#3

 カーテン越しに射す月明かりが、トオルの目を冴えさせた。

 この部屋に住み始めてから、二週間が経った。雇用主から借り受けた客室はそれなりに広く、小さな窓から見える景色も悪くない。置かれている家具はラウンの部屋の雰囲気に近く、この家全体に統一された印象をもたらしている。

 トオルはベッドに横になり、自らの人生に思いを馳せる。自分にとって、今まで生きてきた理由は何だったのだろう。無計画に生き、無計画に捨ててしまった可能性の欠片が彼の体にまとわりつき、血の出ない傷を刻む。

 寝間着代わりのTシャツが湿り始めた。彼は枕に自らの顔面を押し当て、小さな声で誰にも向けない呪詛を吐く。


 扉が開いた。くたびれた白衣を着た家主が、懐中電灯を片手に顔を出す。


「眠れないのか……?」

「ボルゾーさん……。すいません、静かにしますので」

「……ちょうど夜食を作ろうと思っていたんだ。一緒に食べないか?」


 レンガ造りのキッチンに置かれたフライパンには、溶けて小さくなったバターが加熱されている。ボルゾー氏はそこに細かく切ったエリンギを入れ、フライパンを傾けた。


「ちょっと待っていてくれ。すぐに出来る……」


 ボルゾー氏は塩と胡椒を片手に、後方で困惑しているトオルに声を掛けた。

 妙に手際が良い。着ている白衣を割烹着に変えても違和感がないほどだ、とトオルは感心する。実際、この家の家事を担当するのはボルゾー氏であり、それは料理においても例外ではなかった。

 彼らが座るダイニングに白い大皿が置かれ、その上に料理が盛り付けられる。ナイフとフォークが手際よくセットされ、コンロの火が止まった。


「さぁ、どうぞ」

「いただきます!」


 できた料理は、エリンギをバターでソテーしただけの簡素なものだ。あっさりとした風味だからこそ、濃厚で香ばしいバターの香りが口の中に広がる。


「美味しい……!」

「お粗末さま。箸の方が食べやすいかい?」


 ボルゾー氏はキャビネットから黒い小さな箸を取り出し、トオルに渡す。


「あっ、ありがとうございます」

「すまないね、この家で箸を使う人は滅多にいなかったから……」


 トオルはエリンギを口に運び続け、頷きながら笑みを漏らした。


「美味しいです……。今まで食べたどのソテーよりも!」

「そうか、ありがとう」

「あの、何か隠し味とかあるんですか?」

「食欲を満たすのに最も適した時間は深夜だと思わないか?」

 ボルゾー氏は楽しそうに呟く。

「背徳感は食事に彩りをもたらしてくれる。要するに、隠し味だ。これは、欲望を満たす味だよ」


「トオルくん、私は人間が嫌いなんだよ」


 大皿のエリンギをつまみながら、ボルゾー氏は訥々とつとつと語りだす。


「人間ほど狡猾な生き物はいないよ」

「なんで人間が嫌いなんですか?」

「そうだねぇ、人間と動物の違いって何かわかるかい?」

「言語を解すか、とかですか?」

「少し違うな。ほら、狼は月に向かって吠えるだろう? 群れをなす動物固有のコミュニケーションツールを、ほかの種族の動物が理解できるわけがないんだ」

「道具を使うか、とか?」

「それも違うね。野生のチンパンジーはアリを喰うために木の枝を活用するし、カラスは胡桃クルミを割るために自動車すら利用する」

「えっ、そう言われたら人間と動物の違いなんて……」

「あぁ、ほぼ無いんだよ。万物の霊長、食物連鎖の頂点とさえ言われているのに。自分たちより優れた生物がいないかのように、傲慢に振る舞う。食い物にされることを想像していないんだ。何も知らないのに、傲慢に……」


