第29話 MOMO缶と春雨(3)

 

 ※ レシピと呼べる代物ではない。


 芝谷は猛暑続きでカルキ臭くなった水道水で湯を沸かし、春雨はるさめを放り込んだ。


「姫様への貢ぎ物にみんなしちまってここにはなんもない。桃の缶詰と……おっ!」

 お喋りは止まらない。何かできても食べるつもりはない。話に乗るつもりもない。

 それは私にとって得るものの、なにもない、時間のはずだった。


 中華鍋に油をたっぷりと入れて火にかけ、缶詰から取り出した桃の果肉を木べらでぐちゅっと崩しながら炒めている。寒気がする。おそらく彼は味覚に異常をきたしているのだ。この暑さならば、同情されるべきだろう。

 あぁ、確かになにもないはずだ。

 Tは昼食と犬の散歩以外一歩も外にでない。買い物にも行かない。高価な手土産は倫理的にも不適当。なので彼女への貢ぎ物はもっぱら食べ物や飲み物に限定される。


「あんたの手札を若林さんに渡したとして、それをあの人がめくると思うか?」

 芝谷は私の悩みを見抜いていた。味覚は狂っていてもジャーナリストとしての嗅覚は本物なのだろう。私は彼を見直していた。


 ぐちゃぐちゃと果肉と油が馴染んだ所に、塩と化学調味料が大量に投入された。

 適当につかんだ水色の瓶から、お酢が注がれる。もう見ているのも嫌になった。


「辛いのは大丈夫か? 俺は好きだ。適当に入れるぞ?」

 ばさっばさっばさっと、粉末の唐辛子が理不尽に注がれていく。



「実直に証拠を集めたとして、それを握りつぶすならそれはルポルタージュと呼べるのか? それなら魔女を血祭りにあげている、世間とかいう怪物となにが違う?」

 核心を突いてきた。私に仕事を依頼した人物に資料を渡せば、それは選別される。

 それは彼女が魔女であるから……誰もがそう思っている。ただ物証がないだけだ。


 彼女は会見で訴える。無実だと訴える。『ただの冤罪ならともかく、家族が皆殺しにされたのにこうやって冷静にインタビューを受けるのは普通じゃない』茶の間の、その判断はたぶん正しい。確実に彼女が犯人だ。だからと言って、神ではない自分が彼女にとっての有利な証拠を、握りつぶされると知っていながら、そのことから目を逸らせるのなら、それはもはや、自らの存在意義を否定することに他ならない。



 ※ 事件のレシピ


 A:寺内一家事件――――――――――司法解剖〇 ――科学捜査×

 B:中村雄平、転落死――――――――司法解剖× ――科学捜査×

 C:赤羽美津子の不審死―――――――司法解剖× ――科学捜査△


 この時点で事件の連続性がクローズアップされる。Cの遺体観察の検証。

 Tの名前が浮上。警察のTに対する事情聴取。マスコミが騒ぎ出す。


 D:Tの同居家族死亡――――――――司法解剖〇 ――科学捜査〇


 ただし、Dについては6時の夕食以降、家族とは別れ、無職であったTが昼に現状を発見し、救急車を呼んだとのこと。つまり死亡から科学捜査まで20時間以上。

 これ幸い。警察はなかば違法状態でT宅を事件現場として徹底的に調べ上げた。

 結果、何一つとして物証を探し出せなかったからこその……それ以後の及び腰。





「Aの段階。死亡直後にまずは科学捜査が行われていれば……」

 料理をしながら芝谷は自分で書いたメモの内容をなぞる。


「物証がゼロだから警察の狙いは『秘密の暴露』(犯人しか知り得ない事実の告白)しかない。つまり死後数時間で検出できない薬物はマスコミがどうやっても警察から漏れることはないだろう。彼女にそれを吐かせる以外に突破口はない」

 刺激臭をまき散らしながら、芝谷はちゃぶ台に皿を置く。


「甘い辛い酸っぱいがエスニックだろ? 春雨はなんで春の雨なのかね? ピータンがあったんで乗っけてみた。ピータンには和がらしだろ? ついでに塗っておいた」

 矢継ぎ早に話すが答える気もない。が、ここまで酷いと人間は逆に興味をもつ。


「げほっ」

「げほっ」

 二人同時にむせ返った。原因はもはや特定しようもない。


「ひでえな。だがこれだけひどいと逆にビールが飲みたくなる 」

 芝谷はクーラーボックスから氷水につかったそれを取り出しタオルで拭く。


(ぷしゅ)

(ぷしゅ)


 おそらく、私の人生においてもう出会うことのない、最高に旨いビールだった。






 ※






「彼女がやったに違いない」「疑わしいだけで犯人扱いはひどい」


 当初、世論は真っ二つに割れた。やがて受精卵が分裂を繰り返すように、それぞれの思惑が分かれ、複雑に絡み合い、混沌だけがそこに残った。



 

 私たちは彼女の擁護に回ったのだった。もう後戻りはできない。あの時、


「兄弟の盃のあとは、婚姻届けにサインだ」

 そう芝谷は言った。Tは手記を出す条件として、私たちに念書を要求したのだ。


「インテリ家系のインテリ女。Tの祖父は大学教授だそうだ。やたら、知恵が回る。鬱陶しいが、これでライバルはいないことになる。念書を書いたことがおおやけになれば業界人としては破滅だ。それができるのは俺たちだけだ」

 芝谷は赤ら顔でそう言ったっけ……あのとき、春雨なんか食わなければ。喉が渇いて思わずビールに手が伸びなければ……


 あれ? まさに現実から、意識が未来に滑っている。頭がおかしいくなったか? 

 今は、いつで、どこだ?



 あぁ、そうだった。その後は、適当に作った紙飛行機が思いもかけず遠くまで風で運ばれるみたいに、すべてが順調に進んでいった。

 事件の早期解決を予想し、最初から先入観ありきでおこなわれた取材は、こちらが客観的な事実を提示しただけで、真偽は正され嘘が露見された。マスコミの信用は、失墜していく。世論はやがて彼女に傾き、その後も物証はでなかった。ゼロのまま。

 彼女は魔女から、保護されるべき、悲劇のヒロインへと変貌をとげてゆく。


 望んだ結果ではなかったが、勝負には勝った。勝ったはずだった。だが……



  





 …………手記の発売が本決まりになった刹那、Tが我々の前から姿を消した。



 
















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る