#3

「ごめんね、うちじゃ酒はこんなのしか置いてなくて……」

「なんでもいいんだ、忘れられるなら」


 グラスに注いだウィスキーの香りは、モルヒネのように砂海の痛みを鎮めてはくれない。渇いた喉を潤すことしかできず、彼は気を紛らわすように酒を流し込んだ。

 無意識に辿り着いた場所は、シンと最後に話した喫茶店だ。深夜だというのに、彼の顔を見てただならぬ物を察したマスターが店内に招いたのである。

 柔和な笑みを浮かべるマスターを見て、砂海は自分と住む世界が違うことを如実に感じる。この穏やかな老紳士は、命のやり取りなどはしない。そのような雰囲気が、彼を少しばかり饒舌にさせた。


「マスター、聴いてくれるか?」

「この前一緒に来ていた友達の話だろう? だいたい察しがつくよ」


 からん、とグラスの氷が音を立てて転がる。2杯目の酒を注ぎながら、老紳士はばつが悪そうに微笑んだ。


「悪いね、盗み聞くつもりは無かった。ただ、その悩みについては僕も一家言あってね……」

「マスターも幻聴に悩まされていた、ということか?」

「うん。そうとも言えるし、そうでないとも言える」


 マスターは言葉を濁すと、僅かに黙考して砂海に問う。


「簡単に語れるものでは無いし、簡単に納得してもらえる話じゃない。世間の常識や価値観の隙間にあるそんな与太話を、君は信じるかい?」


 砂海は小さく頷く。相棒の真意がわかるなら、どんな話でも信じよう。そう思っていた。


「有り体に言えば、友達くんは『魔が差した』んだよ。差してしまった魔の性質たちが悪かったんだろうね、彼は自分の出世欲に正直になりすぎたんじゃないかな」

 マスターはカウンター越しに手を動かしながら、ふっと息を吐いた。

「ひとつ確実に言えることは、今後彼に会ったとしても安心してはいけない、という事だ。今の友達くんは君の知らない側面を見せるだろうからね」


「何も話していないのに、よく分かるものだな……」


 感嘆する砂海に対しても、マスターの微笑みは崩れない。


「その手の案件については、僕もアンテナを高めておかないといけないんだ。それに、眼鏡の子は何度かここに来て飲み物を頼んでいったし、ね」

「マスター、何を飲んだかはわかるか?」


 砂海はそう尋ねる。相棒の情報を少しでも掴んでおきたかったのである。


「確か、2回目だ。君たちが来た1週間ほど後に、ちょうど今の君の右隣の席に座ってビールを注文したんだ」

 マスターはその直後、笑いながら首を振って言葉を重ねる。

「もちろん、うちのラインナップにビールはないからね! だから、ちゃんと断ったよ」


 ビール? 彼は脳内で反芻し、違和感の正体を探る。シンはビールを飲まない。苦手だと常々言っているのだ。あれは嘘だったのだろうか。


「その時の彼は、誰かに電話をかけていた。自信ありげに笑いながら、丁寧に話していたよ」


 マスターはそこで溜息をつき、言葉を継いだ。


「残念ながら、その時から既に手遅れな様子だった」

「手遅れ?」

「あぁ、あの雰囲気は悪魔に魂を売り尽くしたって感じだ。今の彼は、君の知る友達くんじゃない」


 背筋に冷たいものを感じ、砂海はウィスキーを飲むのをやめた。この老紳士の語る話には妙に信憑性があるように感じる。与太話と笑うには真実味に溢れたその話を聞きながら、砂海は最近の出来事を思い返し、胸焼けを覚える。