 熱っぽく話すボルゾー氏の言葉をエリンギととともに咀嚼そしゃくしながら、トオルは想像力を最大限まで働かせる。

 自分たちより頭の良い動物がいたとして、彼らは人間の文明をどう考えるのだろう? 高度な文明を持つ生命体は、人間を利用しようとするのだろうか。


「理由はまだある。人間は、理性や社会性を傘に欲望を隠すだろう? まるでそれが美徳であるかのように恥じらい、我欲を悪であるかのように扱う」

「それは、良いことではないんですか?」

「逆だよ。動物は本能を——云わば、欲望だとか欲求を糧に生きている。彼らが生きている理由は清々しいし、とても単純で綺麗なんだ」

 ボルゾー氏の語りに熱が入る。

「その点、人間はどうだい? 欲望を理性で制御しようとしている。それに、自らの手に入れたものを手放したくないと思うことも、人間の悪癖のひとつだ」


 ボルゾー氏のフォークが空を切る。皿の上のエリンギはもうなくなっているのに、彼はそれに気づかず語り続けている。


「なぜだと思う? 手に入れた物が、いつか消えてしまうからだよ。そう、人間の命も永遠ではない。永遠ではないからこそ、人は欲望を晒せないんだ。果てのないメビウスの輪のように、人の命も物質も永遠であったなら、人間は矢継ぎ早に求め続ける。衝突もなく、奪い合いもないんだ。それは、あるべき欲望の姿ではないかな?」


 ここまで話したところで、雇い主はふと我に返った。首を降り、はにかむような笑いをトオルに向けると、またゆっくりと話し始める。


「欲を晒すことの出来る人間は美しい。それ以外の人間は嫌いだ。君は前者であり、後者でもあった。こういう事だよ」


 トオルは徐々に混乱してきた。脈絡なく詰め込まれていく情報の洪水に、眠っていない彼の脳は悲鳴をあげ始めている。ボルゾー氏は一度語りだすと止まらないタイプで、饒舌にトオルを採用した理由を語っている。


「ただ、君にはあまり欲望そのものが無さそうなんだよ。高いバイト代で強欲そうな奴を引き抜こうと思ってたんだが、君は君でなかなか面白いね……」


 やっと話が終わったようだ。ボルゾー氏は冷蔵庫からウイスキーとショットグラスを取り出した。


「確か、眠れないんだったね。アルコールは眠気を誘発してくれる。良いアイリッシュがあるんだ、呑もうよ」

「すいません。俺、実は下戸で……」

「そうか、残念だ……」

「それより、コーヒーとか頂けません? 喉、乾いちゃって」

 ショットグラスを傾けながら、ボルゾー氏は苦笑する。

「カフェインは眠気を醒ますと言われているが、君はこのまま徹夜するつもりかい?」

「あっ」


 シンクに溜まった水は小波さざなみを立て、底にある皿の汚れを浮かせる。それを引き上げ、洗剤を擦り付けるボルゾー氏の背中を見て、トオルはあることに気づいた。


「ボルゾーさん、肩の上に何かいるんですけど……」


 出来の悪い陽炎のようにぼやけた物質が、彼の肩上数センチのあたりを漂っている。決して羽虫ほど小さくなく、生後三ヶ月の小型犬ほどの大きさのそれは、トオルが目を凝らすほど消えていくようだ。


「そうか、見えたか……」

「えっ、見えた……って?」

「明日の朝、地下室に来てくれ。話したいことがある……」


    *    *    *


 長い夜を超えたが、カフェインは効果を発揮したらしい。結果として眠れなかったトオルは昨夜のコーヒーの残り香を舌先で感じながら、少し早足で待ち合わせ場所に向かう。


「おはよう、トオルくん。昨夜はよく眠れたかい?」

「えぇ、お陰様でこんな時間に起床できました」


 時刻は午前5時だ。トオルは小さく首を回すと、ボルゾー氏に小声で尋ねる。


「あの、今日の仕事は……?」

「ラウンには昼まで我慢してもらおう。そう伝えておくよ」


 階段裏の重い鉄扉を開け、二人の乗り込むエレベーターはゆっくりと下降していく。トオルが想像していた炭鉱用エレベーターのような代物ではなく、白を基調とした近未来的なものだ。

