは機械でありがなら人の心を持ち苦悩します
善悪を判断するジェミニィ(良心回路)なるものは、人そのものが不完全であることへの絶望と希望が混じっています
人はそれでいい――迷ってこそ人です
非想非非想――思うことをせず、思わないということもせず――などいう段階を経て悟りを開くという理屈がわかったところで、思いも考えもしない心というのは、果たして、心と言えるかどうか
無の境地、無我の境地などという雰囲気は良しとしても、では、それと機械とは何が違うのか?
兵士とはそのような境地で戦場に赴かなければ、自我を保つことは困難でしょう
敵を打ち殺したその手で、生まれたばかりの我が子を抱きかかえることは、自然の世界では成り立つはずなのに、社会を形成してしまった人間には、心のありようがそれを許さないことがあります
本来生きるとは、他の命の犠牲を強いずにできるほど、容易い事ではないのですから、なのになぜ人は心を持って生まれてくるのか
そしてそれをわざわざ滅することをありがたがるのか
僕は無神論者でも菜食主義者でもマッチョでもない、ただの不平屋です
Aという物にそれだけの価値があるのなら、Bというものにもそれに近いだけの価値を見出してもいいのではないか
僕の立ち位置は振り子のように動いているので、一貫性に欠けるのかもしれませんが、何か一つの答えに固執するよりかは、それでいいと、想っちゃうんですけどね
瞑想をいくらしたところで、人は人ではないものになれはしない
でも、瞑想なんかしなくたって、人は人でないものに一瞬でよければなれるのだから、何もそれだけが道であるかのように振舞うこともない
ではまた、次回
虚実交えて問わず語り
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