夏季

立夏。


 夏である。夏の訪れが、微かに遠く聞こえている。

 爽やかさよりも、肌にまとわりつく重たい、あの暑さが先にやってくる。夏というのは、あらゆるものが熱を孕み、それを放出しあるいは溜め込み、蒸発する水分さえもほのかに暖められているものである。

 まだ春の移ろいが残る空模様であるが、しかしじきに暑くなるだろう。あっという間に暑くなるに違いない。汗ばむ昼間に私は、部屋に吹き抜ける涼やかな風が揺らす、風鈴の音色に耳を傾け、外を走り回る足音に咳払いをする。夜がくればまだ春の名残の残った清涼な空気を肺いっぱいに吸い込み、書物に目を落とすのである。

 しかしそれにしても昼間はやかましい、夏ともあって近所の子どもが騒ぎ回っているのだろう。そういえば、友人からの便りがぱたりと途絶えてしまった。郵便受けは毎日覗いているから、気づかないはずがないのに。

 どうかしたのだろうか。

 いや、まあ、あれはもともといい加減な奴で、まめな連絡を寄越したことはないから、そう心配することはないだろう。

 ははあ、さては砂男にでも砂をかけられたかな、馬鹿な奴だ。


小満。


 さて、私は私の部屋を片づけることにした。

 傍らに積んだ書物は左右、峨々たる稜線さえ思わせるほどに積みあげられている。これではこれから訪れる梅雨の、湿った空気に淀む室内に耐えられないだろうことは明白であった。

 書物は増えていく一方で、私がいくら内容を消化しようとも消えやしないのだ。この頭の中の蔵書と、部屋に積まれた霊峰が如くの書物たちとは同一であると誰が思うだろうが。だが事実であるのだ。この頭の中を駆け巡る単語一つ一つは、まるで銀河のきらめきか何かのように、星の誕生のように、神秘的でありそして絶対的であるのだ。いうなれば、この部屋は私を中心としてぐるりと回る天空とでもいえよう。その惑星の一つ一つを突いて、私は片付けてゆく。

 燃え尽きた星たちをそっと摘み取り、まとめ、そうして元のように置きなおした。

 美しき、霊峰が私を囲っている。


芒種。


 長い雨が続く。

 姿見を覗くと虚ろな男が私の傍らにひっそりと寄り添っていて気味が悪い。砂男かと問うと、男の口がもそもそと動いていた。まったく気味が悪い。

 そういえば、夢魔という悪魔がいるというのを知った。

 眠っている人間を襲うらしいが、私には関係のないことである。眠りとは無縁であるのだから、当然だ。眠らないことがどれほど素晴らしいか、それは夢魔とやらに襲われないということだけでないことは明らかだろう。眠りの時間を書物を追うことに費やし、あるいはこうして書き綴ることにあて、私はあらゆる生物の中で最も賢くあるのではないだろうか。いいや、それは驕りか。

 だが、それほどまでに、私は完璧に近いと思うのだ。

 誰よりも長く、この生を謳歌しているのだから。しかし片付けたはずの山がまた左右に積まれている、これはなかなか困ったものだ。黴などにやられてしまわないことを祈るばかりである。

 まあ、霊峰が黴などに、負けるはずがないのであるが。


夏至。


 書物が食われてしまった。奴らの餌食になってしまった。

 だが、幸いなのはそれら全てが私の頭の中に、既に収められているということである。しかし、それにしても暑い日が続く。これからもっと暑くなるだろう。日に日に、太陽が照りつける時間が長くなっている。

 今日などは私の部屋から見える夕日が、いつまで経っても沈みやしなかった。地平線の向こうを燃やして、地獄の猛火に舐められているようであった。あのときのいい知れぬ不安感というと、それは睡魔という悪魔に襲われるのではないかという不安と同様のものであった。いいや、眠りの方が恐ろしいか。それ以外に私が恐れるものといったら母の視線……違う。母は優しい人であったから、恐れるものとは程遠いものであろう。

 しかしそれにしても、外がまだ燃えているようにやかましい。砂を踏むような足音が重なり、不協和音を奏でている。気の滅入る話である。昼夜問わず耳障りな雑音を聞いていなくてはならない。

 静寂の夜は、いつしかやかましい夜に変じていた。


小暑。


 気味の悪い話を耳にした。この付近に妙な男がいるらしい。

 黒く伸びた髪を束ねることもなく背に流し、その背を丸めてぶつぶつと何かを呟きながら歩いているらしい。他人の垣根の小枝や低い街路樹の枝を手折っては捨て、手折っては捨て歩いているらしい。

 いや、今私は気付いた、気づいたのである。手折って、捨てているのではないのだ、その男は。枝を手折って、それを己のものにしているのに違いないのだ。

 とすると、その黒髪の怪しげな男は、間違いない。欧州の南東、希臘より遥々、おそらく丸めた背中に隠した翼でもってやってきたのだ。小枝で突いて人を罰し、罪深き存在であることを知らしめる男がやってきたのだ!

 なんということだ、なんということだ。

 私は自室で落ち着かない思いでいる。今この筆先も震えてしまって、額に浮かぶ汗は暑さのせいだけではない。きっと私という存在に気づいたのだろう。生きるという罪を犯しながらも罰である眠りを放棄し、知識を貪る私という存在に、気づいたのだ! 部屋の戸締りはしっかりとしておかねばならない、風鈴の音など聞いてはいられない、窓をぴたりと閉め、どうしたものか、なんということか、文机を前に私は頭を抱えている。

 外に出て鉢合わせてはたまらない、これはしばらく外出を控えるべきであろう。幸い、新しい書物を買ってきたばかりであるのだ。

 火のないところに煙は立たぬ、警戒するに越したことはないだろう。


大暑。

(ひどく文字が乱れている)


 夏ももう終わりである締め切った部屋の中、私はただ文字を追う、理解する、堪能する。誰かが戸を叩くがどうせ砂男であろう。独逸の友人からの手紙を書かねばならないな。ああそうだ、そう、やつはまめな男だった、そうであるはずだった、なぜか私は一人ではないのだから。


 (ここで白紙の頁が続く)



 京十郎へ

 砂男を知っているか、俺は……


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