第2話 『彼女の悩みとアヒルの本懐』

「おっふろ~おっふろ~♪」


 ん? 誰かの鼻歌か?

 少し調子外れなその旋律で、意識が戻る。

 お隣さんだろうか? いや、隣に住んでいるのは男だった筈。

 断じて、このような澄んだ歌声など奏でられない。

 すると、彼女でも連れ込んだのか? いや、それにしては声の出所が妙に誓い。

 まるで、自分の真上から響いているようにも聞こえる。


「はい、アヒルちゃんはそこで待っててね」


 ポンと、俺の敷いている布団ごと、移動させられた。

 いやいや、そんな馬鹿な。大の大人を持ち上げるなんて、クレーンでも使ったのか?

 とにかく、状況を確認しようと顔にかかっている布団をどけようとして、気づく。


 身体が、動かない。


 なんだこれは。

 どういうことだ?

 手足はおろか、指先どころか首すらも動かせない。


 脳裏に、半身不随の四文字が浮かぶ。

 もしかして俺は、知らぬ間に寝たきりになったのか?

 それでどっかの施設に入れられ、介護されていて、今こうして目覚めたとか。


 いやいや、勘弁してくれ。

 冗談じゃない。

 そんな不自由な生活は、まっぴらだ。


 それならいっそ殺してくれと思った、その時。


「お待たせ、アヒルちゃん!」


 バッと顔に掛けられていた布団を剥ぎ取られ、ヘルパーさんとご対面……と、思いきや。


 そこに居たのは、とても可愛い女の子。

 どう見ても介護施設の職員には見えない。

 何故ならば、彼女は一糸纏わぬ、全裸だった。


「よーし! お風呂にレッツゴー!」


 全裸の彼女は俺を小脇に抱えて、正面の扉を開いた。

 ここでも違和感。こんなか弱い女の子が、俺を小脇に抱えるだと?

 熟練の介護職員でも、要介護者の入浴は一苦労だと聞く。

 それをこんなに軽々しく、まるで小動物を抱くように……そこで理解した。


 正体不明の女の子の、異常な背の高さ。

 彼女が巨人でないのだとすれば、小さくなったのは俺の方。

 そして身体を動かせない今の状況を鑑みるに……よもや、まさか、本当に?


 自らの推理に自信が持てずに、どうにか確認しようとすると、目の前にうってつけのものが。


 浴室と思しきそこには、大きな鏡が設置されていた。

 そこに映るのは、抜群のプロポーションの可愛い女の子と、その小脇に抱えられた、俺の姿。

 

 いやはや……マジか。

 鏡を凝視して、愕然とする。

 そこには黄色いアヒルとなった、俺が居た。


 もちろん、リアルなアヒルじゃない。

 湯船で遊ぶオモチャとしてデフォルメされた、アヒルさんだ。

 俺を抱く女を見上げる。また鏡を見る。もう一度女を見る。


 間違いない。

 どうやら俺は、本当にアヒルになったらしい。

 要するに、詰まるところ、これは。


 夢が、叶ったらしい。


「はい、アヒルちゃんは先にお風呂に入って待っててね~」


 俄には信じ難いこの状況を受け入れられずに呆然としていると。

 ポチャッと湯船に投げ入れられて、焦る。

 浴槽の底に、足が届かない。いや、そもそも足がない。

 もがこうにも飾り物の羽は動かせず、このまま溺れてしまうと思ったら。


 お? 浮いてる。

 頭から湯船にダイブしたのに、ちゃんと水面から顔が出せた。

 そのことにひと安心して、今の自分の身体の構造を理解した。

 どうやらこの身体は中身が空っぽであり、それで浮力が生じているらしい。

 考えてみれば、湯船に浮かぶアヒルなのだから、当然だ。


 焦って損したと思って、いきなり湯船に俺を投げ入れた女に抗議の眼差しを送ると。


「むむっ? 最近、太ったかな?」


 なんて言いながら、身体を念入りに洗う、美少女の姿。

 いや、絶景哉、絶景哉。

 浴槽に放り投げられた怒りなど忘れて、うっとり。


 そこでまたもや身体の異変に気づく。

 なんということだ……全くムラムラしない。

 目の前でスタイル抜群な美女が身体を洗っているというのに、股間がピクリとも反応していなかった。


 これは由々しき事態である。

 せっかく夢が叶ったというのに、これでは何の意味もない。

 美しい光景に感動して、和んでいる場合ではない。

 もっとこう、沸き上がるものがないと困る。

 しかし、どれだけ食い入るようにその大きな胸を凝視しても、無意味だった。


「よし! それじゃあ、私もお風呂に入るね」


 そうこうしているうちに、女は身体を洗い終えたようで、ザブンと湯船に浸かった。

 水面に波紋が生じて、それに揺られながら、俺は心の中で泣いていた。

 常時賢者モードで美女と入浴して、いったい何の意味がある?

