綺麗だ。


 彼から私に対して声をかけてきたのは、たった一度でした。


「何が、でしょう?」

「えぇ……ああ」


 上擦る声。みるみるうちに赤みが差す頬。胸を強く押さえ、少し白くなる手。その手は震えていました。体調が悪そうな男性でした。恐らく病気だったのでしょう。

 視線は泳ぎ、やがて私が持つ花の籠を指差しました。


「その、花! ……そうだっ花がっ! 決して、違うからな! 俺が言いたいのは、花だから!」

「はい」


 血が通っている。生きている。

 それが私から彼に対する認識でした。


 当たり前と言えば当たり前なのですけど。そうではないのです。

 彼が私に向けたものすべて、血が通い、熱を持ち、色鮮やかで。

 上手く言葉にできないですが、それは確かに“綺麗”に見えたのです。

 だから、


「綺麗ですね」


 私は言いました。

 彼は体調が悪化したようで、顔を真っ赤にして足早に去ってしまいました。

 それから、病気の男性は噴水広場によく来るようになりました。花が欲しかったのでしょう。


「花は如何ですか?」


 そう私が尋ねると、やっぱり体調が悪そうに、


「く、くれ!」


 と言うのでした。


 ああ、この方は何故、こんなに“綺麗”なのだろう。

 いくら思考しても、答えは出ません。



 ◆



「花は如何ですか?」

「いらない」


 その日の彼は、とても嬉しそうでした。喜悦に満ちた笑顔を浮かべ、体調も良好のようでした。ですが、何故でしょう。

 そんな彼の様子を見て、私はちっとも喜べませんでした。彼の病が治ったならば、それは喜ばしいことのはずなのに。


 いつか彼の病が治ったら良いのに。

 いつか彼が笑ってくれる時が来たら良いのに。


 彼に花を売る時はいつもそんなことを考えていました。花を手渡す時にいつも彼の手は震えていて、ひどく辛そうで。だから、それが治ったなら嬉しいはずなのに。


 彼はごく普通に私に話しかけて、ごく普通に私に対して笑みを浮かべていました。

 花は買わなくなりました。


「だって、花はいらないから」


 彼は機嫌良く言いました。


「別に欲しいと思わないんだ」


 だんだんと、私は彼が怖くなっていきました。病気の頃の彼の方が良かったなんて、口が裂けても言うべきではないのは分かっていましたが、そう心から思ってしまっていました。


 まるで、私の方が病気になってしまったようでした。

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