秋季
立秋。
秋である。紅葉を迎えるのもそろそろであろう、赤や黄を纏う山の美しさは壮大である。しかしこの夏、恐ろしい噂を聞いた私は少し混乱していたらしい。
後半に書かれた字はひどいものであった。
かろうじて読めるものを拾うと、友人から手紙を貰ったようだということらしい。日記というのに、「らしい」というのもおかしな話か。ともあれ、やはり内容は砂男についてで、奴もまったく飽きないな。
それにしても、噂をぱたりと聞かなくなった。
いや、私自身が外出する頻度がめっきり減ったからかもしれないが、それでも特に何も聞かなくなった。夏が去ると共に、かの悪魔も希臘へ帰っていったのかもしれない。
これで一安心だが、気がかりなのは砂男である。友人の悪ふざけかもしれないが、手紙の内容は毎回それであるのだ。警告か何かかもしれないと、そう思い始めた。思い始めてしまうと、私の性格上振り払うのは困難を極めた。まさか私を脅かして喜んでいるわけではないだろう、そんなはずはない。奴がそんな人間であるはずがないのだ。
ともあれ、遥々海の向こうからやってきた蝙蝠だか烏だかの人ならざるものは去ったことは、事実としてみてまず間違いない。それだけでも十分だ。これでようやく買い物にも出られる。
そろそろ、私をぐるりと囲んだ聳え立つ知識の山を離れるとする。
処暑。
妹が尋ねてきた。父が泣いているという。
そうか妹は父の夢を見るのか。
だが、私は盆に父に会っているのだ。心配するなと妹に告げると、妹は諦念さえ滲ませる様子で首を振っていた。その表情の悲しげな様子といったら、例えようもない。一体何が悲しいのだろうか。
実兄は一切の罰を回避し、ただ世界の果てまでも貪らんとしているだけであるというのに。はて、こうして書いていて思い至ったのだが、もしかすると妹は、私が仙人か何かのようになってしまうのを恐れているのではないだろうか。なんと、そのような心配など必要ないというのに。
次に尋ねてきたらはっきりと告げよう、兄はただ眠らないだけであるのだと。
眠るという無駄な時間の全てを、学びに費やしているのだと。
きっと妹は安心することだろう。楽しみである。
白露。
家の周りを走り回る男がいるので、庭を睨んでいる。
いい加減怒鳴ってやろうとしている。
温厚な私でも、我慢の限界であったのだ。毎朝毎晩、常に駆けずり回るその足音。耳について離れないのだ、ざりざりと砂利を蹴って歩くような足音が耳について離れないのだ。ざりざりざりざりと、喧しいといったらない。こうして綴る間も終始、やむことはない。
私が座布団から立ち上がって縁側へ出るとその足音はやむのだが、私が部屋へ引っ込むとまた走り出すのだ。家の周りをぐるりと回っているのだ。砂を敷き詰めたところを、すり足で走るようなその音……まさか、砂男ではあるまいな。
そんなものが実在するのだろうか。砂男というのは、独逸の友人の語る伝承に過ぎなかったのではあるいまいか。ああしかし、そう、そうだ。やはりそうに違いない。おそらくは、外を老いた男が走っているに違いない。背負った袋から、ざらざらと人を罰する砂を零しながら走っているに違いない。その音が響いているのだ。
なぜ家に入ってこないのだろうか。
玄関にはずいぶん昔に妹がくれた、どこであったか有名な社の御守が置きっぱなしにしてあったが、あれが何か、気に入らないのだろうか。入ってこないのならばいいが、それでも安心は出来ない。砂を投げ込まれるかもしれない。
雨戸を閉めておこう、気をつけねばならない。
もし、もし私が眠ってしまったら、私の頭にある書物が枯れてしまうような気がしてならない。朦朧とする意識は、あの外を行く男の仕業だったのか。
負けてなるものか。負けてなるものか。
秋分。
(頁が少し開いている)
京十郎へ。
砂男をめっきり見なくなったことをお前に伝えたく思う。毎晩のように砂を撒かれていたのだが、それがすっかりなくなったのだ。まさかとは思うがお前のところへ言ったのではないかと、少々心配になってしまっている。万一あの老人がお前のところへ行ったのならば、間違いなく、ところ構わず砂を撒き散らすだろうね。眠らないお前が羨ましくて、嫉ましいのだろうよ。知識を貪る大罪人だとばかりに、奴らはこれでもかとお前に砂をかけるだろう。くれぐれも、気をつけろ。遠い地にいる俺はお前の身を案ずることくらいしか出来ないが、どうか気をつけてくれよ。
寒露。
私はこの目を疑った。だが、事実であった。いたのだ、いたのだ、そいつは。
砂男だ。
初老の男が私の背後に立って、にやにやとしていたのである。初老かどうかははっきりしなかったが、この際どうでも良いことなのだ。私の背後に、いや、隣か。足元かもしれない、あるいは鼻先すぐ目の前かもしれない。
とにかく、いたのだ。砂袋を担いだ男が、いたのだ。白い袋を担いだ男がいたのだ。ゆえにまず、私は一呼吸を置いた後に鏡に向かって硯を振り上げた。粉々になる破片の一つ一つに男が映りこみ、不敵な笑みを浮かべていたが構わずに殴り続けた。すっかり硝子の落ちた鏡台を前にしゃがみこみ、砕け散った鏡の一破片ずつを表に返してみると、真っ暗で何も映してはいなかった。
砂男が本当に消えたのか、逃げただけなのか、未だに私には分からない。
だが、このとき私の部屋から出て行ったのは確かであろう。友人へ至急、手紙を出すことにした。内容は決まっている、ここへ砂男が来たことと、なんとか無事であることである。
今まで砂男の実在を否定したことへの詫びも添えることにした。
霜降。
徐々に冬も近くなり、木の葉がすっかり落ちてしまう頃になった。
私はといえば相変わらず昼間に窓辺から外を眺めては手元の書物に目を落とし、日が沈むと小さな明かりで書物を読んでいる。そして就寝前にこの帳面に一日を掻い摘んで記すのだ。一日の覚書とも言えるかもしれない。様々な歴史を知ることは大変興味深いが、異国ともなると固有の名詞が理解できない。しかしそれでも、時を忘れるほどに夢中になれた。
希臘のあの枝の男には息子が三人いるらしい。
それらは父親が眠らせた人間にとりついて、時間という時間を貪るという。長男は安楽を与え、人を惑わす。二番目は恐怖を植え付け、人を惑わす。末は非現実を見せ付けて惑わすというのだ。海の向こうはなんと恐ろしいのだろうか。
ここにこう記すことで、どうか妹や友人、両親が惑わされぬようにと願ってやまない。
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