#4
「あのさ、外に出たいんだよね」
トオルが働き始めて2年が過ぎたころ、少女はそのようなことを呟いた。
ずいぶん唐突だな。そう彼は思うが、脳内ですぐに否定する。厳密に言えば、兆候は最近目立ち始めていたのである。
「どうした。何か嫌な事でも?」
ラウンにとって、外に出ることは死に直結する事象だ。いつもの“退屈が誘発する希死念慮”が発作的に再発したのかと、トオルは身構えた。
「ここに居続けて嫌なことがないって、本当に思える?」
彼女の返事は素っ気ない。“誰かと話す”という鎮痛剤の効き目は、2年が限度だったようだ。
自分の行為は末期の癌患者の手をずっと握っているような、気休め程度の効果しかなかったのかもしれない。トオルはそう思い、自嘲したい気分に襲われる。どちらにしろ、薬の効果は切れてしまったのだ。
「死ぬために心残りなことは、なるべく排除したいんだよ。あわよくば、外で死ねるといいね!」
最後の一言はおどけてはいるが、本音だろう。この部屋に居続けて感じる閉塞感を打ち払うには、死を選ぶしかないのだろうか。
「とりあえず、ボルゾーさんに話してみるよ。今日は、ほら、夕食を食べないか?」
乱雑に置かれたローストチキンに、時間稼ぎをする役割を本気で託していた。
* * *
「まあ、こういう事なんです」
「……ラウンがそんなことを?」
寒々しい地下室の奥で、ボルゾー氏は牛の死体を処理していた。適合しなかった、それだけの理由で死んでしまった牛の姿を、トオルは不憫に思う。
「反抗期かな? どうしよう」
「どうしようって……」
この地下室に住む動物も、部屋で孤独を紛らわす少女も、本質的には何も変わらないのかもしれない。トオルは昔読んだ小説を思い出す。
強いて言うなら、彼女は山椒魚だ。その冒頭を借りるなら、「ラウン・ボルゾーは悲しんだ」と言えるだろう。ただ、その終わりを失念してしまった。最終的に、山椒魚は自らの住処から抜け出せたのだろうか?
「とりあえず、私には娘を外に出すつもりが毛頭ない、と言っておこうか」
彼女を閉じ込めた張本人は、淡々と自らの主張を通す。親というものは、子の命を守るためなら非情になれるのだろうか。子のたっての希望を無視してまでも。
「そうだ。一つ頼みたいことがあるんだけど」
麻袋を持ち上げつつ、ボルゾー氏は呟く。その中身に少年少女の魂が増えていることを、トオルは気付いていた。
* * *
「今日ほど作戦決行に適した日は無いと思うんだ」
紅いキャスケットを被ったラウンは、グレーのダッフルコートをクローゼットから取り出しながら、宣言した。
「今から、家出します!」
キュロットスカートからすらりと伸びた脚はアーガイル柄のタイツに覆われ、トオルをはっとさせる。見慣れていたが、彼女はやはり美しい。
「家出するって、どこへ?」
「……トオル、アルカトピアを案内してくれない?」
暗がりの中、忍び足で階段を降りた二人はエントランスに立った。彼はボルゾー氏の個室を一瞥し、一瞬後悔の念に駆られる。
「ボルゾーさん、寝てた?」
トオルが尋ねると、ラウンは悪戯っぽく笑った。
「それはもう、ぐっすりだよ。死んだように寝てる。……一服盛ったからね」
玄関を開ける。夜風が身を切り、トオルはコートを羽織るべきだったと後悔した。冬の足音が響くクリスマス前の週末であるなら、寒いのは当たり前なのだ。
トオルは愛車のエンジンを掛ける。2年のブランクがあり、やはり運転には不安が付きまとった。助手席の少女を不安がらせないよう、慣れた手つきを装うようにカーラジオを付けた。車内BGMは、ボサノヴァだ。
落ち着けるメロディで良かった。これがハードロックなら、フルスロットルで公道に突っ込んでいたかもしれない。トオルは安心し、背もたれに身を預けた。
