君に恋したこの町で -2
人の体を得て初めて知ったのは、苦痛だった。
あの日も雨が降っていた。木の葉を叩く雨音は優しかったが、雨は気温を下げ、雨粒に当たり続ければ体温も下がるのだと知った。
首を、絞められた。
首を絞めたのは、あの子の父親だった。
あの子を食べて少年の姿になってから、まず人の体の重さに驚いた。水に沈もうとする体をあちこち動かしてなんとか浮上できた。四つん這いになって岸辺に上がり、飲み込んだ水を吐いた。鼻も目も喉も苦しかった。これが人の体。人の重さ。命の重さだ。けれどもう、あの子はいない。息を切らしながら、掴んでいた懐中時計を握りしめた。
空を仰ぐ。そこには見慣れた曇天が雨を降らしていた。水から逃げてもまた水がある。ぼんやりと雨に当たっているうちに、寒気を感じた。人の子どもは時々風邪をひく。風邪をひいたら、遊ばずに数日間眠っている。それは困ると周囲を見回した途端、目が合った。
男がいた。ボクを凝視していた。腰を抜かしたのか立ち上がれなくなっている。口をぱくぱくさせて何を言っているのかわからない。
あぁ、そうだ。こいつはあの子の父親だ。
湖畔で叫んでいた人だ。懺悔を繰り返し、あの子を何度も呼んでいた。男は蒼白になっている。もしかしたら、上手くあの子の姿になれていないのかもしれない。体を見回し、おかしなところがないか確認した。大丈夫。ちゃんとあの子になっている。それなら、なぜあの子の父親はボクにあんな視線を向けてくるのだろう。
まるで、怯えているみたいだ。
「……父さん?」
試しに呼んでみた。
男は引きつったような声をだし、お尻をつけたまま後ずさった。
「父さんってば」
足を踏みだすと、男は叫んだ。
「くっ、くるな!」
拒絶された。
ボクはあの子の姿になっている。声も変わっていない。あの子はよく笑っていたのを思い出し、笑いかければ男は頬を痙攣させた。
「なんで、どうして、生きているんだ」
あの子は死んでいる。成り代わっているボクに、どうして生きているんだと聞かれても答えられない。黙っていればそれが答えだと思ったのか、震える声で言い放った。
「違うんだ! 誤解なんだ!」
突然、弁解を始めた。
「仕方なかったんだ! 俺は金がない。けれど家は貧乏だ。連れ子のお前さえいなくなれば、家計は楽になるんだ!」
男は唾を吐きながらまくし立てた。頬を痙攣させたままボクを見上げる。仕方なかった、こんなはずじゃなかった、許してくれと湖の中で聞き飽きた単語をぶつぶつと並べ立てた。
「だから」
男はゆっくりと立ち上がった。歩み寄るたび、男の長靴にべちゃりと泥がまとわりつく。この体よりも大きな泥の足跡をつけて来る。
「もう一回、死んでくれ」
歪んだ笑顔は、雨よりも冷たかった。
両手で首を掴み、ボクの首を絞めた
何が起こっているのか状況を把握できなかった。容赦なく降り注ぐ雨が全身を叩く。男の手は濡れているのに熱かった。ごつごつした感触は子どもにはないものだった。大人の手は大きくて、子どもの首は細いのだと感心した。
手首を掴み、爪を立てたがびくともしなかった。ぎりぎりと絞めてくる両手から逃れられず酸欠状態に陥った。
「化け物め、化け物め、化け物め」
そうか。ボクは化け物なのか。
ボクは異世界の住民で、人ではない存在だ。人の輪から外れた存在は除け者にされる。学校という世界でそういう掟があるのだと学んだ。
人の子どもにとって学校が全てだ。学校しか世界なんて知らない。他の世界に目を向けろなんて言われても難しい。だって、それしか知らないのだから。他にどこに行けと言うのだろう。
たとえ違う場所に行ったとしても人はいる。人の輪があって掟がある。守らなくてはいけない規律があり、守られることで保たれる社会がある。
だから、その社会から外れた存在は、ボクみたいな妖精は、人に受け入れられなくて当然だ。
ボクは化け物なのだから。
それじゃあ、あの子は化け物だったの。
あの子は、人だったのに。
そうか、ボクがあの子を化け物にしたんだ。ボクがあの子を食べたから。成り代わったから。もし、食べなければあの子は人のままで死ねたのに、ボクが食べたせいで化け物扱いを受けて父親に殺されかけている。
