#2

「それが聴こえるようになったのは、最近だ。二週間ほど前、だったと思う」

 テーブルに置かれたコーヒーに手を付けずに、シンは思いつめたように語りだす。

「私はその時、頭の中に響いた声を確実に受け取ったんだ」


「はぁ、それは大事おおごとだ」

 砂海は自分のコーヒーを飲み干し、小さく唸った。焙煎された豆の芳醇な香りと深い苦味が同時に喉を浸している。

「マスター、コーヒーおかわり」


「真剣に聞いてくれる?」

 シンの言葉に少し棘が含まれていたので、砂海は姿勢を正した。


「要するに、幻聴に悩まされてるってことだろ?」


 敵対勢力との小競り合いという簡素な仕事を終えたとき、シンは何かを話そうとしていた。それを察した砂海は、近くにあった喫茶店を指差し、駆け込んだ。

 穏やかな雰囲気の老紳士が営む小さな純喫茶は、彼ら二人の背景と釣り合わない。砂海は少し肩身の狭い思いを抱く。

 そんな思いを振り払うように辺りを見渡すと、店内はそれなりに賑わっていた。客の中には幼さを残した少年の姿もあり、この喫茶店が幅広い客層に人気があることを砂海は理解した。


 口のつけられていないコーヒーは、とうに冷めていた。溶けきった角砂糖がカップの底に沈んでいるのも気にせず、シンはひたすら心に溜まった感情を、呼吸も忘れて吐き出す。


「どうすれば正解なのかが分からないんだ。怖いんだよ、この声を聴くのが……」

「その声は、どういう事を囁くんだ?」

「私の深層心理や欲望を分析して、色々なアプローチを仕掛けてくる……。『私の言葉に従えば、お前の願いは叶う』って」


 シンは瞳の奥に焦りと恐怖をにじませ、不安そうに言葉を紡ぐ。


「何より怖いのは、その声を聴いた瞬間、私は何かから救われた気になるってことなんだ」


 狼狽うろたえるシンにコーヒーを勧め、砂海は悩む。どうしたら、彼の恐れを取り払うことができるだろう。シンが覚束無い手で持ち上げたカッブの波紋が収まった時、砂海は声を出していた。


「気張りすぎて疲れてるんじゃないか? 夢や野望を持つことはいい事だが、たまには休むべきだ」

「でも……」

「任せとけって、仕事は代わりにやっておくから!」

 交渉以外はな、と砂海が言うと、シンは虚ろに笑った。


 咄嗟とっさに口走った当たり障りのない答えだ、と砂海は思う。しかし、彼はそれほど状況を深刻に見てはいなかった。彼らの仕事は、肉体的にも精神的にも負担が大きい。知り合いの何人かは心を壊した者もいて、今回のシンの相談もそんな有象無象の一つだと楽観視していた。砂海は膝の上の紙ナプキンにシンの様子を走り書きすると、それを乱暴にポケットに押し込む。


「で、様子はどうだった?」

「いい店でしたよ、今度紹介しましょうか?」

「そういう事じゃねぇよ」


 事務所の壁に掛けられたダーツ盤からダーツを回収しつつ、ヴェルディゴはぶっきらぼうに訂正する。名目上はオフィスとなっているビルの4階を拠点とし、彼らは裏路地を制圧せんと活動していた。


「ボス、報告書はここに提出すればいいですか?」


 書類を受け取るヴェルディゴは、サングラスを外していた。肉食獣を思わせる獰猛な瞳があらわになり、掻き上げた茶髪の前髪がよく目立っている。


「幻覚、ねぇ。ラリってんじゃねぇの、アイツ」


 ヴェルディゴはそう言って小さく笑ったが、砂海はそこに僅かに残る怒りを確かに感じていた。

 ヴェルディゴ一家いっかにとって、ドラッグの使用や売買は御法度だ。1年前に禁を犯した構成員が何者かの『勘当』を恐れて留置所に居ることを望んでから、組織内でその話題に触れるのはタブーとなったのである。


「野望を叶えてくれる神様なんて、拝金主義のロックスターと同じだよな。居るわけがない、という意味だが」

「その例えはどうにかならないんですか?」

「じゃあ、誠実な政治家でどうだ?」


 砂海が何も言わず部屋から退出しようとした時、不意にヴェルディゴから質問が飛ぶ。


「砂海、お前はどう思うんだ?」

「アイツに内偵スパイなんて出来るはずがありません。疑わしきは罰せずですよ、ボス」


 砂海が溜め息混じりに答えると、ヴェルディゴはニヤリと笑う。


「そうか、調査に私情は挟まないでくれよ?」


 この組織は、擬似家族という奇妙な繋がりがあった。構成員が頭領のことを『ファーザー』と呼ぶのは、そのような家族意識が明確に現れたものだ。ヴェルディゴも『バカ息子』たちを愛し、穏やかな慈悲を持って接していた。そんな閉じた関係性の行く末を、砂海は冷めた態度で観察している。