 生身の身体ならば、血の涙を流して悔しがっただろうが、今の俺はオモチャのアヒル。

 理不尽さに文句を言うことも、怒鳴ることも、叫ぶことも出来ずに、ただ静かに水面を漂うのみ。


 自らの無力さを痛感して、うなだれることすら出来ない。

 俺は、何のためにこの姿になったのか。

 そもそも、湯船に浮かぶアヒルの存在意義とは何なんだ。


 自分という存在の必要性すらも見失っていると、不意に女が語りかけてきた。


「今日も疲れたよ……アヒルちゃん」


 疲労感が滲んだため息と共に、女は俺を抱き寄せて、愚痴を吐く。


「やっぱり、会社の上司を振ったのが、いけなかったよね……」


 何の話だと思っていると、コツンと俺のくちばしと彼女の丸い額が触れ合い、記憶が流れ込んできた。


 親元を離れて、就職の為に一人でこの町にやってきたこと。

 慣れない仕事に戸惑いつつも、頑張っていたこと。

 そんな折、上司に言い寄られて、困ったこと。


 肥え太った豚のようなおっさんが連絡先を渡してきて、愛人になれと迫ってくる。

 既に結婚しているのにも関わらず強引に迫ってきたその豚の申し出を、彼女は断った。

 すると、閑職に追いやられ、来る日も来る日もお茶くみとコピー取りの日々。

 しかも、豚みたいな上司は未だに諦めておらず、彼女につきまとっていた。


「はぁ……こんな筈じゃなかったんだけどな」


 あからさま過ぎるパワハラとセクハラで、かなり参っている様子だ。

 就職した直後の期待と希望は打ち砕かれて、絶望と不安しか残っていない。

 それは、現実の俺の現状と似通う部分が多々見受けられて、同情する。


 無論、俺はパワハラはともかく、セクハラの被害には遭っていない。

 これは女性特有の悩みであり、それを完全に理解するのは難しい。

 それでも、上手くいかない、こんな筈ではなかったという気持ちには共感出来た。


 なんとかしてやりたいけど、出来ない。

 指1本動かせず、声も出せない今の俺には、この女の頭を撫でて慰めてやることすら、出来ない。

 それでも、もしこんな無力なアヒルに存在意義があるとすれば、きっと。


「あはは……アヒルちゃんに悩みを聞いて貰ったら、少し楽になったよ」


 ちょっと無理した笑顔で感謝の言葉を口にする薄幸の美少女。

 俺には何も出来ないけれど、ただ傍に居ることは出来る。

 口も聞けないけれど、何時間だって愚痴を聞いてやれる。

 それでこの可哀想な女の気持ちが、少しでも癒えるのであれば、本望だ。


 この日、柔らかな巨乳に抱かれながら、俺は湯船に浮かぶアヒルの本懐を理解したのだった。


「それじゃあ、もう寝よっか」


 風呂からあがり、俺はてっきり浴室に放置されるかと思っていたのだが、女はちゃんと回収してくれた。

 丁寧に水気を拭き取り、寝間着に着替えた彼女と一緒に布団にまで潜り込んだ。

 先程垣間見た記憶によると、どうやらこの女はアヒルをまるでペットの如く大事にしているらしい。

 家に居るときはいつでも一緒で、寂しい気持ちを誤魔化す為によく語りかけてくる。

 傍から見ればちょっと頭がおかしい女に見えるが、内情を知っているので無下にはできない。

 孤独なこの女にとってアヒルは、たった一匹の友達で、唯一の家族だった。

 それを知って、甘えを許さないほど、俺は狭量ではない。 


 もっとも、オモチャのアヒルである俺はそもそも動けないので、されるがまま。

 もう好きにしてくれと思いつつ、彼女の枕元で見つめ合う。

 なんだか気恥ずかしくなって、チラリと傍にあった時計に視線を向けると、もうだいぶ遅い時間だ。

 よもや、普段からこんなに夜更かししているのではあるまいなと、記憶を探ると、明日は休みらしい。


 そう言えば、暦の上では明日は祝日だ。

 俺の会社では祝日であっても出勤であることがザラなので、あまり意識をしてなかった。

 もちろん、明日も俺は仕事だ。本当に嫌になる。

 というか、このままずっとアヒルの姿で、どうやって仕事に行けばいいのか。

 ここに来てそんな不安がふと過ぎるが、考えないことにした。

 別に、どうしても仕事に行きたいわけではない。行けなければ、それでもいいさ。


「ずっと、傍に居てね……」


 ウトウトし始めた可愛い飼い主にそう言われると、それも悪くないと思えた。

 この先ずっと、彼女の傍に居て、一緒にお風呂に入れるならば、それ以上の幸せはないだろう。

 しかし、俺はそれでいいとして、この女はどうなる? 

 ずっと、悩みと孤独を抱えたまま、生きていくのだろうか?

 そう思うと、とても不憫になり、俺は気まぐれな神に祈った。


 どうか、俺に魔法をかけたように、この子にも望む夢を。


「むにゃ……素敵な人の、目覚まし時計に……なりたい、な……」


 俺が神に祈ったそのタイミングで、おかしな望みを口にする女。

 あまりに意味不明だったので、その理由が猛烈に気になった。

 だが、口が利けないので尋ねることは不可能だ。

 それでも、為せばなるもので、その思念はまどろむ彼女に届いたらしく、答えた。


「だって、そうすれば……毎日、頭を撫でて貰える、から……」


 そんな妄言を口にして、女は夢の世界へと旅立った。

 それと同時に、何故かアヒルである俺にも強烈な睡魔が襲ってきた。

 抗うことが出来ず、意識を失う間際、どれだけ馬鹿らしくても彼女の願いが叶うことを、祈った。

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