成り代わるなんて始めから無理だったんだ。
ボクは「ボク」でしかいられない。
ボクは誰にもなれない。
だって、ボクは。
酸素を求めるために開いた口は、故郷の言葉を紡いでいた。掠れた声でもあいつらには届く。あいつらを呼ぶきっかけを作ったのは男自身だ。
『ぎぎぎぎぎぎぎぎぎ』
男の背後に、目玉が飛びだした黄緑色の魔法生物が大口を開けていた。
男が振り返った瞬間、ぐちゃりと目玉が抉られ、悲鳴が上がった。水面に浮上していたホタル魚の群が男に飛びかかった。
両手から解放され、息を吸い込む。立つことすらできず、その場に座り込んだ。
雨は降り止まない。
ホタル魚に覆われた男は徐々に小さくなっていく。高かった背が縮み、泥がついた長靴を履けなくなり、首を絞めた大きな手は噛み千切られていた。がりがりと咀嚼する音が雨に混じった。
食事を終えたホタル魚は、目玉を引っ込めさせ、煌びやかな姿に戻って湖に帰って行った。
あとに残ったのは、男の服と鉄の臭いに満ちた湖畔だった。
雨は、この血液さえも流すのだろう。
もう一度、空を仰ぐ。顔に雨が当たる。全身で雨を受け止めながら、ふと気づいた。
ボクは、誰にも望まれずにここにいるんだと。
決行は明日と彼女と約束した。
夕方頃、雨降り町は大荒れになった。横なぐりの風が吹き、大粒の雨が降り注いだ。雨風だけでは物足りないのか雷も鳴っている。この荒れ模様だ。ボクを捜索するのは困難だろう。ほっとした反面、心の隅で期待している自分に気づいた。風が唸り、壁を叩いている。石壁の物置小屋は耐えてくれるのだろうか。息を吐き、膝を抱えて丸めた体をさらに小さくさせた。
明日、ボクは彼女と魔法を解く。
空が晴れればボクは消える。この町からいなくなる。忘れて欲しいのに忘れて欲しくない。矛盾する感情に揺らされ、頭が泥水のようにぐるぐる回る。ボクは化け物だ。あの子の父親に言われた通り、異質で異形だ。人の輪から外れた存在だ。
住民からあの父親と同じ目で見られてもおかしくなかった。けれど、この姿に甘えてボクは「ボク」で居続けた。
帰るべきなんだ。
帰るべきなのに。
人が恋しいよ。
早朝に落ち合う約束をしてから彼女と別れた。
赤毛とおさげは帰っただろうか。心配性の母さんは泣いていないだろうか。妖精の世界に帰れば、お気に入りのホットチョコレートが飲めなくなる。あれこれ思い返して、やっぱりこの町が好きなのだと自覚した。どうしようもなく惨めになった。
次第に雨脚が強くなり始める。返して貰った蝙蝠傘を差しても横風が吹けば意味がない。聖堂を出て他に凌げる場所がないか探し歩いた。そのうち、石壁で作られた小さな小屋を見つけた。錆びついたドアを開ければ、庭用具が詰め込まれた小屋だとわかった。そこだけ時間が止まったような、おいていかれた物たちの匂いで満ちていた。風が収まるまでここにいよう。明かりのない小屋の中でうずくまり、風が叩く音に瞼を閉じた。
赤毛がボクを見つけた日も、こんな雨だった。
あのときのボクはただの妖精だった。人には見えない存在は、豪雨だろうが雷雨だろうが関係ない。濡れなけば風邪もひかないから、どんなに雨に当たっても気にならなかった。
夜の雨降り町は沈んでいるようだ。真っ暗な夜が町をすっぽりと包み、絶え間なく雨が降り注ぐ。暗い世界に広がる雨の世界は、仮住まいにしていた湖の底の町と似ていた。
子どもが眠っている間は遊べなくなる。それなら、朝まで一人遊びをしよう。思いついた日から、夜の雨降り町を駆け回り、子どもが夜更かししていないか窓を覗き、水たまりを踏んで遊びながら朝を待った。
だから、声をかけられるなんて予想していなかった。
最初は勘違いだと思った。ボクは見えない存在だ。子どもの輪にこっそり交じって遊ぶ妖精だ。認識されないのが当たり前で、今まで疑問すら抱かなかった。
それを壊したのは、赤い髪の子どもだった。
雨は、魔法を連れてくる。
魔法の雨の気まぐれなのか、ただの偶然だったのかは知らない。
ただ、あの日、見えないはずのボクをあの子どもは認識した。