「砂海は良いよなー……親父ファーザーに気に入られてるだろ?」

「シンも昔同じことを言ってたわ……。あのなぁ、上に気に入られて何になる? 銃弾が届かなくなるか?」


 砂海は部屋を出て待ち受けていた同僚の言葉を受け流し、ポケットの中の鍵を掴む。


「おい、どこ行くんだよ!?」

「っせーな……。外回りだよ、外回り」

「さすがエリート様は意識が高くていらっしゃる。お前の密告屋みたいな仕事も気に入られるためにやってると思ってたよ、俺は」


 耳鳴りがした。砂海は辺りを見回し、足早にその場を去る。彼は、とにかくその場を離れたかったのである。


 スピードの代わりに環境性を犠牲にしたような性能の黒いバイクにエンジンを入れ、砂海は大きく首を振る。

 これは恭順じゃない、仕事だ。何を悩むことがある、ただ、頼まれた仕事をこなしているだけだ。相棒を売ったわけではないし、アイツの幻視や態度に恐怖を覚えたことなど毛頭ない。

 他のことを考えるんだ。砂海の思考と心境が妥協点を見出し、このフラストレーションやストレスを淡々とぶつけられる相手として、街を駆け抜ける彼は道端を歩いている強面の男を標的に設定した。


「おい、お前……」


 振り向き、こちらを怪訝そうに睨むオールバックの男の頬に平手を打つと、そのまま倒れた男の襟首を掴み、彼は詰問した。


「お前ら、敵だろ? 喧嘩しようぜ、龍醒会のチンピラ共!」


    *    *    *


 右手が感じる鈍い痛みに気づき、砂海は瓦礫の積まれた一角に腰を下ろす。金属バットを掴んだまま倒れた男たちを見下ろし、彼は煙草に火をつけた。ここが寂れた立体駐車場の一角であることは、その後すぐに気付いた。


 無我夢中で目の前の敵を殴り、修羅のごとく増援をほふり続けた彼は、自らの割れた額に気づき、そこから流れた血を満足そうに拭った。やはり暴れた時が一番冷静になれる。自身の仕事である遊撃隊てっぽうだまはやりがいのあるものだった。


「ヴェルディゴの子分ガキ……! 伯父貴がこの事を知ったらタダじゃ置かねぇぞ……!」


 意識が飛ぶ寸前の朦朧とした声を振り絞り、龍醒会の構成員はそう吐き捨てる。


「それもそうだな。……じゃあ、ここでの一件は誰にも知られなきゃ良いッ!」


 砂海は男から金属バットを奪い、顔面に向けて振りかぶる。ボールを打つ音とは程遠い破壊音が、寂れた駐車場に響き渡った。


「キミヒト……そこまでにしておけッ!」


 見知った声を聞き、砂海は狙いを外す。


「お前、なんでここに……!?」


 シンは小さく息を吐き、砂海ににじり寄る。いつもの冗談を言う時の顔ではなく、砂海はその表情に少し気圧された。


「やり過ぎなんだよ……! ここで殺したら、情報が聞き出せないだろう!?」


 もう帰った方がいい、とシンは何度か繰り返す。砂海は先ほど交わした会話を思い出し、無理はしないように、と言ったが、シンはそれを一笑に付した。


「君は説得とか情報収集を一番苦手にしているタイプだろう……? これは私の仕事だ」

「せめてボディガードくらいは」

「ここまで手酷くやっといて、ボディガードをやる必要は?」


 砂海は無言で首を降り、シンからタオルを受け取ると、微かな記憶を頼りにバイクを停めた場所まで歩く。

 必要なのはボディガードではなく、監視役だ。だが、砂海は相棒を信頼していた。それなら、ヴェルディゴへの報告内容を変えることもやぶさかではない、と彼は思っている。


 バイクにエンジンを入れた時、彼はシンが何故自身の居場所を知っているのかに疑問を抱く。ただ、もしかしたら喧嘩の最中に連絡を取ったのかもしれない。記憶はないが、十分ありうる話だ。それほどに砂海キミヒトという男は、相棒を頼りにしていたのである。



 カビと安い芳香剤の香りが充満するビジネスホテルの一室で、砂海は消えていく煙草の煙をじっと見つめていた。立ち上った紫煙が夕陽にその身を隠される瞬間を無為に観察し、一人用ソファの変色した革に吸い殻を押し当てる。

