ブーンと耳元を羽虫の羽音が霞めた。

 ぼーっとした頭で瞼を上げると、真っ先に石壁の天井が目に入った。

 どこだ? ここ? 身体を起き上がらせて、辺りを見回してみる。

 石壁で出来ているところ以外、広さも天井の高さもごく普通の部屋だ。どこかの宿屋にもありそうな部屋。俺が寝ていたのもごく普通のベッドである。その他にも鏡台やタンスなどの家具が置かれていたが、すべてどこにでもあるようなありふれた普通のものだった。

 ベッドの横の壁には窓が設けられていて、その窓から眩しい朝日が室内に流れ込んできていた。

 それに目を細めていると、段々と昨日のことを思い出してきた。

 そうだ、昨日は魔王となんやかんやあったのだった。ということは、ここは魔王の城の中か。

 窓から外を見てみる。ひたすら森と山が広がっているばかりだった。

 急にこの部屋の木製のドアが、数度ノックされる。

「勇者様、お目覚めでしょうか?」

 ドアの向こうから、落ち着いた若い男の声が聞こえてきた。

 俺は一瞬逡巡したが、すぐに返答をした。

「あぁ、目覚めたぞ」

「部屋に入ってもよろしいでしょうか?」

「いいぞ」

 俺が許可すると、ドアが開き、執事服姿の二足歩行のヤギが入ってきた。

「ご朝食を用意してございます。どうぞ、食堂の方へ」

「その食堂には魔王もいるのか?」

「はい、おられます」

「わかった。案内してくれ」

 俺は執事ヤギに案内され、その部屋を出て食堂に向かった。

 その部屋から食堂へは、予想していたよりも遠かった。

 廊下は無駄に横幅も天井も広く、窓がなく灯りが蝋燭の火だけだから、暗がりも相まってどこまでも続いているように思えた。

 食堂は、俺が目覚めた部屋の十倍ほど広い空間だった。

 そんなに必要なのかというほど大きな長机が、どんと室内の中心に置かれている。

 長机の周りには、何人分あるかわからないくらい椅子が並べられている。

 その長机の周りに並べられた椅子の一つに、堂々たる態度で魔王が座っていた。

「おはよう、勇者よ」

 魔王は朗らかな笑顔で、俺に朝の挨拶を述べてきた。

「おはよう」と俺も小声で返した。聞こえていたかどうかはわからない。

「ほら、そこの席に腰かけろ。朝食を持ってこさせるから」

 魔王に促され、俺は魔王と向かい合わせになる席に腰を落ち着かせた。

 すると俺を案内した執事ヤギと同じ姿の家来どもがぞろぞろ出てきて、俺と魔王の前に朝食の膳を並べた。国王の城で並べられた料理と遜色がないほど豪勢な朝食だった。

「遠慮なく食え。もうお前は、私の家族のようなものだからな」

 魔王は豪快に笑うと、俺よりも先に朝食を食べ始めた。俺もまずスープを口に含んだ。

 旨かった。国王の城で食べた料理と同じくらい、いやそれ以上には。

 粗方料理を平らげると、魔王がやけにゆっくりした口調で俺に話しかけてきた。

「しかし、よく私の仲間になってくれたものだな」

「・・・・・・」

「なぜ決断してくれたんだ? お前は勇者なのに」

「――勇者なんか、人から押し付けられた称号だからだよ」

「ほう、勇者になるのは不本意だったのか?」

「・・・・・・」

 不本意では――なかったと思う。

 少なくとも、国王の城に呼ばれて、「勇者様、勇者様」と持て囃され、歓迎されているときは満更でもなかった。いや、嬉しかったし、俺はあのときは確かに自分に冠せられた勇者という称号に酔っていた。

 今は――今は違う。今は勇者という言葉の響きが、酷く空々しいものに聞こえて仕方ない。

「では質問を変えよう。お前は私の誘いを罠だとは思わなかったのか?」

「思ったよ」

 これには即答できた。

「罠の可能性を考慮した上で、私の誘いに乗ったということか?」

「罠だとは思ったけど、考慮なんかしなかったよ」

「それではなぜ私の誘いに乗ったのだ? 軽率な行動ではないか?」

「――別に、ここで死んでも構やしなかったから」

 今度は魔王が黙った。魔王は俺の顔をじっと真顔で見て、また笑顔に戻った。

「まさか勇者の口から出る言葉とは思えないな」

「だから勇者なんてのは、押し付けられただけのもんだっつってんだろ」

「いつから死にたいと思っていたのだ?」

「死にたかったわけじゃない。死んでもいいやと思っただけだ」

「死んでもいいと思いながら、私の城に着くまで旅をしていたのか?」

「――そうだ」

「死んでもいいと思ったから、私の罠かもしれない誘いに乗ったのか?」

「――そうだ」

「――お前、本気で私を倒そうとは思っていたのか?」

「全然、これっぽちも。魔王なんか死んでも生きててもどっちでもいいと思ったよ」

「旅をしている間も、私と対峙したときも、ずっとそう思っていたのか?」

「ずっとだ。この伝説の剣を抜いたときから、いやそれ以前から、ずっとだ」

 俺は自分の腰にぶら下がり、結局魔王に向けられることのなかった伝説の剣を叩いた。

 そう、俺は旅へと出発する前から、魔王なんかどうだっていいと開き直っていた。

 世界が滅ぼうが、世界が征服されようが、俺が知ったことではなかった。

 魔王さえ倒せば、この世界に平和と幸福がもたされるとか、そんな綺麗事にもうんざりだった。

 魔王を倒したところで、こんなクソみたいな世界が今更平和になるはずがない。

 今はどこの国も魔王という共通の敵がいるから一時休戦状態にあるが、魔王がいなくなれば魔王復活以前のように戦争をおっぱじめるに違いない。

 それに、魔王復活以前から俺に幸福の欠片も寄越さなかった世界に、幸福のお零れも恵んでくれなかったやつらに、何でこの俺が幸福をもたらさなきゃならない。なぜ俺が自己を犠牲にしなければならないのだ?

 だから俺は、元から魔王を倒す気もさらさらなかったのかもしれない。魔王を戦闘することになったら、適当なところで負けて殺されて、それで良いと思っていたのかもしれない。

 俺は色んな街へ行くごとにこう言われた。「勇者様は我々の希望だ」と。

 そのとき俺は思った。確かに思った。こいつらに希望なんかくれてやるものか、と。

 絶望をくれてやる。いくらでもくれてやる。希望を蓄えに蓄えたところで、一気に絶望をぶつけてやる。

 あぁ、だからか。だからここまで旅をして、魔王のところまで来たのか。

 俺に絶望ばかりを与えたくせに、俺からは希望をもらおうとする強欲で傲慢なこの世界の連中に復讐するために。復讐するためだけに、魔王に殺されようと。

「あー、わかった。お前と話してて、ようやくわかった」

「わかった? 何がだ?」

「全部だ。俺の考え、全部。お前の誘いに乗った理由も含めてな」

「はて? それは何だ?」

 俺は魔王に向かって、口を大きく広げて笑みを作った。この城に来て、いや産まれてから初めて、本気で笑った気がした。

「俺はこの世界の連中に、絶望を与えられれば何でも良かったんだ」

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