「俺は、どうしたらいいと思う?」

 砂海はマスターに光明を求めようとしたが、すぐに首を振って謝る。

「すまん、マスターにはどうでもいい話だったな……」


「君は、何かを失う覚悟をすべきだ。これからの行動は君の針路をガラリと変えてしまうかもしれないからね」


 洗い物の手を止め、マスターは砂海の瞳をまっすぐ見据えた。


「まぁ、部外者のメリットは無責任なことを堂々と言えることだ。やりたいようにやりなよ」


 砂海の心に鉛のような想いがゆっくりと沈んでいく。覚悟と呼ぶには不純で、正義と呼ぶには汚れすぎていた。やはり、これは酔狂なのかもしれない。


「そら、これはお土産だよ」


 マスターにサンドイッチが入った袋を持たされ、砂海はウィスキーの代金を払うつもりで財布を出そうとした。


「残念ながら、サービスなんだよね」

 マスターは楽しそうに笑う。

「ほら、喫茶店でアルコールなんて出せないだろう? あれは商品じゃなくて、友達に振る舞う用の酒なんだよ」


「せっかく話も聴いてもらったのに、礼もしないなんて嫌なんだよ……」

「うーん、君がそこまで言うなら……今度バイトに来てくれないか?」

「バイト?」

「まだ従業員が私以外に一人しかいなくてね。マフィアの手も借りたい気分なんだ」


 マスターは名刺を取り出し、砂海の手に握らせる。


「小指を無くしたら、猫より役に立たないだろうがな……」


 砂海の溜息混じりの呟きを聞き、マスターは先程までとは比べ物にならないほど大きく笑った。


    *    *    *


 くじらホテルの掃除の行き届いていないシンクに向かって、砂海は胸から湧き上がる不快感を何度か吐き戻した。あの後呑み直したせいで、完全に悪酔いだ。どうやってホテルまで戻ってチェックインできたのかが不明瞭なほど酩酊し、硬いライダースを着たまま倒れるように眠ってしまった。

 壁掛け時計と携帯の画面を交互に確認し、砂海は今が夕方であることとヴェルディゴからの連絡が無いことに安堵する。もう一眠りしようとシーツに潜り込んだ瞬間、タイミングを待っていたかのようにポケットが震えた。


「……おはようございます、ボス」

『頭は冷えたか。少し、仕事の依頼をしたくてな』

「掃除屋が動く案件ではないんですね?」


 電話の奥の声は、わずかに沈黙する。数秒の静けさの後に、ヴェルディゴは大きく咳払いをした。


『これはお前が解決すべき問題だ。与えられた仕事はこなすべきであり、この仕事を他の誰かが代わりに遂行すればお前はきっと後悔するだろう。いいな?』


 その瞬間、砂海は依頼の意味を察する。


「……わかりました。覚悟はできています」


 最後の言葉は、ヴェルディゴよりも自身に投げかけたものだ。相棒を上司の命令で討ち、裏切りを止める。この世界では簡単に起こりうる事例だ。

 だが、砂海自身もヴェルディゴを信じきれていなかった。もし命令に逆らえば、殺されるのは俺かもしれない。


「行こうと退こうと後悔するのかよ……」


 電話を切り、小さな洗面台の前でそう呟く砂海は、目の前の呆けた顔に悪態をつきたくなる衝動に襲われる。


 夢や熱意は、いつから捨てたのだろう。砂海はふと考える。

 血を見るのに慣れた瞳と、誰かを痛めつけるのに慣れた拳。この世界では認められる力が、表では危険視される。だからこそ、彼はマフィアの中に居続けることを望んでいた。同僚に疎まれようとも、相棒を上司に売ろうとも。

 だが、シンの裏切りを証明できる確証はない。ヴェルディゴの疑念だけで、相棒を裏切るような依頼を受けてしまった。砂海は瞼を閉じ、黙考する。


 「やりたいことをやれ」と、あの老紳士は言った。今の砂海の目的は、後悔のあとに湧き上がってきたものだ。


「知りたい……」


 シンの真意を知りたい。彼の目的が何で、本当は何を考えているのか。それだけが知りたい。


「……行くか」


 荷物を整理して、フロントに鍵を返しに行こう。砂海はそう考える。これから起こる結末が何であるかにしろ、この城は手放さないといけない。

 ケジメか、死か。どちらかを選んだとしても、後悔のない結末は来るのだろうか。砂海は口をすすぎ、排水溝に不安が流されないかと願った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る