 シャワーを浴びてからずっとこうだ、と砂海は考える。この怠さの原因は、シャワーヘッドの水圧の弱さが原因でないことだけは確かだ。


 砂海に住所と言える場所はない。今は、ヴェルディゴから借り受けたこの部屋を根城に暮らしていた。

 ヴェルディゴはこのホテルを『くじらホテル』と呼ぶ。しかし、海洋生物の意匠があるわけでも無ければ、海沿いに建っているわけでも無い。コンクリートをくり抜いたかと見紛うような、華美とは程遠い無骨な外観をヴェルディゴが気に入ったのである。

 言われてみればくじらに似ている、と砂海は思う。冷たい海水のような都会の街に棲む鯨は、いつか廃墟と化すまでの寿命を悟りつつも、生きている。

 砂海自身は、ここに住むことに不満がないとは言えなかった。ただ、宿も食事も満足に得られなかったかつての自分の姿を思い返したくもない。路地裏で泥をすするドブネズミになるくらいなら、狭い小屋で飼われた方がずっとマシだ。


 小さく駆動音を漏らす冷蔵庫からスキットルを取り出し、冷えきっていない炭酸水で喉を潤す。その普遍的な一連の動作の間に、砂海はチェーン越しに僅かに開いているドアに目をやる。


「なぁ、居るんだろ? 出てこいよ、掃除屋……」


 “掃除屋”と呼ばれた男は肩をすくめ、促されるままに彼の部屋に入った。変化に乏しい表情から納得のいかないという感情が読み取れるようになったことに気づき、砂海は思わず苦笑する。


「砂海、何度も言うようだが俺は……」

「外向きの暗殺者、だろ? 裏切り者の粛清は別部署だもんな」

「……勘当と言え。もしくは折檻」


 仕事の際に精巧なニワトリの覆面を被る男の事を、砂海は潔癖症気味の地味な男だという認識しか持っていない。声色や背格好さえも無個性を濃縮した男の顔は、見る度に印象が変わる。砂海が何度も共に仕事をしてやっと顔を覚えたものの、少し目を離すと彼の存在を忘れてしまいそうになるのだ。ニワトリの覆面は、味方に強い印象を与えるために被っているようなものだ。


親父ファーザーからの司令は聞いたか?」

 掃除屋は短く刈った黒髪を掻きながら、無味乾燥ながらも鋭い視線を砂海に向ける。

「ガキの使いにしては、責任が重いと思わないか?」


「ボスの言う事だ、突拍子もないのは覚悟してるさ」

「それにしては、お前は親父に対して従順じゃないよな ……」


 磨きあげられた黒い革靴にビニール袋を履かせながら、掃除屋は呟く。あのまま土足で入ってくるつもりだ。


「人を殺すのは平気なのか?」

「俺はここに居るのが楽なんだよ。ボスの理念に賛同したわけじゃない」

「そうか。お前が味方じゃなければ縊り殺してたよ」


 掃除屋が表情一つ変えずにそう言うので、砂海は不穏さに思わず苦笑する。


「俺は逆だな。親父の作る街が地獄だったとしても、俺はそこが楽園だと思い込む。それが覚悟ってもんだろ?」

「お前の覚悟と盲信の違いを問い詰めてやりたいよ」


 砂海は冷ややかにそう言い放つ。ヴェルディゴの人を惹きつけるカリスマ性は、従順な兵士を量産するだけだ。俺はそうはならない、と砂海は思う。


「それに、俺は不器用なんだ。金があるわけでもない、口が上手いわけでもない。俺が出来ることと言ったら、これだろ?」


 掃除屋は無表情で自らの首を絞め、直後に手で十字を切った。


「いちいち物騒なんだよ……」

「殺しに意味があろうと無かろうと、あの人に頼まれたらやるしかないんだよ」

「意味わかんねぇ……」

「分かってても分からなくても、やる。行くぞ……」


    *    *    *


 歓楽街に立ち並ぶ雑居ビルの一室には、会員しか入ることの出来ない秘密クラブがある。受付にいる屈強な男からチップを貰い、砂海はポーカーテーブルに向き合う。並べたトランプに視線を集中させつつ、時折背後の席を確認する。


 大鋸おがという色黒の老人は、室内であるのにボルサリーノ帽を脱ぐことなく、葉巻に火をつけている。年代物の高価なストールは、彼の率いる組織の安穏と停滞を暗示しているかのようだ。

