11

 午前〇時。夕食も風呂も終えた僕は、寒河江さんの言葉を思い出しながら、ベッドに寝転がっていた。


 強さとは逃げられる勇気のことだ、と寒河江さんは言った。


 きれいごとだ。逃げたらそもそも負けじゃないか、と僕は反射的に思ってしまう。


 でも、一体なにに負けたと言うのだろうか?


 そう問われてしまえば、僕はなにも言い返すことができない。なにを言っても、屁理屈やこじつけになってしまいそうだ。


 これが、彼女が言う『意固地』ということなのだろう。


 ありもしないなにかと戦い続け。


 本当に向き合うべきものから目を背け。


 脆く、柔く、弱くなっている。


「……馬鹿らしいな」


 僕も。


 彼女も。


 いっそ、この世界も。


「それなら、それならさ……」


 こんな馬鹿らしい世界から、去ってしまおうか。


 こんな道化みたいな生き方しかできない僕に、一体どれだけの価値があるというのか。


 戦い続けるのにはもう疲れた。そして、その戦いの意味は全くなかった。


 馬鹿らしい。なにもかも、馬鹿らしい。


 それならもう、なかったことにしたい。


 無に逃げ込んで、なにもかも忘れ去ってしまいたい。


「……」


 ベッドから起きあがり、机の引き出しを開ける。一分ほど引き出しの中を漁り、目的のものを取り出した。


 カッターナイフ。


 自殺と聞いて、ロープと同程度に思い浮かぶ小道具ではないだろうか? もしくは、構ってちゃん御用達の道具だとも言えるかもしれない。


 別にカッターナイフである必要はないけれど、真っ先に思い浮かんだのはやはりコレだった。


 僕はカッターナイフの刃をチリチリと出し、それから袖をまくって、手首の腹を上に向けた。


 太く、青い筋が波打っているのが見えた。ドクン、ドクンと生々しく脈打っている。


 これを切ってしまえば……それだけで、全てが終わる。


 いとも容易く、人は死ねる。


 僕が死ぬとどうなるんだろうか。


 両親は悲しませることになってしまうだろう。もしかしたら、寒河江さんをも悲しませることになってしまうかもしれない。板降たちはむしろ喜んでしまいそうだ。


 だが、それも、僕が去った後の世界の話だ。


 僕にはなにも残らず。


 僕がなにかを背負うこともない。


 意識もクソも、なにもかもなくなるのだから。


「……」


 なんだか楽になってきた。今なら、いけるかもしれない。刃を手首に当ててしまえば。そして、それをすっと引いてしまえば……。


 …………。


 ……………………。


 …………………………………………。


 気づけば、日が昇っていた。手首は上に向いていて、カッターナイフは刃がむき出しになっている。恥を晒しているかのように、僕は陽光に照らされていた。


 昨晩から、なにも変わらない。


「なんだよ……」


 涙がぼろぼろと溢れてくる。止めどなく、淀みなく、それでいて音を立てずにぼろぼろと。


「やっぱり、できないんじゃないか……」


 僕は弱い。


 脆く、柔く、弱く、――惨めだ。

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