少年の秘密

 俺の秘密は誰にも言わない。

 誰だって気軽に言えない何かを抱えているだろう。俺もそうだ。この秘密が他人にどう受け止められるのか知らないが、言う必要はないと思っている。

 「現状」というのは、今までのものが積み重なってできているらしい。

 それなら、俺の「今」は過去が集まった結果なんだろう。雨が降り続けるこの町のように、解決策が見つからず放置していたからこうなった。

 ふと、大人だったら変わったのかと思うときがある。子どもができる範囲は限られている。大人は子どもは自由だとか可能性があるとかいうけれど、俺はそうは思わない。

 俺はちっとも自由じゃないからだ。

 俺は「赤毛」と呼ばれている。「けんしょうごっこ隊」の隊長で、今いる学級では一人だけ一歳年上だ。なぜなら、一年間不登校になっていたから。ムギとおさげちゃんはその理由に気づきながら黙っていてくれている。

 俺は前の学級でいじめにあっていた。

 暴力は振るわれてはいない。物を隠されたわけでも、金を奪われたわけでも、罵倒されたわけでもない。

 あれは、俺の存在の否定だった。

 徹底的に無視をされた。そこにいたのに、いないものとして扱われた。話しかけても誰も反応しなかった。先生ですら授業中に挙手をしても指してくれなくなった。教室にいる俺は幽霊で、生きていたのに死んでいた。誰とも会話をせず、帰宅するのが普通だった。

 どうしてそうなったかあのときはわからなかった。何事もなく会話をしていた生徒が、ある日突然、誰一人として俺を認識しなくなったのだ。

 最初、本当に透明になったのかと疑った。

 でも、他の学級の奴に話しかければきちんと返してくれる。

 これが学級全体のいじめだと気づいたとき、俺の味方は誰もいないのだと知った。

 それでも学校に通った。今思えば、意地だった。好きでもない読書をしてやり過ごせば問題はない。一人でも大丈夫だと頑なに思った。いや、思うしかなかった。

 あのときの俺に、両親に相談するという選択肢はなかった。学校でいない存在として扱われるよりも恐れていたことがあったからだ。

 俺の両親は不仲だ。

 外面がいいので、町では仲のいい夫婦として知られている。俺の前でも仲のいいふりをしているから気づかれにくい。

 時々、両親は夜中に口論を始める。ねちねちとしたなじり合いは、隣室の薄い壁に届いていた。あぁまたかと目を覚ます。二人はお互いの悪いところをとことん言い合い、最後にどちらかが吐き捨てて終わらせる言葉があった。

「子どもがいなければ離婚していた」

 口論がある日は、部屋の隅でうずくまり、毛布を頭から被って耳を塞いだ。

 俺ってなんだろう。

 どうしてここにいるんだろう。

 喉は渇いていないのに、酷く体の中が乾燥している気がした。

 外は今日も雨。部屋は暖かいのに、俺の体は震えている。体の中にある大事なものがぽたぽたと雨のように落ちていく。毛布の下で鼻水をすすり、嗚咽を押し殺す。背中をさすってくれる優しい手と頭を撫でてくれる温もりは、どこにもなかった。

 そんな日々は、ある日を境に変転した。

 授業中、机から鉛筆を落とした。手を伸ばしたら隣の席の男子が拾ったのだ。

 目が合った。

 お互いの視線がはっきりと交差した。そいつはしまったという表情をして、拾い上げた鉛筆を放し、何事もなかったように教科書に顔を戻した。

「なんでだよ!」

 俺はそいつの胸元を掴んだ。

 俺をいないものとして扱っていた奴らの目が、一斉に「俺」を認識した。驚愕の視線が怒気を露わにした俺に集中する。どうして怒っているの。なんで怒っているの。開かない口の代わりに目で訴えていた。そこでようやく悟った。こいつらは俺が何もしないから、何も言ってこないから「そういう行動をとってもいい」と思ったんだ。同じ人間なのに、違う扱いをしても問題はないと判断したんだ。

 胸元を掴まれたそいつは、怯えて唇を震わせた。

「……髪が赤色だったから」

 たったそれだけ。

 たったそれだけの理由で、どうして俺が消えなくちゃいけないんだ。

 そいつを殴った日から、俺は透明な存在から化け物に変わった。

 そして部屋に引きこもり、不登校になった。

 俺は謝らなかった。何も知らない両親が代わりに謝った。やがて夜中の口論は毎日行われるようになった。眠れなくなり、食欲が落ちた。頭を空っぽにする日が多くなった。

 少しずつ、俺の中で何かが壊れていった。部屋に響く雨音だけに耳を傾けるようになった。

 夜中の大雨は安心できる。

 二人の口論をかき消してくれるから。

 あれは、雷雨だった。雷の音で目が覚めた。薄い壁から二人の諍いが聞こえてきたが、豪雨がかき消してくれた。

 外の様子が気になり、カーテンをめくる。町は濃厚な暗闇に覆われていた。もったりとした重たい黒色の雲が雨を降り落とし、町に叩きつけていた。細い糸に似た水滴がちらちらと夜の町に見え隠れする。外はまるで別世界のようだ。

 この町は、魔法の雨によって人と妖精の世界の境界線があやふやになっているらしい。

 妖精の世界はどういうところなんだろう。

 魔法のせいで妖精の世界に行ったと噂される人は、幸せなのだろうか。あちらの世界で人はどういう扱いを受けるのだろう。俺みたいに透明な存在になっていたら。そこまで考えてから止めた。知らない世界は知らない。わからないものはわからない。あれこれ空想してみても、嫌な思考ばかり浮かんでしまう。