 博打好きの侠客にして、路地裏をドラッグと暴力で牛耳る怪物。たくさんの異名を持つ龍醒会組長の大鋸は、砂海たちの暗殺対象だ。


 大鋸は部下を引き連れ、よくこの裏カジノに出没する。この領域が龍醒会の管轄である為に安心しているのだろう。叩き潰し甲斐がある。砂海はそう推測しつつ、ほくそ笑んだ。

 目の前でロザリオ片手に祈る神父じみた男の痩けた頬を睨みながら、砂海はじっとチャンスを伺う。拳銃はジャケットのポケットの中だ。いつでも撃てる。


「おい……ディーラー!」


 テーブルを叩きながら立ち上がり、砂海は困惑するディーラーの手を力強く掴んだ。


「アンタ、イカサマしてないか?」

「はい?」

「俺がここまで勝てねぇのはおかしいだろうが。返せよ、俺のチップ!!」


 砂海は喚きながら、標的を一瞥する。大鋸はこちらを見向きもしないが、時折不快そうに舌を鳴らす。砂海は高揚を声色に出すことなく、叫びながら席を立った。


「お前ら聞いてるか!? ここの運営はこっち側から金を搾り取る気なんだよ……!」

 彼は声を張り上げ、ゆっくりと大鋸の座る椅子に近づきながら肩を叩く。

「おい、おっさん。アンタもそう思わないか……!?」


 大鋸は砂海の方を見やり、ギラギラした欲望の塊のような瞳で彼を見定める。


あんちゃん、ここは紳士の社交場だぜ? もうちょっと静かに出来ねぇかな……」


 肩に置かれた手を払いのけ、大鋸は小さく舌打ちをしながら立ち上がった。それを合図に大鋸を囲む部下達が砂海の前に立ちはだかる。


「ギャンブルってのは女と一緒でなぁ、タイミングが大事なんだよ……。兄ちゃんが話し掛けてくれたおかげで、上玉を逃したかもしれない。どう責任取る?」


 大鋸は不愉快さを隠すことなく、砂海を睨みつけながらそう言う。砂海はそれを聞き、内心ほくそ笑んだ。


「責任……? アンタの命でいいか?」


 砂海が拳銃を天井に突き上げた瞬間、彼の肌は場の空気の停滞を感じていた。時間が止まったように重い空間の中、無機質な部屋の隅にいる客は変わらず談笑を続けている。

 しかし、砂海の近くにいる客は銃の存在に驚愕し、目を剥きながらそそくさとカジノを出ていく。それが波紋のように広がり、徐々に悲鳴と叫びが部屋に反響しはじめた。


「なるほどなぁ、タマ獲りに来たわけね……」

 部下に鋭く指示を飛ばしながら、大鋸は唇の端を歪めて笑う。

「……ヤクザ舐めんじゃねぇよ、クソガキ」


 辺りの空気が張り詰めた錯覚に陥り、砂海は何度か肩で息をする。この街で人の上に立つ者に特有の覇気を感じながら、汗で手から滑りそうになる銃をしっかりと掴んだ。


 刹那、飛ぶようにその場に駆けつけた守衛の男が、砂海から手際よく銃を奪ってワックスのかかった床に滑らせる。


「お客様。ご気分を害し、本当に申し訳ございません。大鋸様をVIPルームにご招待した後、すぐにこの不届き者をつまみ出しますのて……」


 標的を庇いながらゆっくりとVIPルームに誘導する守衛を見て、砂海は小さく唸った。

 守衛と大鋸の影が消えようかという時、標的の男はふと思いついたかのように口を開く。


「そういえば、お前は何故俺の名前を知ってるんだ? ここの会員になった時に素性は伝えていないはずだが……」


 守衛の足が止まる。帽子の奥の特徴のない表情をわずかに変化させる様子を見て、砂海の心に小さな不安が忍び込んだ。

 砂海は、先ほど作った会員カードを確認する。偽名ではあるが、確かに名前は明記されている。つまり、大鋸の言葉は明確なブラフだ。


「貴方ほどの有名人なら、この街では知らない人は居ないでしょう?」


 守衛は表情を崩さずに答える。大鋸はそれを聞いてわずかに表情を強ばらせつつも、部下を散らせて守衛の先導に従った。


「露払い、完了だな……」


 まばらに人が残るカジノの中、砂海は煙草に火をつけながら一人、ごちる。

 ここまでのパニック状態の中、微動だにせずにギャンブルに興じる人々の姿を見てしまい、砂海は憔悴していた。彼らは周囲を全く省みることなく、自らの世界に置かれたチップをやり取りしている。金を稼ぐ、という目的よりも、自らの射幸心を満たすためだけに金を溶かしていることを重要視しているかのようだ。