ヘッドライトを点けると、視界は急激に冴えわたっていく。夜という真っ黒い虫の群体を光線銃で薙ぎ払っているようだ。
田舎町とスポーツカー、ボサノヴァ。それらを集めた風景はミスマッチな物の極致で、それが却ってハイセンスな映画のワンシーンのようだ。国道に出さえすれば、違和感は消えるのだろうか。彼のハンドルを持つ手に力が入る。
夜の街を駆ける赤い車体は、ラウンの閉塞感を打ち破る弾丸に変貌していた。トオルは助手席で笑うラウンの姿を一瞥し、ほっと胸をなで下ろす。日光が当たらなければ、外に出ても平気なようだ。今は地球の裏で輝く太陽に感謝しよう。彼は初めてそう思った。
2年が経っても、都会は都会のままだ。赤信号の向こうに見える駅前広場の喧騒を、トオルは嫌なものを思い出すような表情で見つめる。
薄暗い空と拮抗するように伸びる黒いビルが長身の巨人であるなら、その地下から漏れ聞こえるクラブ・ミュージックは心臓の鼓動だろうか。巨人の群れは空を支えるように両手を突き上げ、瞬く星の輝きを遮ろうとしている。トオルはその頭を見上げようとしたが、首が痛くなりそうで、やめた。
不夜城、眠らない街。そのように形容されるアルカトピアは、人間の欲望を喰らい尽くしてさらに成長しようとしている。
この街自体がディークではないだろうか。不意に湧き上がった冗談も、裏路地で停車しているライトバンが視界に入って立ち消えた。そこから逃げるように飛び出した男が、いかにも堅気ではない容貌をしていたのだ。彼は反射的に目を逸らした。
「ねぇ、映画館行こうよ!」
「映画?」
今話題の映画は何だったか。トオルは黙考し、首を振る。二人とも流行とは隔絶された環境で生きていたのだ。今のヒット作が何かなど、知る由もない。
「確か、近くの駅ビルに映画館があったはずだよ。行ってみる?」
「おー!」
イルミネーションに照らされた街路樹と浮かれた通行人を遠目に眺め、トオルは駐車場に車を停止させる。映画館の外壁には、上映している映画のポスターが貼られていた。中には、リバイバル上映されている作品もあるようだ。
「トオル! この映画観たい!!」
「これ、5年くらい前の映画だぞ? ビデオ借りた方が良くない?」
「違うんだよ! トオルは映画館で見る映画の魅力をまったくわかってない! まぁ、ボクも初めてだから良くわかってないんだけどね!」
ラウンが指さした映画は、トオルが大学生の頃に上映されていたもののリバイバル上映だ。
ノストラダムスの予言が世間を騒がせていた頃の、小惑星だか彗星だかが地球に落ちてくるというものである。金曜日の夜に地球が崩壊する映画をリバイバルする事に若干違和感を覚えたが、『週末』と『終末』を掛けていることに気づき、トオルは吹き出した。
* * *
「いやー、茶番劇だったねー……」
「……あんなに楽しそうに見てたのに?」
観賞後、二人はファミリーレストランにいた。
実際、ラウンは中盤まで目を輝かせてスクリーンに釘付けになっていたのだ。それがラスト間際になると目を伏せがちになり、こうして食事を摂っている間もほとんど話さなくなった。
「いや、演出で泣かせようとし過ぎてなんかダメだったし! 結局、衝突は回避されたし! それじゃ自暴自棄になって死んだ人が救われないじゃん!」
ラウンは唇を尖らせ、シナリオへの不平を漏らした。テーブルには初めて飲んだであろうクリームソーダと、映画のチケットが置かれている。
「じゃあ、地球は滅びてしまえば良かったの?」
「そうとは言わないけど、少なくともあれがハッピーエンドなんて認めないよ!」
ラウンの人生哲学に照らし合わせれば、人類滅亡を望む者がいる限り、あのオチハッピーエンドとは認めないだろう。2年も寝食を共にしていれば、彼女の思想も大体理解できてきたのかもしれない。
