#5

 トオルが目を覚ましたのは、柔らかいベッドの上だった。洗い立てのシーツの白が眩しい。

 ゆっくりと起き上がり、周囲を見渡す。あの忌々しい車道ではなく、見慣れた洋館内の自室だ。


 厳重に日光を遮る厚いカーテンが引かれ、今は何時かもわからない。ただ、スズメの鳴き声がノイズのように耳障りだった。

 身体の節々が痛み、トオルは自分の体の異常に気付く。肉体を拘束するかのように巻かれた包帯は、事故の衝撃をフラッシュバックさせるには最適な物証だ。


 ドアが開く音に、トオルは身をすくめる。


「目を覚ましたかい? 3日眠っていたんだ。頭はぼうっとしない?」


 替えの点滴袋を担いだ家主は、満身創痍のトオルの顔を覗き込み、微笑んだ。


「さすがの回復能力だ。全身を複雑骨折しているんだよ、今の君は」

「……複雑骨折?」


 トオルは虚ろな声で聞き返す。痛みの原因がわかったような安心感と、事故の結末に対して納得する心境があった。


「3日前に、血だらけの君がラウンを背負って帰ってきたとき、驚いたよ。常人なら死んでいる。いや、超人でも死ぬだろうね、あの事故なら」

「……という事は、俺は死んでるんですね」


 トオルに驚きはなかった。むしろ、白昼夢を見ているような状態である。今なら、高層ビルの屋上で「飛べ!」と言われても従ってしまう気さえしていた。彼は朦朧としたままの意識で、ボルゾー氏が次に紡ぐ一言を待った。


「厳密には、君の魂は生きていた。だから、利用させてもらったよ」


 次の一言の察しがつき、トオルは溜め息を吐く。これが洋画なら、間違いなくバッドニュースだ。


「君の身体は、ディークとして生まれ変わったんだ」


 包帯に包まれた腕が、わずかに疼いた。


「つまり、今の俺は人間じゃない、と?」


 トオルの声に一切の感情はこもらず、ただ空虚に現実を受け入れようとしていた。原理は実験の助手をしていたおかげで理解していたし、ディークで在ろうと、人間で在ろうと、自身のアイデンティティは空っぽのままだからだ。


「ディークになれば、身体能力が加速度的に上昇する。生前の姿にもなれるんだ。その状態では素質持ちではない者にも存在を感知されるが、体力の消耗が激しい……」


 トオルは、ボルゾー氏が説明書を読むように話すディーク化のメリットを聞き流し、包帯をゆっくりと解きはじめる。

 視界に映るのは、金の体毛で覆われた腕と、あらゆる動物を肉塊に変えられる程に発達した爪だった。どう見ても、獅子だ。


「おや、どこに行くんだい?」

「ラウンお嬢様の様子を見てきます……」


 ボルゾー氏が何かを呟いたようだが、トオルの耳には届かない。彼は足早に部屋を抜け、階段を上った。


「お嬢、入るぞ?」


 ドアをノックする音が、虚しく響く。返ってくる声は無く、中に誰もいないかのように静かだ。痺れを切らしたトオルがドアノブに手をかけるが、施錠されたドアは頑なに彼の侵入を妨げていた。

 ラウンのすすり泣きが聞こえた気がした。トオルは足を引きずりながら階段を降り、元凶に詰め寄る。


「ボルゾーさん、答えてください。お嬢様に……ラウンに何をしたんですか!?」

「何を……? いや、父親として当然の行いをしたまでだが」

「誤魔化さないでくださいッ!」


 トオルの後ろ手に手斧が握られていることを、ボルゾー氏は眉をピクリと上げて気づく。


「穏やかじゃないね、トオルくん」

 ボルゾー氏は呟く。

「まずは武装解除しなさい。怖くて話すどころではないよ……」


 トオルが渋々武器の召喚を解除すると、家主はゆっくりと事の顛末を語りはじめた。


「君たちが帰宅した時、両方が満身創痍だった。君はレオンハルトの呪いじみた加護でギリギリ精神は死んでいなかったものの、ラウンは手の施しようがなかった。日光で焼かれながら車に轢かれたんだ。普通の方法では、命を救うことはできなかった」

