第17話 MOMO缶と春雨(1)


 199T年。その夏は観測史上まれにみる暑さだった。

 葦簀よしずの隙間から庭の草に降りかかるあぶらでりの滲むような光が漏れている。ちゃぶ台に座った私はやることもなくただただ、ほうじちゃごおりを口に運んでいた。外に動きはない。だけれども、庭の低い垣根のその先から目を離すわけにはいかなかった。




 ※ ほうじ茶氷


 ほうじ茶をこれ以上ないくらい濃く煮だす。(濃すぎて飲みにくい程度)

 暖かいうちに三温糖を溶けきれないほど加える。

 粗熱が取れたらお玉で小さな器に注ぎラップをして冷凍。




 その年が異常なのは暑さだけではなかった。例えるなら中世の魔女狩りに似た空気が日本中を覆っている。



 ※ 事件概要


 総勢12名。

 発端は4人家族の突然死に始まる。寺内守。妻、順子。二人の子供たち。

 朝食中に突然、苦しみだす。救急車を呼ぶも一家全員がその後、死亡。

 しかし朝食からも、司法解剖の結果からも、死因の特定はできなかった。


 続いて、寺内守の勤務先である調剤薬局の上司、中村雄平が転落死。

 続いて、同勤務先の薬剤師、赤羽美津子が帰宅途中に不審死。


 警察の記者クラブがその連続性に気づき、捜査状況が克明に報道されていく。

 容疑者として浮上したのは、元薬剤師 T。

 Tは寺内学と不倫関係にあり、別れ話のもつれからトラブルを起こし、上司である中村雄平から退職を迫られた経緯があった。また、同僚の赤羽美津子は寺内の新たな不倫相手との噂(マスコミ情報)。


 この段階で名前も顔も報道されない存在、Tは世間の注目を集めることとなる。

 取材合戦が始まり、Tの自宅には連日、マスコミが押し寄せるそんな最中。


 Tの同居家族6名が死亡。

 死亡したのは、Tの両親。及び同居していた弟家族(本人、妻、子供2名)

 もともと資産家で、同居とは言え、母屋に両親とT、新築の離れに弟家族が住む、田舎では珍しくない一家同居の形態であった。






 で、私は今、ほうじ茶氷を食べている。

 報道は過熱。T家の広大な屋敷の周りを約200名のマスコミ関係者が取り囲み、泊まり込みで、Tの一挙手いっきょしゅ一投足いっとうそくを監視している。

 私は運良く一軒家の一室を借り寝泊まりできているが(8人同宿)遅れてきた者は庭のテントで、中には道路や違法駐車で交代で仮眠をとってしのぐありさまである。

 田舎のことで近所にある唯一の食料品店の在庫はほとんど売り切れ。記録的な暑さもあり、今や飲み物やアイスクリームはここでは純金ほどの値打ちがあった。

 自動販売機には誰かが蹴ったのであろう凹みと売り切れの赤いランプだけが光る。


 追加の入荷は確定しておらず、そしてうかうかと買い出しにも行けない。

 なぜならば、Tは家に引きこもっているわけではなかったからだ。朝夕二回の犬の散歩。それにくわえ、昼には決まって近所の中華料理店に食事に出かけ、驚くことに同席したマスコミ関係者と雑談まで交わすのだ。ほがらかな笑顔で……


 系列であってもやはりみな基本的にはライバル関係にある。もし買い出しに行って動きがあったなら誰が連絡をよこしてくれるだろうか? 自分ならしない。絶対に。

 疑心暗鬼と容疑者Tのどこかカリスマ性のある容姿と立ち振る舞いは関係者を異常な心理に導いてゆく。


 そんな中、一社が規約を破り彼女の顔と名前を飛ばす。


 世間の注目が、無責任は群集心理が、我々を後ろから押す。まるで将棋倒し。

 糞尿被害を咎められたジャーナリストが、近所の住人を殴る騒ぎまで起こった。

 誰も止まることができない。常識や倫理感さえ霧散するそんな夏。



「それ旨そうだよね」

 芝谷省豆しょうごがなれなれしく声をかけてきた。


 一面識もなかったが、私が取材したルポルタージュをなんどか使って記事を書いたことがあるとかで、同室になった初日から妙に馴れ馴れしい。瓢箪ひょうたんみたいな顔だが、フリーターのような下請けの私とは違い、一流大学をでた系列の正社員である。

 年収は凡そ3倍。


「こりゃいい。冷たいものはここでは貴重品だよ。冷蔵庫がある部屋が借りられたのはラッキーだ。まったく若林さんの手回しが早くて助かった」

 私に取材を依頼した人物の名をわざとだし、無断でほうじ茶氷を口に運びながら、ニヤついた顔でなにか言いたげだ。


「ほんとうのところあんたどう思う?」

「どうもこうもないね。私は事実をありのまま集めるだけだ」

「まったくあんたのルポは客観的だ。予断がない。取材相手に意図的な答えを求めたりもしない。機械的でつまらないともいえるがね。だからその事実だけをもって、Tを本当のところどう思う?」

 指で、白い開襟シャツの胸元を気障きざにゆすって風を入れながら、尚もしつこく問いかけてくる。


「物証はゼロだ」

 私は食べ終えたばかりの器を乱暴にちゃぶ台に置き、蜜でねばつく指をティッシュで拭った。


「そこだよ。そこが重要だ。物証はゼロ。なのに警察に拘束もされていない一般人の顔と名前はもう晒された。一社だけの問題じゃない。あとに続く。もうマスコミ全体が後戻りできない地獄におちいったとは思わないかい」

「たしかに、Tが務めていた薬局で薬物が持ち出された証拠はない。だが、司法解剖でも検出されない薬物が使用されたのなら、それはとどのつまり余程の知識がある人間と言える。それはあんたでも私でもありえない。勇み足は否めないが、最終的には問題はないと思うがね」

 私は庭の垣根の向こうをみながら言った。夕方の犬の散歩にはまだ間があるが油断はできない。気まぐれに行動を起こすのも、Tの特徴である。


「なるほどね。客観的なルポをするあんたでも心のうちじゃ、独断のひとめが存在する訳か。そりゃそうだよな。取り囲む200人以上の野郎やろうたちはなんにせよ彼女と一言二言、言葉を交わして一喜一憂してる。まるでファンクラブだ。だがその熱狂的なファンの誰一人として、Tを白だとは思っていない」

 芝谷はフィルターの付いていない奇妙なたばこを取り出し火をつける。

 


「逆張りしたほうが金になると思うがね。このまま逮捕でハイっお仕舞なら、大量、猟奇殺人としてマスコミ全部で分け合ってそれで終わりだ。そもそも最初の一家死亡の現物である朝食からも薬物は検出されていない。どうやって家族全員に飲ませた?

 その謎をクリアするか、新たな証拠が見つからない限り、彼女が否定すれば絶対に有罪にはできない。いや、このままなら逮捕も起訴もない。彼女を擁護しないか? その頭の中には客観的な事実が山のようにあるんだろ? ……独占を獲れば、それはひとつのスクープだ。出世する。本になる。業界への革命になる。皆が熱病にうなされているうちに、俺たちだけは冷静になろうじゃないか」


 芝谷から吐き出された紫煙は流れ、雲一つない青空を不当にけがしてゆく。







 


 


 

 

 



 



 

 


 

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