 密閉空間での重い沈黙を破り、ボルゾー氏がトオルに問いかける。


「トオルくん、命は平等だと思うかい?」

「……また思考実験ですか?」

「悪いね、こういう話でしか暇を潰せないんだ」


 トオルは少し呆れつつ、質問の答えを探す。さして考えることなく、彼の脳は答えを導き出した。


「平等なんじゃないですか? 世間でもよく言われてますよね」

「スラムにいる子供も、私腹を肥やす富豪も?」

「はい、皆平等に生まれ、平等に死にます。スタートラインも、ゴールフラッグも、皆同じ位置にあります」

「成程。いや、実は私もそう思うんだ」

「意外ですね。ボルゾーさんと意見が一致するなんて」


 ボルゾー氏は笑った。どうやら、気に入られているようだ。トオルは内心複雑な心境である。


「この世に神はいない。人間も、動物も、皆同じ命であることに変わりはないよ」

「あれ? ボルゾーさんって人間嫌いじゃ……」

「トオルくん、好き嫌いと価値観は必ずしも一致しないんだよ。心情的には動物贔屓ひいきだが、それとこれとは別の話だ」


 エレベーターでの長い時間を乗り越え、二人が降り立ったのは薄暗い部屋だ。トオルはあまりのコントラストに少し怯み、一歩だけ下がった。ボルゾー氏はそれに気づき、わずかに頬を緩める。


「ようこそ、ここは地下40メートル。私の研究所だよ」


 地下室は薄暗く、トオルは暗闇に目を慣らそうと眉根を寄せる。なんとかはぐれないように、前を突き進むボルゾー氏の背中を常に視界に捉え続けなければならなかった。

 二人が薄暗い廊下を歩いている間、トオルの耳には粘ついた呼び声が届き続けている。


『お前の願いはなんだ……?』

『欲望はなんだ……?』

「ボルゾーさん、なにか聞こえるんですけど……」

「後で説明するから、何も答えず目を瞑っているんだ。いいね?」


 ボルゾー氏はトオルの手を引き、長い廊下を駆けた。


 たどり着いた部屋は照明に煌々と照らされていた。さながらSF映画に登場する地下研究所のような内装の部屋だ。汚れ一つなく磨かれた白の壁に、動物実験に用いるようなケージが無数に埋め込まれている。

 ケージはほとんどが居住者不在で、トオルは無人のアパートを思い起こした。いくらか残っている生物は、突然の来訪者を睨みつけながら冷たい床に伏している。それをまじまじと観察している彼に、ボルゾー氏が語りかける。


「トオルくん、ディークノアって知ってるかい?」

「……フォークロア?」

「ディークノアだ」

 トオルが素直に知らないと答えると、ボルゾー氏は続けて訊いた。

「『エデンの蛇』は?」

「アダムとイブに知恵の実を唆したっていう……?」

「あぁ、私の研究している生物——ディークが人間に初めて感知されたのは、その種だと考えられる」

 ボルゾー氏は研究者としての血をたぎらせながら、楽しそうに語りだす。

「ファウスト伝説におけるメフィストフェレスなんかも、ディークの一種だ」


「でも、それって両方とも作り話ですよね? 神話内の人類創造や創作作品の悪魔信仰なんて、科学的に否定されてるはずですし……」

「例えば、1万人に1人しか見ることの出来ない生物がいたとして、世間は認めたがると思うかい?」

「さっきから何を言って……」

「それに、火のないところに煙は立たないんだ。ドクトル・ファウストゥスという錬金術師は、現に実在している。それなら、メフィストが居てもおかしくないはずなんだよ……」


 トオルは首を振る。ありえない。この人の言っていることが、うまく掴めない。


「そうだ。神話の中や民間伝承の中しか存在しない、『人間の欲望や祈りを具現化する存在』、奇跡や信仰の依代を私は発見した!」

「それは一体……?」

「まだ微弱だが、陽炎のような何かを、昨日の君は見たはずだ。そして、ここまで来る間に聞いたはずだ。欲望を増幅させる声を! それがディークだ……!」

 ボルゾー氏の語りはさらに熱を帯びる。

「ただ、彼らは見える者しか視えない。愚かな人間は『見えるものしか信じようとしない』。学会の連中だってそうだ、見えないものを知覚しようと努力するのが科学なのではないのか!? 欲望こそが人間を高みへと押し上げるアクセルであるなら、ディークという存在はエンジンだ! たとえスピード違反を犯そうとも、アクセルを踏めば人間は変わる!」