トオルは、ボルゾー家の価値観に染まることを受け入れつつあった。最初はあれだけ抵抗していた魂の実験でさえ、今は何も心を動かされずに処理できるようになっていたのだ。
「あっ、そう言えばさ、トオルが最初にうちに来た時、とーさんに『世界は変えない方が良い』的なこと言ったんでしょ?」
「そんな事もありましたねぇ……。自分ひとりじゃ世界なんて変えられないと思ってたんだよ」
口には出さないが、今だってそうだ。それは心の奥底に根付く諦念で、彼の思考を形成する核になっている。
「とーさんも、トオルも、世界を仰々しく考えすぎじゃないかな? 世界を終わらせるのに、小惑星なんて必要ないんだよ!」
ラウンはそう言うと、机に突っ伏して両手で耳を塞いだ。目をしっかりと
3秒経つ。ラウンは目を開け、トオルに向けて挑発的に笑った。
「ほら、ボクは3秒世界を終わらせた!」
「ごめん、説明をお願い」
「世界って、ボクの見える範囲の物だし、聞こえる範囲の音でしょ。もしくは、手が届く範囲にある物かもね」
ラウンは得意げな顔を隠さない。口の周りにフロートのアイスが付着していることに気づき、トオルは紙ナプキンを投げ渡した。
「それ、世界じゃなくて視界だね」
「あっ、ニアミスした! でもさ、世界って一人ひとりの視界が集まったものだと思わない? つまり、ボクは65億分の1の世界を支配してるんだ。君が思うように世界が肥大化してるなら、それだけボクが支配できる視界も広くなるんだよ!」
トオルに突如として授けられた言葉は、彼の心臓を直に撃ち抜いた。その諦めに似た
「世界を変えたいなら自分を変えろ、なんてよく言うけどさ、あれは嘘だよ。ただ、誰もが世界を支配できる。それだけだよ!」
「……なるほどな」
力強く語るラウンの姿を見て、トオルは何かが救済されたような気分に陥った。
「ところで、視界と世界の間にある物ってなんだと思う?」
少女はストローでメロンソーダをかき混ぜながら、トオルに尋ねる。
「視界と世界の間? ごめん、まったく見当がつかない」
「空だよ。ほら、スカイ! 視界と世界の間にある、スカイ!」
繰り返し呟かれる単語に、トオルはやっと合点がいった。
「駄洒落じゃん……」
言葉遊びのように見えて、真理だ。トオルはそう考える。視界に広がる風景を覆うのも、世界を上から支配するのも、
視界、世界、スカイ。口に出すと子ども騙しの早口言葉のようで、繰り返して発音したくなる。
「これが、正解なんだよ。これがわからないと世界は瓦解しちゃうんだよ! ……あっ、これは意図的な駄洒落じゃないからね!」
即興で生まれた早口言葉を、二人は声を揃えて呟いた。視界、世界、スカイ。
「トオル、まだ時間ある?」
「まだ深夜だ。明け方までに帰るとするなら、まだまだ余裕はあるよ」
ポケットから財布を取り出しながら、トオルは背後の少女の顔を見ずに答える。久しぶりの外食で持ち合わせが足りるか一瞬ヒヤリとしたが、杞憂だった。
「あのさ、最後に行きたい場所があるんだけど、いい?」
「構わないけど。どこ?」
「案内してよ、トオルが昔行ってた舞台に!」
身を切る寒風に身体を震わせながら、二人は目的地まで歩いた。車の方が良いんじゃないか、と不平を述べるラウンに対して、歩いた方が近い旨を説明しつつ、トオルは歩道橋から月を眺める。
目の前の巨大なビルと比べると控えめな月は、直線的な街並みの中で、ただ丸みを帯びて佇んでいる。青白く輝きながら、この街に住む人々を
「着いたけど、ボロボロだなぁ……」
目の前にそびえる廃墟同然の建物に、二人は驚いた。ことごとく割られたガラスに、壁にスプレーで殴り書きされたグラフィティ・アートは、不満を募らせる若者に陣取りゲーム感覚でなされたものだろう。2年前でも『歴史ある』や『伝統』といった修飾語が良く似合う外観だったが、現在の立ち姿は痛々しかった。それは月日による変化の限度を超えていて、肥大化した街が変わらないまま足を止めた建造物に裁きを下したようにも感じられた。