混ざっていいかと尋ねられた。
輪に入れて欲しいと言ったくせに、赤毛の子はちっとも楽しそうに見えなかった。たいていの子どもは、期待と不安が混ざった目で尋ねている。赤毛の子には、期待がなければ不安もなかった。寂しさが占めていた。
人は雨を嫌う。雨に当たり続けると体調が悪くなる。雨をしのぐために安全な家を建て、居心地の良い部屋を作る。赤毛の子も同じだ。同じはずなのに苦しそうだった。しかも夜中だ。子どもは寝ている時間だ。なぜ赤毛の子が起きているのか、寂しそうにしているのかわからなかった。ボクみたいに透明ではないのに。一人じゃないくせにどうして寂しそうなんだ。
困惑して固まっていたら、赤毛の子は泣きだした。人の子どもが目の前で泣くのも初めてだ。赤毛の子が窓を閉めて姿を隠す。慌てて窓に近寄り、窓ガラスに額をくっつけた。うずくまった小さな背中は小刻みに肩を震わせていた。触れたい。でも、できない。どうしてこの子の背中を撫でる温かい手がないのだろう。透明な手を握ったり開いたりしてみる。人と同じかたちをしているのに、人じゃない。太陽に当たったら消えてしまう脆い存在。
ボクにできるのは、伝えることだけ。
誰も知らないだろうけど、ボクは欠席せずに毎日授業を受けている真面目な生徒なのだ。幼い子どもができる程度の読み書きはそこで学んだ。
窓に小石を投げ、赤毛の子が開けた瞬間に紙を放り投げた。紙に文字を書いて想いを伝える行為を「手紙」と言うらしい。それじゃあ、ボクは初めて手紙をしたんだ。
赤毛の子にボクの言葉は届いただろうか。
返事をもらう前に、ボクは去った。
※ ※ ※
吹き荒れる雨風に混じって誰かが叫んでいる。暴雨に喧嘩を売っているみたいだと思ったところで目が覚めた。いつの間にかうとうとしてしまったらしい。人の体は疲労が溜まる。休まなければ壊れてしまうのはなかなか不便だ。
雨音は先程よりも落ち着いたが、風はまだ唸っていた。風の中に聞き覚えのある声が混ざっていた。
「ムギ! どこだ!」
立ち上がり、ドアに駆け寄る。耳を当てればあいつが近くにいた。
「出てこい! ムギ!」
赤毛だ。暴風の中、声を張り上げ、走り回っている。叫び続けた声は次第に震えてきた。
「どこに行ったんだよ! お前が先に行くなよ!」
最初、町から出て行くのは赤毛が先だったのに、ボクが出て行くことになってしまった。ポケットの懐中時計を握る。鎖を掴んだ手はやっぱり剥がれていて、透き通った皮膚はボクが人ではない存在であることを示していた。
ボクは、「ボク」でしかいられない。
「赤毛」
両手を扉に添え、額を押し当てる。
「……ムギ?」
暴風に攫われてしまいそうな声音は、あいつの耳にちゃんと届いた。
赤毛はいつだって気づいてくれた。ボクが妖精だったときも、怯えず、話しかけてくれた。
ボクを、見つけてくれた。
「ムギ、そこにいるのか?」
「赤毛、ごめん」
「なんで謝るんだよ。ほら、早く帰ろうぜ」
「だめだ!」
扉を開こうとした赤毛に、鋭い制止の声を上げる。びくりと止まった気配がした。気まずい沈黙のあと、扉が軽く叩かれる。耳を当てているのかもしれない。
「どうした? 怪我でもしているのか?」
「ボクはもう帰らなくちゃいけないんだ」
「どこにだよ」
「遠いところ」
「だから、どこだよ」
扉の向こうから赤毛の息づかいが伝わってくる。走り回ったのだから、呼吸が乱れていて当然だ。風は変わらずごおごおと唸っているのに、それ以上にボクの心臓がばくばくと鳴り響いていた。深呼吸をする。静かに息を吐き、扉の外にいる赤毛を見つめた。
「ボクが帰るべき場所。赤毛にはいけないところだ」
「どういうことだ」
「信じてもらえるかわからないけれど、ボクは、人じゃない」
「何、言っているんだ?」
予想通り、赤毛は戸惑っていた。突然こんな話をされてすんなり受け入れられるわけがない。たとえ受け入れられたとしても、今までと同じように接することはできないだろう。今度こそ嫌われて、怯えられる可能性もある。
それでも、別れは来るから。
ボクは言わなくちゃいけない。