 演説じみたボルゾー氏の語りを聞きつつ、彼は思う。自分は恐らく彼の言う愚者なのだろう。見えるものしか信じられないような人間の一人だ。


「なるほど、ディークは寄生虫のような存在であるということですかね……? その生物とお嬢様に何の関係が……?」

「その生物は、太陽光に適応できない。あまりに強い紫外線を浴びると、生命活動を止めてしてしまうんだ。そう、ラウンと同じだよ……」

「つまり、その生物の生態を調べれば、お嬢様の治療法がわかるということですか……?」

「当たらずとも遠からず、かな。勿論、そういう目的もあるんだよ。ただ、それだけじゃない」


 ボルゾー氏は、感慨深く目を細めた。これまでの彼の人生は、そういった研究に費やされてきたのだろう。トオルは雇い主の苦労を窺い知ったような気がした。


「トオルくん。ここまで言ったが、もしかしたら信じられないのではないかな?」

「あぁ……はい、まぁ。今まで体感してきた常識と余りに剥離しすぎていて……」

「信じるか信じないかは君次第だよ。だが、実際に見てみるといい。百聞は一見に如かず、というやつだ」


 ボルゾー氏に連れられて向かった研究室の隅には、大きな鉄のおりが丁寧に置かれていた。トオルが中をのぞき込むが、そこに居る生物を彼は視認できない。


「トオルくん。『月輪王』って知ってるかい?」

「昔のラルフリーズ王の別名でしたっけ。確か……」

「今から千年ほど前、の国を栄華極まる帝国にした賢君、レオンハルト四世の別名だ。よく知ってるね……」


 ボルゾー氏は咳払いを一つすると、詩の一節を誦んじるかのようにスラスラと語り続ける。


「その王が治世を始めた時代の話だ。王の悩みの種は、他国に攻め込まれる危険性が未だ残っていたことだった。当時のラルフリーズの兵は数こそ多いが、あまり強いとは言えなかったんだ。それに王は悩み、どうにかして軍事力を高めようとした。そこで彼が目をつけたのは、英雄と神霊だった」

「英雄……」

「神話のような話だろう? 王は一騎当千のつわものを求めた。そのために古今東西の魔術書を読み耽り、ある神を信仰し始めたんだ。神を祀るための祭壇を作り、そこで彼は三日三晩天啓を求め続けた。3日目にしてそこに現れた獅子の神獣は、王に名案を授けた。それが、蠱毒こどくだよ」

蠱毒こどくって……」

「知ってるかな。毒虫を狭い容器に閉じ込め、最後に生き残った個体を使う呪術だ。王はそれを人間で行ったんだよ。闘技場コロッセオに剣闘士や騎士を集め、『生き残ったものの望みを叶える』と言って殺し合いをさせたんだ」


 ボルゾー氏の声のトーンが少し落ちる。トオルはそれに気づくことなく、彼の話を聞き入っていた。


「戦闘は一週間続き、最後の夜に一人の騎士が王に謁見しに現れた。傷だらけで、だらだらと血を流しながら。彼は迎えた王を槍で突き刺し、神殿にいる神と契約を交わした。そして、その騎士はレオンハルト四世に成り代わったんだ。その後のことは、君が知っているとおりだよ」