 ボルゾー氏は悪びれること無く、トオルがもっとも聞きたくなかった言葉を吐いた。

「だから、ある細胞を埋め込んだ。契約したディークに適応し、高い回復能力と痛覚の鎮静化という効果を与えるものを、ね」

「それじゃ、ラウンはもう……」

「よほどの事がない限り死なない。死ねない、と言い換えた方がいいかな?」


 トオルは無意識に拳を握っていた。発散すべき怒りが湧き上がり、反射的に壁を殴る。壁材がパラパラと零れ落ち、穴が開く。痛みは感じなかった。


「ラウンは死のうとしてたんですよ……? 無理やり現世に留まらせることに、なんの意味が有るんですか!?」

「愛する娘を守らないで、何が父親だ。それに、君も心の奥底ではラウンに死んでほしくないと思っている。そうだろう?」


 彼はボルゾー氏の指摘を強く否定できなかった。核心をついている。彼自身がラウンの死生観にわずかな疑問を抱いているのは事実で、それは命懸けで彼女を守った事が証明していた。


「永遠の命を形作る細胞、とても貴重なものなんだ。あの人にバレたらどうなるか……」


 ボルゾー氏の表情に焦りが見えたが、トオルにそれを気にする余裕はない。彼はきびすを返し、ふたたび少女の部屋に向かった。


 お嬢、お嬢、と繰り返し呼ぶトオルの声がれていく。焦っていた。乱暴にドアをノックし、力いっぱいドアノブを引く。

 蝶番ちょうつがいが音を立てて外れた。その膂力は、すでに常人を凌駕しているのだ。


「ラウン……!!」


 部屋には様々なものが散乱し、ブラウン管テレビは叩き壊されていた。絶望のすべてを乱雑に並べた部屋の真ん中で、少女は破れたカーテンから射す日光を背に立ち尽くしている。