 窓に映る俺の顔は、血色がなく、惨めで、格好悪かった。もう眠ろうかと窓から引いたとき、外で何かが跳ねた。

 水たまりが跳ねている。

 今は深夜だ。こんな雷雨に人が外にいるはずがない。祈るか怯えているか寝ているかのどちらかだ。出て行く人は出て行っている。

 また跳ねた。ぱしゃんぱしゃんと一定の規則で跳ねる水たまりは、誰かが遊んでいるように見えた。目を凝らすが何もない。あるのは豪雨の町だけ。でも、俺は誰かがいるような気がしてならなかった。

 誰かが一人で遊んでいる。

 窓を開けた。大雨の音が近くなり、カーテンが揺れ、冷たい空気が部屋に流れ込む。

「そこに誰かいるのか」

 水たまりが跳ねなくなった。雨に打たれて波紋をいくつも増やしている。いないふりをしているみたいだ。

「いるんだろう」

 反応はない。

「でてこいよ」

 雷が光った。

 俺は、あのとき、確かに見たんだ。雷が光った瞬間、透明な子どもの人影がいたのを。

 雨は、魔法を連れてくる。

 あぁ、そうだ。大量の魔法の雨が降る日は、不思議なことが起こってもおかしくないんだ。

 透明な子どもは暗闇に消えてしまった。どこかに行ってしまったようにも思えず、誰かがいるはずの空間に話しかけた。

「一人で遊んでいるのか?」

 怖くはなかった。ずっと前から知っているような気がした。

 外は大荒れなのに、俺の心は不思議と落ち着いていた。

「なぁ、俺も混ざっていいか?」

 おかしいだろう。透明な存在として扱われた俺が、本当に透明な奴と対面しているんだ。こいつが何かわからないけれど、あのとき俺は一人で遊ぶのは寂しいと思ってしまった。同情じゃない。俺が寂しかったんだ。

 本当は、友達が欲しかった。

 誰かに助けて欲しかった。

 雨がさらに激しくなる。笑おうとしたのに涙が零れていた。こんなみっともない顔を見せられるか。窓を閉じ、壁に背を向けてずるずると座り込む。膝を抱えて、誰にも聞こえないよう声を抑えた。それでも、震える肩は止まらなかった。

 なんでだよ。どうして泣いているんだよ。いくら思っても溢れた涙は止められない。窓を叩く雨音が暗い部屋を包んだ。

 こつんと音がした。

 小石が窓を叩いていた。

 あいつだ。慌てて顔を拭い、窓を開ける。窓の外に転がった小石が誰かがいたことを告げていた。折り畳まれた紙が窓に放り込まれ、ぱしゃりと水たまりが跳ねた。雨の向こうに軽い足音が遠ざかっていく気配がした。紙を広げれば、雨に濡れて文字が滲んでいる。でもこいつ、俺より字が上手いんだ。

「こんど、ぼくとあそぼう」

 声にだして読んでから、後悔した。

 泣いた。泣きじゃくった。

 控えめなノックがされ、薄くドアが開く。入り込んだ光に目を細めれば、覗き込んだ両親にどうしたのか尋ねられた。

 不登校になってから、両親は俺を腫れ物にでも触るような扱いをした。二人からすれば、息子が突然同級生を殴り、理由を言わずに引きこもってしまったのだ。どう接していいのかわからなくて当然だ。

「……お願い、俺はいいから離婚して」

 声はすっかり嗄れていた。逆光で顔は見えなかったが、はっとした驚きの次に気まずさが漂ってきた。

 それが滑稽に思えた。

 大人も昔は子どもだった。大人も親である前にただの人だった。血が繋がっていても全てが共有できるわけじゃない。たとえ、家族であったとしても。

 問題のない円満な家庭を、俺は知らない。

 なんだよ、大人だって問題児ばっかじゃねぇか。

 気づかないふりをしていた孤独が溢れだした。再び泣き始めた俺をおそるおそる両親は抱きしめた。ごめんなさいと小声で謝られても何もできない。二人を縛りつけるだけの存在にしかならないのなら、はなればなれになるように願うしかなかった。

 その後、学校で何があったのか全部話した。両親は学校に連絡をしたらしく、数日後に担任と同級生たちから謝罪の手紙が届いた。けれど、学校側に無理やり書かされたようにしか思えなかった俺には全く響かなかった。

 両親と学校の話し合いの結果、一歳年下の学級に入ることになった。

 あれから離婚話は進んでいるが、どちらが俺を引き取るのかまだ決まっていない。

 ただ、町を出るという二人の意見は一致した。町の人に迷惑をかけたくないからと言いつつ、最後まで体面を保とうとする両親らしい決断だった。

 あの雷雨の日に出会った透明な子どもが妖精だと知ったのは、「あめふりまちのひみつ」のノートからだ。

 妖精の噂は知っていたが、どんな姿でどういう性格なのか詳しく知らなかった。幽霊バスに揺られながら、おさげちゃんから聞いた説明に心底驚いた。

「だって、友達になれるかもしれないでしょ!」

 そうだ。おさげちゃんの言う通りだ。

 もし、またあいつに会えたら。

 遊ぼうと誘うんだ。

 透明なあいつと友達になる。

 これが、俺の秘密だ。

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