 話し終えた彼は、薄いゴム手袋を着けて檻を運ぶ。その細い身体のどこにそんな力が有るのだろうか。トオルは少し考えてしまう。


「でも、そんな歴史の裏話は誰から聞いたんですか!? そんな歴史資料があるんですか!?」

「落ち着いてくれよ、トオルくん。簡単だ、本人から聴いたんだよ。君も話してみるといい……」


 ボルゾー氏はそう言うと、どこからか取り出した注射器を素早くトオルの首筋に打ち込んだ。静脈に刺さった針を通して、乳白色の液体が脈々と注ぎ込まれる。


「ボルゾーさんッ!? いったい何を……」

「五秒貸してくれ。君が耐えれば、世界は開けるんだ。少しだけ我慢してくれ……」


 サイケデリックに歪む視界の中、彼は回転しながら迫る悪魔の姿を目撃する。それは音を置き去りにしたかと思うほど静かに、尖った爪で彼の頸動脈を撫でた。

 その顔を覗き見た瞬間、彼は嘔吐えずいた。泥のように溶けたトオルの顔が、甲高い声で彼自身を罵っているのだ。


『お前はなぜ生きている? ろくな欲望すら持たず、仮初かりそめの幸福を受け容れ、努力しようとしない。なぁ、教えてくれ。お前はなぜ恥を忍ばず、のうのうと生き続けられる?』

「俺は……なんで生きるんだろう……?」


 答えの無い問いかけは、虚ろな闇に消えていく。


『お前が生きるためだけに、何人が犠牲になったか考えてみろ……。お前が喰った生き物、お前に会って運命が狂った者、お前が会うことでこれから狂うであろう者……。すべての可能性を考慮したうえで、それでもお前は生きるか?』


 悪魔が囁く言葉一つ一つが、彼のささくれ立った心に突き刺さる。小刻みに吐息を漏らす彼の後ろから、もう一つの声が聞こえだした。


『問おう、貴様の願いを!』


 全てを圧倒するような覇気のある声に導かれるように、トオルは叫んだ。

「……見つけたいんだ、俺の生きる意味をッ!」


「目を覚ましたか。どうだった? 仮眠はできたかい?」

「……めちゃくちゃ寝覚めが悪いです」

「だろうね」


 トオルは冷たい床の感触から逃れるように起き上がり、あたりを見渡した。

 恐らく世界で最も冗長で苛酷な5分だっただろう。彼は悪夢を見て、そこから救い上げるように響く荘厳な声を聞いた。


「……俺の願いが、やっとわかりましたよ」

「そうか、契約を交わしたんだね」


 ボルゾー氏はトオルの瞳孔を覗き込むと、満足そうに笑みを浮かべた。


「ようこそ、こちら側の世界へ。見渡してごらん、何かが変わってるはずだ」

「あの、俺は一体何を投与されたんですか?」

「知らない方がいい」


 トオルはごしごしと目を擦り、変貌したはずの世界を体感しようとする。内心では半信半疑であるが、この一日で情報の洪水に晒されたせいもあり、彼の価値観は根底から歪み始めていた。


「…………!?」


 彼が目撃したものは、この広い研究室にいる数々の動物達だ。先程まで何も無い空間から現れたそれらの生き物は、宙に浮き、人語を介し、ぎらついた目をしていた。


「これが……」

「見えたかい? そうか、おめでとう。実験は成功したよ!」


 ボルゾー氏はニヤリと笑い、持ち出した檻をトオルの目の前に置いた。錆びた鉄の匂いが辺りに充満し、トオルは思わず苦い顔をする。


「じゃあ、これも見えるはずだ。元気かい、レオンハルト?」

『貴様が起こさなければ、もう少し元気でも居られたのだがね』


 檻の中で話すライオンの声は、夢の中で聞いたものと寸分違わず同じものだった。威厳と覇気に圧倒されるような声だ。少し傲慢なようにも感じられる態度で、尻尾を床に何度も打ち付けている。


「このライオンは……?」

『まったく、これだから不遜な民は……! 余はレオンハルト、月輪王であるぞッ!』


「ボルゾーさん」

「何だい、トオルくん?」

「薬の効果って、まだ切れてませんよね?」

「いや、君はもう覚醒しているはずだけど……」

『安心しろ、現実だ』


 冷めた声で言い放つ獅子の顔に目眩を覚え、トオルは壁にもたれ掛かった。情報が錯綜しすぎている。自身の価値観が高性能な白血球のように自衛しているが、それでもその違和感の渦は彼の精神を消耗させつつあった。


