君に恋したこの町で
ボクは、ここにはいられない。
一度剥がれた皮膚は元には戻らなかった。所詮、この体は偽物だ。あの子を食べて模倣できるようになっただけでしかない。皮膚が剥がれたのは、おそらく場所が原因だろう。妖精は雨の日でなければ人の世界に現れない。ボクが存在し続けているのは、雨降り町の魔法の雨のおかげだ。けれど、湖付近に雨は降っていなかった。少なくともその影響で魔法が解けかけたのだろう。
雨が降ってきたおかげで冷静になってきた。彼女の腕から放れ、取られた蝙蝠傘を奪還すべく手を伸ばしたが腕を上げられてしまった。
「お姉さん、ボクだけじゃなくて自分にも差して」
「ワタシは人形。ぬれてもかぜはひかない」
「それなら、ボクは妖精だよ。濡れても風邪はひかない」
彼女は首を傾げた。雨に濡れた緑の前髪がぺったりとおでこに張りついている。ボクを逸らさずに観察しながら、彼女なりに考えているようだった。
「人の生活に慣れすぎたんだ」
「どういうことだ」
「雨が降っていない場所に行ったから、魔法が解けかけたんだと思う」
母さんが編んでくれた緑色のマフラーで口元を覆う。少し息苦しいが、これで頬は隠せるはずだ。手袋は持っていない。コートのポケットに手を突っ込んでみたが、この状態を保ち続けるのは難しいだろう。手と頬の皮膚が剥がれて透明な体が露わになっているが、服の下も剥がれている箇所があるかもしれない。
「め、あおいろ」
彼女に指摘されてすぐさま水たまりを見た。雨に当たって水面は揺らめいていたが、おぼろげながら色は認識できる。屈めば見慣れた青色がボクを覗き込んでいた。
「……もどってる」
「あかいめになるまえ、なにがあった」
「何があったって」
目が赤くなっていると気づいたときには皮膚が剥がれていた。その前はホタル魚と対峙していた。そうだ。ホタル魚を追い返そうとしたんだ。
だってあいつらは、ボクの友達を襲ったから。
「ホタル魚をめちゃくちゃにしてやろうって思った」
「ころしたのか」
「殺してないよ」
彼女だって見ているはずだ。無抵抗になったホタル魚が湖畔に転がり、会話をしている隙に湖に帰って行ったのを。
「妖精の世界の言語で驚かしただけ。ボクが上だって示したかったんだ」
「少年はおこったのか」
否定はしない。頷けば、彼女はボクの頬に触れ、眦を親指で軽く押さえた。
「あめがふっていない、えいきょうも、あったのだとおもう。それに少年は、とてもおこった。おこったから、こころがみだれて、からだにえいきょうがでた」
魔法の雨が降っていない場所に行っただけではなく、怒りのせいで体に変化が現れたのだと言う。その理由がわからず、整っているのに完璧ではない人形をまじまじと見つめてしまった。
「それはとても、ひとらしいおこりかた」
ほんの一瞬、笑ったような気がした。
慌てて彼女の手を振り払う。まただ。また、頬が赤くなっている。マフラーで顔半分を隠していて正解だった。
「人らしいって」
「ワタシにはそれができないから、少年がうらやましい」
どこが羨ましいんだと言いかけてから、口を噤んだ。
彼女は、人の娘になろうとしてなれなかったのだから。
「……やっぱり、お姉さんにも心はあると思うよ。心なんてなかったら羨ましいなんて思わないだろ」
切望も激怒も心があるから感じられることだ。彼女の体は人形でも、心は人だと思う。表情が乏しく言葉が拙くても思いやりがあった。言動ひとつひとつが優しかった。慰めじゃない。本心からだ。
「少年は、ワタシにやさしいことばを、たくさんくれる」
「それはお姉さんだって……」
彼女を直視できず、目が泳いでしまう。鼓動が激しく鳴っている。人の体は時折異常を起こす。心と連動しているからだろうが、それがどのような関係によって影響してくるのか未だに理解できなかった。
不意に頭を撫でられた。
「少年、たいせつなともだちが、まっている」
赤毛とおさげが心配しているのだろう。おせっかいなあいつらだ。ここに来るかもしれない。
手袋をはめた手が差し出される。行こうと彼女は誘う。ボクは固く拳を握り、頭を振った。
「いけない」
「少年」
「ボクはもう戻れない」
「だが」