「トオル、だよね……?」


 ラウンは充血した眼を閉じ、精一杯の笑顔を作った。カーテンレールにはハンカチの切れ端たちが数珠状に結ばれていて、即席の首吊り台を形作っている。

 トオルがラウンの元に駆け寄ると、彼女は何度か首を横に振り、唇の端を痙攣させた。


「なんだ。君も、人間じゃなくなってしまったんだね」


 トオルはそこで、ラウンの舌に血が滲んでいることに気づく。


「お前、舌を……」

「まったく。死ねないなんて、不完全な生き物になっちゃったね……」

 ラウンは口内の血をパジャマの袖で拭うと、無理やり明るい声を絞り出した。

「君がディークとかいう生き物になったんなら、ボクの願いを叶えてくれるよね?」


 トオルは目を逸らす。こんな状況で問われる願いなど、ただ一つだ。


「……君が望むなら、叶えよう」


 ラウンの細い首に、武骨な手が伸びる。獲物を引き裂く爪が、少女の肌を傷つける。彼女の体は、大きな力に身を委ねるように動きを止めていた。

 トオルは無心で力を加える。共感してはいけない。思い返してもいけない。目をつむれ。耳を塞げ。心を殺せ。淡々と、日課のように仕事を済ますんだ。


 結論から言うと、彼は少女を殺せなかった。ラウンの瞳から流れる一筋の涙に気づいてしまった瞬間、彼は慟哭どうこくと共に手を離した。


「ラウン、すまない……。俺じゃ、力不足みたいだ……」


 トオルは部屋を出て、階段を駆け下りる。自らの無力さが、心に容赦なく突き刺さった。


「トオルくん、スーツの男には気をつけてくれ……!」

「…………」

 湯気の立った苦いコーヒーをすすりながら、トオルは無言で頷く。話の内容の大半は頭に入っていないが、惰性で会話を掴んでいた。


「これから、ラウンの身に危険が及ぶかもしれない。今回のことは、スポンサーには無断だったんだ。研究成果を狙って、何者かが襲撃に現れる可能性だってある」


 ボルゾー氏は焦っていた。ラウンへの施術は衝動的な策だったらしく、スポンサーに宛てる手紙は書き殴ったような筆跡だった。


「実際、魂の供給が止まったんだ。大口の顧客に手を切られた可能性が高い。供給役が捕まったか……?」


 あぁ、とボルゾー氏は小さくため息を吐いた。恐らく、研究の主目的は完遂されたのだろう。それなのに彼の顔が曇っているのは、何か不安を抱えていることの証左だ。

 その不安の正体は、やはり娘の将来に関することだろう。貴重な収入源をおのずから絶ってしまったことによる損失は、彼女の未来も絶ってしまうことに繋がらないか、という不安が表情に付きまとっていた。


 ドアノッカーの音色が響く。ボルゾー氏は疑念を振り払うように何度か首を振ると、勢いをつけて立ち上がり、玄関に向かう。

 トオルはマグカップに残ったコーヒーを飲み干し、ラウンに今後どんな言葉を掛けるか考えあぐねていた。ディークは願いを叶えなければならないのに、彼女の心からの願いを叶えることさえ出来ない。しかも、それが自分のエゴによる独善的な選択であることが何より許せないのだ。


 来客の対応を済ませたボルゾー氏は、何も語らずにトオルの元に帰ってきた。手帳に『DCCC、笛吹き男、ヤオビクニ』などの文字を走り書きし、頭を抱える。トオルにその意図は掴めないが、きっと重要なことなのだろう。

 無言の空間が生み出す閉塞感を打ち破ったのは、階段を降りてくる足音だった。


「ラウン……?」


 ボルゾー氏の呟いた呼び掛けに、階段をゆっくりと降りる少女は頭を上げた。口を真一文字に結び、瞳に絶望の色を漂わせた少女が、ふらついた足取りで接近する。

 トオルは嫌な予感を感じ、身震いした。ラウンが部屋を出て、階下に現れることなど、今まで一度もなかったからだ。


「父さん、ちょっと話があるんだけど、いいかな?」

 いつもの間延びした呼び方ではない。言葉を噛んで含むように、彼女は訥々と問う。

「ボクの身体に、何かしたよね?」


「ラウン、私はお前のために……」

「そんなこと、望んでないから」


 ボルゾー氏の呟く言葉を遮って、ラウンの静かな怒りがその場を打った。


「でも、お前は外に出たいって……」

「もういいんだよ……! 外が退屈な世界なことくらい、ボクだって知ってる。みんなつまらない顔をして、時間を無駄に過ごしているだけだった! この部屋に閉じ込められたボクも、世界に閉じ込められた人間も、本質的には何も変わらないってことぐらい解るんだよ……!」

「あぁ、ラウン……! 私はお前を生かすために……父親としての役目を果たすために……!」

「だから余計なことしないでくれって、さっきから言ってるじゃん。子どもの希望を捻じ曲げてまでも残さないといけない命なんて、必要かな?」


 答えに窮するボルゾー氏に、ラウンは躊躇なく言い放った。


「父さんは私を生かすために全力を尽くしてる。でも、私は死ぬために全力を尽くしてるんだよ! トオルが私に死を躊躇わせるための道具ってことくらい、14年も一緒に暮らしてたらわかるよ。だから、もう良いんだよ……!」


 ラウンは息を継がずにそう言い放つと、また階段を上がっていった。それだけを言うために部屋を出たのだろう。彼女の言葉一つ一つが、毒の塗られたとげのように、二人をじわじわと苦しめる。


「トオルくん。やっとあの銃の正しい使い方がわかったよ」


 ボルゾー氏は絶望を隠さない表情で、トオルの前を横切った。

 嫌な予感がする。トオルは直感的にそう思った。今のボルゾー氏の精神状態なら、選ぶ答えは一つしかない。

 書斎に鍵をかけ、篭ったボルゾー氏の苦悶を、トオルはよく理解していた。あの鈍く光る銃口を、こめかみに押し当てている。そうに違いない。

 銃声が聞こえた。アルベルト・ボルゾーは、独善的な愛を振り撒いた末に死んだのだ。

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