『フッ、生前の余なら誰かの下につくことなど有り得なかったが……。これもディークとして生を受けた物の運命だ。貴様の願いを叶えてみせようッ!』

「やめて、とりあえず黙って……! 整理させてくれ……整理を……!」

「もう一度説明しようか?」


「……と、いうわけだよ。このディークはまだ能力未発現だから、詳細な能力はわかっていない。ただ、生前の彼は大きな身体に釣り合うほど巨大な斧槍ハルバードを使用したとされている……」

「つまり、俺がディークノア化したらそのような斧が使えるってことですか?」

「うん、そうだ。使ってみるかい?」

「遠慮しときます……」


 この実験室には、時計がない。トオルの体内時計は消化不良を起こした胃のように痙攣し、今が何時であるかすらわかっていない。彼はラウンの様子を少し気にした。


「君が見た、陽炎のようにぼやけた生物が居るだろう? あれはね、ディークの幼体だ。彼らはヒト以外の全ての動物に一度だけ姿を変えられる。しかし、このレオンハルトは違うんだよ……!」

「と、言いますと……?」

「レオンハルトは、呪いによってディークになってしまった。即ち、元が人間だ」

『皮肉なものだろう? 国を栄えさせるための呪詛が、巡り巡って自らをヒトならざるものにしてしまった』


 檻の中でライオンはそう語る。ボルゾー氏はそこにフォローを入れるように、わずかな補足事項を口に出した。


「まぁ、この『人間をディークに変える』実例のおかげで、ひとつ進んだ研究を行えたんだがね……!」

「ボルゾーさん、あなたは何故、俺とこの……」

『レオンハルト四世。呼びにくいならアローガとも呼んでくれて構わん……』

「じゃあ、アローガ。何故俺とアローガに契約をさせたんですか?」


 尋ねるトオルに、ボルゾー氏はきっぱりと答える。


「ある研究の手伝いをして欲しいんだ」

「えっ……」


 突然の提案にトオルが困惑していると、付け加えるようにフォローの言葉が飛んでくる。


「安心してくれ、専門知識は必要ないから。それに、賃金も少し上げよう。どうだい?」

「研究の内容にもよりますけど……」

「あっ、すまない。契約の際はこっちも正しく情報を提供しなければ……! 公正フェアじゃない依頼は不当だしね」


 ボルゾー氏はそう言うと、置かれた椅子から立ち上がった。そのまま何かを探しにふらふらと歩く姿は、幽鬼のような儚さすら感じられる。

 この親子には人間味を感じない。そうトオルは思った。共に暮らしていなければ、生活している様子をまったく想像できなかっただろう。


「この中身、なんだと思う?」


 麻袋を片手に尋ねるボルゾー氏に、トオルは首を振る。


「だろうね。まぁ、仕事を実演しながらゆっくり話すから、良ければ聞いてくれ」


 壁に埋まったケージから毛の長いイタチを取り出し、雇い主は麻袋の中身を物色する。


「そもそも、ディークは精神生命体だ。太陽光を避けるのは仮の体が維持できないからだが、栄養の摂取を必要としない。つまり、魂だけの存在みたいなものだよ」

 袋から仄かに発光する青い球体を取り出すと、ボルゾー氏は微笑んだ。

「だから、人間の身体を乗っ取って生活する。魂に肉体を定着させるんだ。そうしないと、揺らいでしまう存在だからね」


 彼は暴れるイタチに麻酔を打ち、握った球体をその腹に沿わせた。


「私はね、この理論から『ディークを人工的に増やす方法』を考案した。研究が進めば、自我のないディークさえ産めるかもしれない。ノーリスクで能力を行使できるんだ」


 ぐったりと倒れているイタチの体内に、その球体が吸収されていく。哀れな獣は身震いすると、突如として目を覚ました。


「ほら、覚醒した!」


 イタチは、紅い眼光をたぎらせながら狂ったように室内を駆ける。実験道具の密集した机の上に飛び乗り、半狂乱でのたうち回った後、身体を窮屈に折り曲げて気絶した。


「適性だ、今日は運が良い!」


 身体を折ったままイタチは浮き上がり、軽薄そうな声で話しはじめる。