「えっ、ここで合ってるよね?」
ラウンが怪訝そうな顔で呟く。
「合ってるなら入るけど!」
「間違いない、と思う。実際、俺も驚いてるよ」
「そっかー。じゃあ、入りますか!」
言うが早いか、ラウンは鉄柵を飛び越え、内側から鍵を開く。
「おい、不法侵入だぞ!?」
「暗いから大丈夫だって!」
街灯の明かりの死角を縫うように、ラウンは躊躇なく駆け回る。その様子に不安と眩しさを覚え、トオルは駆け出した。
劇場内は外観ほど荒廃していないので、トオルは最前列に腰掛けた。今までは舞台袖で見ていた景色を、客側の視点で見ることに僅かな違和感を感じている。
幕が上がり、トオルは反射的にブザーの音を聴いた。もちろん、廃墟と化した劇場にブザーが設置してあるとは考えにくく、彼は根強い職業病的なルーティンが生み出した幻聴だと納得した。
舞台袖からゆっくりと現れた少女は、たった一人の観客に向けて一礼をする。茶番めいた拍手が響き、ラウンの独り舞台が始まった。
少女は、廻り続けた。壊れたオルゴールの上で運命を受け入れる機械仕掛けのバレリーナのように、普段着のままくるくる、くるくると廻っている。決して優雅だとは言えない我流のコンテンポラリー・ダンスに、トオルは目を奪われている。
優雅ではないが、華麗だった。ワルツは流れていないが、音響こそ邪魔だ。静寂こそが、彼女の花のような可憐さを遮らない。トオルは、自らの心拍音でさえ邪魔だと思った。
ふと、窓から延びる光がスポットライトのようにラウンを照らしていることに気づく。よく見れば、それは先ほどの青白い月光だった。
やがて、少女はか細い声で歌う。メジャーコードの明るいオペラ歌劇だ。にも関わらず、不思議とトオルは心にざわついた『何か』を感じる。
歌い続ける少女の頬が濡れる。ラウンは涙を流しながら、声を震わせて歌う。退屈や絶望に声帯が追いつかないのだろうか。徐々に
このまま、世界が終わっても良い。ラウンの可憐な姿を見て、トオルはそのようなことを考え続けている。少女の自殺願望を受け止め続け、それでもなお、心のどこかで彼女に死んでほしくないという想いを育て続けていた。どうせ彼女が死ぬ気なら、このまま世界は滅びればいい。トオルは迷いながら目をつぶり、耳を塞いだ。脳内で、先ほどのダンスが巡っている。紅いドレスを着たラウンが、廻りながら救いを求めている。彼は自らの思考と彼女の価値観の間で揺れ動き、僅かに涙を流した。慟哭するまでもいかない、霧雨のような涙を。
* * *
「ありがとう、ありがとう……。最高の舞台だったよ」
トオルは歩道橋を渡りながら、隣の少女にそう呟く。ラウンは欄干に背中をもたれながら、真顔で頷いた。
「トオル。私、外の世界に出ることに期待してたんだよね」
眼下で走り続けるトラックやバイクの群れを気にも止めず、ラウンがぽつりと呟く。
「でも、期待しすぎてたのかなぁ?」
そろそろ夜が明けそうだ。
「結局、何をやっても退屈なんだよね、ボク」
ラウンは冷たく笑う。そして、欄干から身を乗り出し、少女は
「だから、もう終わりにするね……!」
スローモーションめいた視界の中、トオルは数段飛ばしで階段を駆け下りた。
それでも、助けなければ。頭より先に体が動き、後悔をする間もない。たとえヘッドライトが自らの身体を照らしても、トオルは歩道を踏み切るのをやめなかった。
彼がラウンを抱き上げた瞬間、強い衝撃と共に彼の意識はシャットアウトされる。
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