「お姉さんだってわかっているだろう」
今のボクの姿は異常だ。マフラーで頬を隠し、手をポケットからださずに過ごすなんて無茶だ。どんなに隠していても、いずれ秘密は明かされるときがくるだろう。彼女だってずっとここにいるのは難しいとわかっているはずだ。
「こどもたちは、やさしくていいこだ。きっと少年を、うけいれてくれる」
淡い期待を抱かせようとしてくる言葉は魅力的だったが、ボクはやっぱり首を振った。
「この雨が止む方法を知っているんだろう」
「しっている」
「教えてくれ」
確認するかのように金の目が迫った。
「いいのか。少年は、ここにいたいんだろう」
「もう無理だよ」
彼女はボクが寂しそうに見えたと言った。たったそれだけの理由で魔法の雨を止める方法を知っていたくせに黙っていた。他者を優先しようとする心優しい魔法人形を悲しませないように、できるだけ精一杯の笑顔をつくった。
「だから帰るんだ」
黙り込んだ彼女に問いかけた。
「そういうお姉さんはどうなの」
「……ワタシは、少年といたかった」
どういう意味かと尋ねる前に、手を引かれていた。
※ ※ ※
湖畔から離れ、魚の影に罰印が描かれた立て札を通り過ぎ、町の痕跡が残る道に連れて行かれた。彼女は来た道を戻っている。手を振り払おうとしても放してくれなかった。赤毛とおさげに会ってしまうと抗議すれば、何かあったらすぐに大人に伝えられるよう幽霊バスのバス停までに行くように言ったと返ってきた。
連れて来られたのは、廃墟になった聖堂だ。湖に行く途中に覗いたのを覚えている。骨組みしか残っていない屋根は雨宿りをするには適していなかったが、ボクは彼女と長椅子に腰を下ろした。雨が規則的に蝙蝠傘を叩く。
「少年はどうしたい」
「ボクを行方不明ってことにしてくれないか」
湖畔にボクはいなかった旨を赤毛とおさげ、それから母さんに伝えて欲しいと頼んだ。
「わかった」
彼女は先程のように念を押さず、素直に了承してくれた。
「少年はこのがれきのあるばしょで、かくれていたほうがいい」
確かにひとけのない場所で隠れていたほうがいいだろう。彼女の考えは納得できたが、いい返事はできなかった。
おせっかいなあいつらは、ボクを捜しに来るかもしれない。もし、母さんも来たら。
「あのさ」
住民が捜しに来る可能性もある。ここにいないほうがいいんじゃないかと意見しようとして、止めた。代わりにそっと息を吐く。
「……帰る前に、遠くからあいつらと母さんを見たい」
ここでかくれんぼをして勝つ自信がなかった。
それならいっそ自分から会いに行けばいい。ほんの一瞬だ。物陰からみんなを見て立ち去ればいい。
彼女は肯定も否定もせず、感情が読みにくい顔で項を指した。
「このとけいは、ワタシのしんぞう」
首筋には正しく回る時計が嵌め込まれている。
「このとけいを、とけいとうの、あるばしょに、はめればいい」
「時計塔の?」
「そうだ。イマードが、このまちにあめをふらせた」
だから魔法の解き方を知っている。その後に続いた話に驚愕しつつも納得しているボクがいた。
昔、この町を雨降り町にした魔法使い。恵みの雨を呪いの雨にした人物。止まない雨のせいで人々は高台に移り住み、町は沈んだ。その町はホタル魚が棲息する湖となり、魔法の雨は人と妖精の世界の境界線をあやふやにしてしまった。
彼女が魔法使いに作られたと聞いた時点で怪しんではいた。この魔法人形はガラクタ山で眠っていたのだ。どれくらい眠っていたのかは知らないが、ボクが指摘するまで球体間接を隠そうともしなかった。もし誰かがこの町に連れて来たとしても、住民が魔法を恐れているのを知らないのは危機感が薄すぎる。
「イマードとどこに住んでいたか覚えている?」
「もりにいた、きおくが、すこしある」
例の魔法使いは森の奥に住んでいたとされる。雨の魔法を解くよう町長が頼みに行ったときには、すでに家はもぬけの殻だった。住民で捜索したが魔法使いはどこにもいなかった。
「イマードはどこにいったんだ?」
「ここではないどこか」
曖昧な答えだ。訝しげに見返すと彼女は言い直してくれた。
「きっと、ほんとうの、むすめにあいにいった」
その場所が、ここではないどこか。