『頼む、助けてくれ、命だけは……って、あれ?』

「記憶の混濁が起きているね。ちゃんと下処理して欲しかったな……」


 状況が飲み込めずに騒ぐディークに、ボルゾー氏は無表情で麻酔を打ち込む。そのまま延びたイタチをつまみ上げると、トオルの方へ投げ渡した。


「これ、そこの檻に入れといてくれないか?」

「あっ、ちょっと雑じゃ……」

「これがディークの人工増殖だよ。生物に魂を定着させることで、ディークを作ることができるんだ」

「…………」


 トオルは袋の中の球体を見つめる。その視線を察してか、ボルゾー氏は袋から掬いあげたその物体をトオルの眼前に近づけた。


「触ってみるかい?」


 その物体は、球体というより雫型をしていた。透き通るような青は冬の空のようで、トオルはかつて見たアクアマリンの輝きに近いものを感じた。水風船のような見た目に対して触感は硬くも柔らかくもあり、ガラス細工のような透明感を放っている。


「これ、なんですか?」

「魂だよ」

「……えっ?」

 戸惑うトオルに、ボルゾー氏は一切の感情を廃したような声で語る。

「だから、人間の、魂だよ……」


 物覚えの悪い生徒に根気よく教える教師めいた口調で、ボルゾー氏はゆっくりと話す。冗談を言うような態度ではなく、トオルは思わず後ずさる。


「異常です……! こんなの、魂を冒涜してます……!」

「異常……これがかい? どうして?」

「命をこんな風に弄んで良いわけが無いでしょう……!?」

「へぇ、そういう考え方もあるんだね。君は臨床実験用のモルモットにも情けを掛け、霞を食べて生活するのか……」

「そんな事は無いですけど、流石に人間の魂は……」

「傲慢だね、自己矛盾の塊だ。動物の犠牲なら良くて、人間はダメな理由を教えてくれよ……」

「モルモットは新しい術式や薬で誰かを救うための尊い犠牲です。命を頂くのは、生きる為です。生きるための犠牲は肯定されるべきです」

「それなら、私の研究も認められるべきだ。人間の魂を使うのは、“生かすため”の尊い犠牲だ。最大多数の幸福にもつながる……」

「あなたこそ矛盾してます。どんな命も平等じゃないんですか!?」

「確かに平等だよ。ラウンの命に比べると、人間も、動物も、『平等に無価値』だ」

「でも……」


 言い淀むトオルに、ボルゾー氏は研究の意義を熱弁する。そこに自己弁護をする気配はなく、自らの行為をまったく後悔していないようにも感じられる。


「いいかい? これは永遠の命を造るための研究だ。趣味と実益を兼ねている。いずれ迫る死からラウンを守れるし、実用化すれば世界中の人間が高額で買うだろう。実際、スポンサーも付いてるんだ」

「スポンサー……」

「君には断る権利がある。研究の手伝いを無理強いするわけには行かないんだよ。だから、これを見た上で明日までに進退を決めてほしい」


 ボルゾー氏はちらりと腕時計を確認する。


「さて、もう昼だ。次の仕事も頼んだよ……」



「永遠の命?」

「うん、永遠の命だよ」


 無理やり昼食を詰め込み、嫌悪感と睡魔が同時に襲ってくる昼下がりに、トオルはラウンにもやもやした気持ちに対する救いを求めた。


「永遠の命かー……。僕は要らないかな」

「なんで?」

「人生ってさ、入り組んだ迷路みたいだと思わない? 死というゴールに突き進んで行く迷路。不思議なもんでさ、普通の人はゴールが近づくと出たくなくなるらしいんだよ。そして、そういう人ほど途中リタイアに厳しいんだよね。『ゴールに迎えない人も居るのに、途中リタイアなんて勿体ない』ってね」

 ラウンはうんざりしたような顔で、薄く笑った。

「永遠の命なんて、ゴールのない迷路だよ? 楽しくないし、飽きるし……最悪でしかないね!」


 トオルはその返答を聞き、親子の見識の相違になんとも言えない気分になった。


「似てるわ、やっぱり……」

「何が?」

「君ら親子は、悪い意味で似てるわ!」

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