 ポケットの中に忍ばせた携帯電話が震えたので、砂海は一瞬硬直する。ポーカーテーブルに腰掛けたまま姿勢を正し、彼は液晶に写る文字列に目を通した。


「『逃げろ』……?」


 掃除屋かヴェルディゴからのメールかと思い、砂海は宛先を確認する。シンからのメールだ。


「おいおい、何でだよ……」


 彼の疑問は、結局のところ解決することは無かった。疑問を整理する間もなく、ドアが蹴破られたからだ。


「全員、一歩も動くな……! 拘束されたくなければ取り調べを受けることを推奨する!」

「ったく……最悪のタイミングじゃねぇか……」


 砂海はゆっくりと両手を上げ、闇カジノの摘発をやり過ごす方法を宛もなく思案している。彼にとっては、とにかく不安要素が多すぎた。


    *    *    *


「あぁ、登録した時に偽名を使っていて良かったな……」

「おかげで普通に怪しまれましたけどね」


 取り調べから3日経ち、事務所で顛末を報告する砂海に、ヴェルディゴは労いの言葉を掛ける。


「で、取り調べが組犯の連中だろ……? あそこの課長、妙に龍醒会に媚びるんだよ」


 砂海はそれを聞き、掃除屋がどうなったかを思い返す。

 彼は守衛の格好で標的に近づいたのだが、警察のガサ入れのタイミングとマッチし、大鋸を殺すことが出来なかった。さらに、追い込んだ先で大鋸の部下が待ち受けていたのである。引けど進めど逃げられない状況で、彼はその地味な風貌を最大限に利用し、警察の介入による混乱の中で脱出した。

 一歩間違えれば何が起こるかわからない過酷な仕事の代償に、ヴェルディゴは掃除屋に休日をプレゼントした。


「……今日はそんな話をしようとした訳じゃないんだ。なぁ、情報のすり合わせをしないか?」

「今回の司令、全体的に違和感があったんですよ」


 砂海は、謎を手繰り寄せるように脳内の情報を整理する。自分は遊撃部隊であって、暗殺者ではないはずだ。なぜボスはここまで重要な仕事を自分に任せたのだろうか?


「違和感を感じても無理はないかもな。なぜ俺が本来の仕事を置いてまでお前たちに依頼したかわかるか?」

 ヴェルディゴはゆっくりと表情を殺しつつ、なるべく感情的にならないように言葉を選んでいることが見て取れる話し方を心がけようとしていた。

「シンの監視と密接に関係する事柄だからだ」


 ヴェルディゴは大きく息を吸うと、苛立ちを隠すような声色で、「やはり、シンは密告者ユダだ」と語る。


「そう考えないと辻褄が合わねぇんだよ……」

「ユダ、って……」


 愕然とする砂美の額が汗で滲む。


「今回の依頼はそもそも三人に頼んだことだ。お前と掃除屋、そしてシンに個別に依頼した。つまり、この作戦の顛末は俺を含めた四人しか知っていない」

「でも……」

「大鋸はブラフを掛けた。それに、部下が掃除屋を待ち構えていた。今回の作戦が漏れていると考えるのは自明だろ?」

 ヴェルディゴは机の上に置かれた報告書に目を通し、砂海の目を見ようとしないまま、淡々と言った。

「アイツが情報を漏らして、暗殺を回避した。違うか?」


 気分が悪かった。砂海は頭の中に浮かぶたくさんの疑問符を整理できないまま、拳を強く握る。


「アイツが……そんなこと……? 事情があるはずだ……。だって、ガサ入れ前にメールを送り付けてきたんだ……『逃げろ』、って」


 砂海は、握った拳を振り上げたまま、発散できる場所を探す。この感情は前で妄言を垂れ流すボスにぶつけるべきものだろうか。感情の正体が、相棒が汚された怒りなのか、それを知りつつも情報を売った後悔なのかはわからない。それらは混じりあって彼の心に傷を刻みながら、痛みによる怒りを増幅させる。


「事情……? あのなぁ、そんな事考えてるからお前はいつまで経っても三流なんだよ……ッ! いいか、他人の感情を勝手に推し量るな。それに、何かの事情が有ろうが無かろうが、アイツが裏切ったという事実は変わらない。裏切った以上、それなりの罰が無ければガキ共に示しつかねぇじゃねぇか……ッ!」


 怒気を強めるヴェルディゴの声に反発するように、砂海は机を力強く叩くことで感情をぶつける。


「……頭、冷やしてきます」


 彼はとにかくこの場から抜け出したかった。強い酒で喉と心を潤す必要がある。彼は咄嗟にそう思った。

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