赤毛は、おさげは、「けんしょうごっこ隊」は、ボクが「ボク」でいられた唯一の場所だったのだから。
さよならを告げなくちゃ。
「ボクは、妖精なんだ」
全てを告白しよう。ここで躊躇ってしまえば、もう言えなくなるような気がした。何も言わずに去るより話してからのほうがいい。それが独りよがりな自分勝手な行動だとしても、ボクの心は納得できた。
赤毛はボクを見つけてくれた。誘ってくれた。友達になってくれた。ボクを認めてくれた人間がいる。それだけで、こんなにも心強くなれる。
「妖精っていうのは、いつの間にか子どもの輪に交ざっているだろ。ボクもそれなんだ。でも、透明じゃないのは、この体の持ち主を食べたからなんだ」
「食べた?」
「そう、食べた。死にかけていた子どもを食べたんだ。妖精は食べた人の体になれる。この子と成り代わったんだよ、ボクは」
この子の味は覚えていない。記憶に残るのは、最後まで母を心配していた青の瞳だった。
「そいつは嫌がっていたのか」
「いや」
「あんたに怯えていたのか」
「いなかった」
赤毛が笑った気配がした。
「俺、ムギが怖くない」
「は?」
「妖精だかなんだか知らねぇけど、ムギが他人に甘いのは知っている。食べたのも理由があったからだろ。ムギはムギだし、これからもそうだ。だから、勝手に帰るとか言いだすなよ。この町の秘密だってまだ解けていないだろ。ホタル魚、すっげぇ怖かったけど面白かった。あぁいう体験もいいよな。皆に自慢できる。それから」
「赤毛」
赤毛は口を閉じる。扉越しから低い声が落ちた。
「おさげちゃん、泣いていた。自分のせいだって」
「ごめん」
「行くなよ。勝手においていくなよ。お前が元気な姿を見せれば、おさげちゃんだって」
「ごめん」
「妖精って、気に入った奴を連れ去るんだろ。だったら」
「ごめん」
乱暴に扉に拳がぶつけられる。
「どうしてだよ! なんでだよ!」
「ボクは人じゃないからだ」
「知らねぇよ! お前は、俺の友達だろ!」
赤毛の声は震えていた。赤毛のことだ。扉の向こうで顔を濡らしているくせに、ボクが現れたら腕で拭ってなんでもないような素振りをするんだ。いつものように減らず口を叩いて意地悪な笑みを浮かべるんだ。たくさんの不安を抱えながらも、あいつも自分の居場所を捜していた。誰かに認めてもらえることで自分の存在を確認したかったのなら、それはボクも同じだ。
赤毛はそういう奴で、最初のボクの友達だ。
「あぁ、友達だ。これからも、ずっと」
扉を薄く開ける。冷たい風と一緒に雨粒も入り込んできた。顔はださずに、懐中時計を握った手を赤毛に突きだした。
「やるよ。友達の証ってやつ」
「ムギ」
ボクの剥がれた手を見て息を呑んだ。これで少しは信じてくれただろう。
「見てろよ。明日、この時計を正しく回る時計にする。約束、果たすから」
鎖から手を離せば、赤毛は確かに懐中時計を受け取ってくれた。
「おさげを頼む」
「……わかった」
もう行けよと閉めようとした途端、赤毛は足を扉に挟んできた。勢いよく開けられる。隠れていたボクの顔が晒される。飛び込んできたのは、目を腫らしているのを感じさせないくらいの満面の笑顔だった。
「約束、果たせよ! 隊長命令だからな!」
「……うん」
思わず頷くと頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。
「お前、俺より字がうまいよな。ちょっとむかついていた」
「は?」
「じゃあな!」
雨風の中、颯爽と走っていく。外を出れば、すでに小さくなった赤毛に大きく手を振られた。
「ムギー! お前、あの姉さんのこと好きなんだろー! 帰る前に告白しとけよ!」
「あぁ!?」
何、言っているんだ。あいつ。
扉を閉め、寄りかかったままずるずると座りこんだ。濡れた髪の毛をかきあげ大仰な溜息をつく。
「あいつ、最後までボクを年下扱いしやがった……」
それなのに、ふやける顔が抑えられなかった。不思議と悪い気はしなかったのは秘密だ。
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