挨拶。


 万国共通でどこへ行っても存在する文化・風習。それは、たとえ親しい人でなくとも心を通わせることができる魔法の儀式。


 「こんにちは」といった短い単語を交わすだけで、もうお互いは知り合いを超えたような気分になってしまう。それが「よう」とかいった砕けたものならなおさらだ。

 しかも、なんの労力もいらない。ただ、すれ違った時に一言、言葉をかければいいだけ。極々微量の声帯と口角の筋肉を使えばいいだけだ。

 それだけで、僕たちは友達になり、世界は平和になる。


 それが、伝説的魔法――挨拶。


「まあ、お前がひどくテンパっていることはよくわかったよ……」


 まだ朝の寒さの残る時間、僕と優樹は二人、閑散とした学校の正門に立っていた。


 僕は動悸を必死に抑えながら。

 優樹はそんな僕の様子に呆れ笑いを浮かべながら。


「だいたい、こんな早くに学校来ちゃってさ。……こんだけ気合い入れて待ち伏せしてるの見たら引くわ」


 まずは挨拶から。方針が決まってからそのことを考えた僕は、挨拶をするのは朝が一番いいのではないかという結論を出した。

 休み時間や昼間にするのは、会えるかどうかわからずタイミングが掴めなさそうなので無理。下校時にすると、見ず知らずの人から「じゃあね」と突然言われることになり、戸惑うこと間違いなし。


 よって、


「朝しかないでしょ」


「どれも変わんねえだろ」


 優樹の目は冷ややかだった。朝の肌寒さも相俟って、夏とは思えない寒さだ。


「朝やったって戸惑うだけだろ……」


「朝はまだ、心の準備ができるだけマシじゃない?」


「その理屈はよくわからないし……現に、できてないだろ?」


 確かに、僕の緊張は一切落ち着く様子はなく、もっと言えば、ひざが笑いっぱなしの状態だった。


 笑っちゃうね。


「はは……一応、これでも収まってる方なんだけど……」


「だったら不安しか残らねえな……昴りすぎて変な挨拶にならないように気をつけろよ」


「うん……頑張る」


 優樹の言葉に頷きを返し、僕は一度大きく深呼吸をした。そして、両の頬をぱしんと平手で叩いて気合いを入れる。

 すると、そのすぐ後にバシンと背中に鈍い痛みが走った。驚いて振り返ると、優樹が親指を立てて笑っていた。どうやら、僕のために気合いを注入してくれたらしい。僕は「ありがと」と短く返して、羽根さんを待った。


 時間が経つにつれて、ちらほらと登校してくる生徒の姿が見えてくる。「あいつなにしてるんだ?」みたいな目を向けられるが、僕は気にしない。気になったと言えば、女子から黄色い声をかけられている優樹の方が気になった。


 嫉妬ジェラシー


 閑話休題。


 生徒の流れも大きくなってきた頃、ついにその時は来た。

 まだ眠気まなこの人が多い中、朝でも溌剌とした笑みを浮かべ、元気な姿を見せる亜麻色の女神。


 羽根貴音が、友人と会話しながら登校してきた。


 僕は一度ごくりと唾を呑み込む。周りの音が全て消え、のどの鳴る音が頭の中で嫌に響いた。

 息を止め、僕は歩き出した。目指すのは、目に映る羽根貴音のもと。

 距離はそれほど遠くない。なのに、近づいていく時間がなぜか長く感じる。


 一歩、また一歩。近づくたび、ただでさえうるさかった胸の早鐘がまたやかましくなる。


 もう一歩。まだ彼女は気づかない。僕はちゃんと挨拶をすることができるのだろうか。そんな思考が頭をよぎり、不安が途端に爆発する。


 もう目と鼻の先だ。羽根さんより前に、その友人が僕に気づく。きょとんとした目を向けられる中で、羽根さんも僕の存在に気づいた。


 あと一歩。


 ストン。僕は足を止めた。逸らしそうになる目を意地で押さえつけ、貴音さんの琥珀の瞳を見つめる。


 「おはよう」だ、僕。

 「おはよう」って言うんだ。

 ここまで来たんだ。僕は、たどり着けたんだ。

 彼女の前に、立つことができたんだ。

 あとは、「おはよう」と言うだけ。簡単じゃないか。


 たった四文字じゃないか。


 言え、言ってくれ……!


「えっと……?」


 前に来ただけで止まってしまった僕に不審を抱いたのか、羽根さんは困ったような笑みを浮かべた。


「君、……真霜くんだよね? どうしたのかな? 私になにか用?」


 明らかに警戒した様子だった。名前を覚えてくれていたのはとても嬉しかったが、優しい口調の中に隠された怯えが見て取れて、僕はとても申し訳ない気持ちになってしまった。

 当然だ。突然無言で目の前に立たれたのだから。


 早く、言うんだ。

 早く、なにか言わないと……。

 なにか……。

 ……。


「羽根、さん!」


「え⁉ は、はい!」


 突然大声を出されて驚いたのか、羽根さんまでつられて素っ頓狂な声を出してしまっていた。

 彼女の名前を呼び、そして――頭の中が真っ白になってしまった。


「あの、その……!」


「う、うん」


 何も考えることができない。


 真っ白で。


 空白だ。


 でも……。

 何かを、言わないと……。


「は、羽根さん!」


「はい」




「――好きです! 僕と付き合ってください!」




「…………え」


 …………え。


 え?


 僕、なに言っちゃったんだろ……。

 昴ぶった。

 昴ぶりすぎた!


 僕は、続く言葉もなく、羽根さんの顔を見る。


 羽根さんの表情は、笑っているんだかいないんだか、よくわからないまま固まってしまっていた。

 僕は、なにが起こったのかわからないまま、固まってしまっていた。

 そして、優樹も、ぽかんとして固まってしまっていたという。

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