「イマードはむすめにあうために、まほうのあめを、ふらせたのだとおもう」
「ここではないどこかって」
「少年のこきょうだ」
あぁそうかと得心した。
妖精の世界は、人にとって異郷だ。憧れと畏怖がこめられた未知の世界として語られている。
行方不明者が妖精の世界に連れ去られたと囁かれるのは、死の世界に旅立ったことを示唆していた。大人は適度に嘘をつく。この町の子どもを守るためなのか妖精のボクが知るよしもないが、魔法と妖精の世界に恐怖心を持たせることで近づかないための枷をつけていたのだろう。
成長していくうちに、子どもは少しずつ大人の嘘を理解していき、やがてボクのような存在が必要なくなる。
けれど、稀に、本当に妖精の世界が死後の世界だと信じたまま成長する大人がいる。
彼女に古の言語を教えたのは、おそらくイマードだ。イマードは、魔法に興味があっただけの人だったのだろうか。おさげやおさげの姉にように、魔法という忌避すべき対象を知ろうとしてしまったからこそ人の輪から外された。
けれど、イマードは人だ。寿命のある生物だ。
「妖精の世界に行ったって、会えないよ」
妖精のボクからすれば失笑ものだ。
妖精の世界は死後の世界ではない。人の魂は妖精の世界には行かない。肉体から離れた魂は消滅するか、ボクすら知らないここではないどこかに逝くのだ。
そもそもボクは、魂の行方に興味がなかった。
「それでも、しんじたかったんだ」
「この町の大人は、何かあればすぐに魔法やボクの世界のせいにする。イマードが死んだのか本当に妖精の世界に行ったのかどうでもいいけど、娘に会うために雨の魔法を降らせるなんて馬鹿じゃないのか」
「しんじたかったから、それをかくじつなものにしたかった。よりどころがほしかったんだ。ワタシをつくったのもおなじだ」
「勝手だよ。その雨のせいで、境界線があやふやになって迷惑しているのに」
吐き捨てたボクに、彼女の金の目が穏やかに微笑んだ気がした。
「あぁ、ひとはかってだ。でも、ワタシはあいしている」
「人形だからか」
「どうだろうな」
ボクが知る限り、人形は人に愛でられるために作られるそうだ。けれど、彼女はイマードの娘になるために作られ、その役目を果たせずに捨てられた魔法人形だ。
「ねぇ、愛ってなんだと思う?」
「あいての、しあわせをねがうこと」
それは、ボクが知る愛とは違っていた。
「ごめん。わからないや」
「少年も、あいしているぞ」
彼女は正直者だ。隠し事はしても嘘は吐かない。ボクのように捻くれていないから、嘯く必要もない。純粋で真っ直ぐな感情を何よりも欲しいと願ったはずなのに、いざ向けられてしまうと困惑してしまった。
ボクはこの町の仲間に入れて欲しかった。ボクという存在を受け入れて欲しかった。それが愛だと思っていたのに。
どうして満たされないのだろう。
「しんぞうを、たくせるぐらいに」
魔法の雨が止めば、彼女はただの人形に戻る。その魔法の雨を解くには、彼女の時計が必要らしい。けれど時計が心臓だと言うなら、それを抜き取った時点で彼女は動かなくなるのだろうか。
「……時計を取り出したら、お姉さんはどうなるの」
ここは聖堂だ。人が信仰する神様とやらに誓いを立てる場所だ。廃墟になっていても、そういう場所で心臓を託すだなんてあまり洒落にならない。
「ワタシは、魔法人形のまま、うごかなくる。ワタシの、のぞみは人形にもどること。少年が魔法をといて、たましいを、ときはなって、イマードにあう。それだけだ」
「人形に魂なんてあるのか」
皮肉げに笑ったが彼女には効かなかった。彼女は胸に手を当て、頭を垂れた。そのしぐさは作り物の胸の下に、本物の心臓があると思えるくらい厳かだった。
「少年は、ワタシにこころがあるといってくれた。だから、たましいもあるのだと、しんじたい」
信じたいだなんて、躊躇なく言えてしまう彼女が羨ましい。
「少年にはこころがある。それなら、たましいもあるのか」
邪推のない純粋な疑問に、ボクは目を伏せて誤魔化した。
「お姉さんと同じように魂があったらいいね」
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