3
挨拶。
万国共通でどこへ行っても存在する文化・風習。それは、たとえ親しい人でなくとも心を通わせることができる魔法の儀式。
「こんにちは」といった短い単語を交わすだけで、もうお互いは知り合いを超えたような気分になってしまう。それが「よう」とかいった砕けたものならなおさらだ。
しかも、なんの労力もいらない。ただ、すれ違った時に一言、言葉をかければいいだけ。極々微量の声帯と口角の筋肉を使えばいいだけだ。
それだけで、僕たちは友達になり、世界は平和になる。
それが、伝説的魔法――挨拶。
「まあ、お前がひどくテンパっていることはよくわかったよ……」
まだ朝の寒さの残る時間、僕と優樹は二人、閑散とした学校の正門に立っていた。
僕は動悸を必死に抑えながら。
優樹はそんな僕の様子に呆れ笑いを浮かべながら。
「だいたい、こんな早くに学校来ちゃってさ。……こんだけ気合い入れて待ち伏せしてるの見たら引くわ」
まずは挨拶から。方針が決まってからそのことを考えた僕は、挨拶をするのは朝が一番いいのではないかという結論を出した。
休み時間や昼間にするのは、会えるかどうかわからずタイミングが掴めなさそうなので無理。下校時にすると、見ず知らずの人から「じゃあね」と突然言われることになり、戸惑うこと間違いなし。
よって、
「朝しかないでしょ」
「どれも変わんねえだろ」
優樹の目は冷ややかだった。朝の肌寒さも相俟って、夏とは思えない寒さだ。
「朝やったって戸惑うだけだろ……」
「朝はまだ、心の準備ができるだけマシじゃない?」
「その理屈はよくわからないし……現に、できてないだろ?」
確かに、僕の緊張は一切落ち着く様子はなく、もっと言えば、ひざが笑いっぱなしの状態だった。
笑っちゃうね。
「はは……一応、これでも収まってる方なんだけど……」
「だったら不安しか残らねえな……昴りすぎて変な挨拶にならないように気をつけろよ」
「うん……頑張る」
優樹の言葉に頷きを返し、僕は一度大きく深呼吸をした。そして、両の頬をぱしんと平手で叩いて気合いを入れる。
すると、そのすぐ後にバシンと背中に鈍い痛みが走った。驚いて振り返ると、優樹が親指を立てて笑っていた。どうやら、僕のために気合いを注入してくれたらしい。僕は「ありがと」と短く返して、羽根さんを待った。
時間が経つにつれて、ちらほらと登校してくる生徒の姿が見えてくる。「あいつなにしてるんだ?」みたいな目を向けられるが、僕は気にしない。気になったと言えば、女子から黄色い声をかけられている優樹の方が気になった。
閑話休題。
生徒の流れも大きくなってきた頃、ついにその時は来た。
まだ眠気まなこの人が多い中、朝でも溌剌とした笑みを浮かべ、元気な姿を見せる亜麻色の女神。
羽根貴音が、友人と会話しながら登校してきた。
僕は一度ごくりと唾を呑み込む。周りの音が全て消え、のどの鳴る音が頭の中で嫌に響いた。
息を止め、僕は歩き出した。目指すのは、目に映る羽根貴音のもと。
距離はそれほど遠くない。なのに、近づいていく時間がなぜか長く感じる。
一歩、また一歩。近づくたび、ただでさえうるさかった胸の早鐘がまたやかましくなる。
もう一歩。まだ彼女は気づかない。僕はちゃんと挨拶をすることができるのだろうか。そんな思考が頭をよぎり、不安が途端に爆発する。
もう目と鼻の先だ。羽根さんより前に、その友人が僕に気づく。きょとんとした目を向けられる中で、羽根さんも僕の存在に気づいた。
あと一歩。
ストン。僕は足を止めた。逸らしそうになる目を意地で押さえつけ、貴音さんの琥珀の瞳を見つめる。
「おはよう」だ、僕。
「おはよう」って言うんだ。
ここまで来たんだ。僕は、たどり着けたんだ。
彼女の前に、立つことができたんだ。
あとは、「おはよう」と言うだけ。簡単じゃないか。
たった四文字じゃないか。
言え、言ってくれ……!
「えっと……?」
前に来ただけで止まってしまった僕に不審を抱いたのか、羽根さんは困ったような笑みを浮かべた。
「君、……真霜くんだよね? どうしたのかな? 私になにか用?」
明らかに警戒した様子だった。名前を覚えてくれていたのはとても嬉しかったが、優しい口調の中に隠された怯えが見て取れて、僕はとても申し訳ない気持ちになってしまった。
当然だ。突然無言で目の前に立たれたのだから。
早く、言うんだ。
早く、なにか言わないと……。
なにか……。
……。
「羽根、さん!」
「え⁉ は、はい!」
突然大声を出されて驚いたのか、羽根さんまでつられて素っ頓狂な声を出してしまっていた。
彼女の名前を呼び、そして――頭の中が真っ白になってしまった。
「あの、その……!」
「う、うん」
何も考えることができない。
真っ白で。
空白だ。
でも……。
何かを、言わないと……。
「は、羽根さん!」
「はい」
「――好きです! 僕と付き合ってください!」
「…………え」
…………え。
え?
僕、なに言っちゃったんだろ……。
昴ぶった。
昴ぶりすぎた!
僕は、続く言葉もなく、羽根さんの顔を見る。
羽根さんの表情は、笑っているんだかいないんだか、よくわからないまま固まってしまっていた。
僕は、なにが起こったのかわからないまま、固まってしまっていた。
そして、優樹も、ぽかんとして固まってしまっていたという。
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