10
冬が訪れ、暗くなるのが早くなった。午後六時。日はすでに落ちようとしている。だけど、僕は今にも崩れ落ちてしまいそうな足を無理矢理動かし、公園へと向かっていた。
彼女に会うのが、今、僕が頑張れる意味になっているから。
恋とも愛とも違う。ただ、会って話したいという思い。それだけで、僕の存在意義が見いだせるような気がして。また、彼女の強さを見れば、元気がもらえるような気がして。
しかし、こんな時間になってしまっては、もう彼女は帰ってしまっているかもしれない。そんな思いを胸に、僕は公園へと進んでいった。
果たして、彼女はいた。
ベンチに座り、頭をこくりこくりとさせ、船を漕いでいた。気と頬が緩むのがわかった。いつもの光景がそこにあったことに、僕は深い安堵感を覚えた。
近づいていくと、寒河江さんはうつらうつらとしながら、僕の姿をとらえた。
「ん、おかえりなさい、えっと……」
「中居向だよ」
「そう、中居向くん。おかえりなさい」
「うん、ただいま」
僕は寒河江さんの隣に腰掛ける。その距離はもちろん、恋人の距離ではない。
変わらない。けど、それが一番いい。落ち着く。欠けてしまった時計のパーツが少しずつ修復され、針が再び動き始めるような、そんな居心地。
「変わらない、ね……」
柄にもなくそんなことを話すと、寒河江さんは少し考え込んで言った。
「そんなこと、ないと思うけど?」
ドキッ……と、胸が高鳴った。
不覚にも、僕はときめいてしまった。寒河江さんの今の言葉を、僕は一体どのように受け止めればいいんだろうか。もしかして、これは……青春ドラマによくある、告白的なアレじゃないのか?
心なしか、寒河江さんの瞳に憂いの色が窺える。これはひょっとしたら、僕が寒河江さんとの関係を『変わっていない』ものだと思っていることが、気に入らないということなんじゃないだろうか。
「あなた、初めて会ったときから随分とやつれたわ」
違った。
ただの心配だった。
「はあ、全く……」
寒河江さんは、僕の顔からなにかを感じ取ったのか、目に怒気を込めたように見えた。
「茶化してるでしょう。今、心の中で。自分を」
「…………」
…………。
「それも一つの防衛方法だとは思うけれど、逆に言えば、心の中でさえ無理して笑っていなければ耐えていられないほど、参ってしまってるということよ。あなたの心が、きしみを、悲鳴を上げている。その、なによりの証左」
「…………」
…………。
「あなたが何のために頑張っているのか、私はまだ知らないわ。でももし、逃げられるのなら……逃げられるだけの余裕が、あなたの『頑張るもの』にあるのなら、それは諦めて逃げてしまうべきなのよ。これ以上、あなたを壊してしまわないために」
「…………」
…………。
「逃げるも逃げないも自由だけれど、これは私からのお願いよ。あなたはもう、愚痴をこぼすだけではストレスを放出しきれずにいる。だから、逃げて。ね、えっと……」
「…………中居向、だよ」
「そう、中居向くん」
「寒河江さんは、本当に強いね。……強い人だよ」
「…………そうかしら」
「そうだよ、絶対にね。僕がもし寒河江さんの立場だったら、怖くてさっきみたいな言葉はかけられない。『変わらない』を変えてしまいかねないからね」
「買いかぶりだわ。そんなちゃちな恐怖心を超えてしまうほど、あなたは見て取れるくらいに疲弊していた。ご両親も心配されてるんじゃない?」
「うん、まったく、寒河江さんの言うとおりだ。父さんも母さんも、僕のことをとても心配している。頭が下がるよ。僕がこうして、かろうじて平静を保てているのも、両親の愛情を受けているからに違いない」
「ご両親に、いじめの話は?」
「言ってないよ。言っていたら、きっともうこの学校には通っていない。……僕は、両親を悲しませたくないんだ。心配をかけられれば、かけられるほどその思いは強くなっていってしまう」
「優しいのね」
「そんなことないよ。僕の個人的な、それこそちゃちな恐怖心による理由もある。僕は板降のやつに弱みを握られていてる。そんなわけで、奴には絶対服従。反抗の姿勢なんて、見せられないんだ」
「それだけ?」
寒河江さんは、俯く僕の瞳をのぞき込むようにして近づいてきた。前ならどきりとしたアングルだっただろうが、僕の心はすっかり麻痺していて、その姿になにも感じることはできなかった。
「それだけなの?」
「……なにが」
「あなたが、身をすり減らしてまで頑張る理由」
僕は口を噤む。なにかを言おうとしたが、その『なにか』が出てこなくて、口を噤んでしまう。
「それなら、逃げられるんじゃないかしら? 私は、少なくともそう思うわ。両親に多少の心配をかけてでも相談する。そうしたら逃げられるわ。家族って、そういうものでしょ? もし、それが嫌だというのなら、児童相談所に行けばいい。弱みを握られているのなら――それがもし、あまりにひどい手段をとられているのなら、警察に連絡してみるのもありでしょう」
ぐうの音も、出なかった。
正論だ。寒河江さんが言っているのは、紛れもない正論だ。マニュアル通りの、正しい解答。『いじめに悩んでいたらどうすればいいですか?』という普遍的な疑問に対する模範解答。
けど、
「……無理なのね」
「……」
そうだね、とは言えなかった。そうだね、と言ってしまえるほど僕は強くなかった。
正論から目を背けてきて。
正論を突きつけられたときに。
それをすんなり認めてしまえるほどには。
僕は。
「……今まで頑張ってきたことが、無駄になってしまうような気がするんだ」
「逃げてしまったら?」
「……そうだね」
両親に心配をかけるわけにはいかない。
恐怖に負けて学校に行かなくなってしまえば、いよいよ惨めになる。
逃げてしまえば、ともに頑張っている寒河江さんに申し訳が立たない。
寒河江さんのように強くなりたい。
それらの想いだけを柱にして、地獄を耐え抜いてきた。
「……僕は、寒河江さんのように強くなりたかった」
「私?」
「そう……僕のようにいじめを受けているはずなのに、いつも変わらず、涼しい顔をしてここに座っている寒河江さんのように、僕は強くなりたかった」
「私は、決して強くなんてないわ」
寒河江さんは、いつもより語気を強めてそう言った。
「そして、あなたも強くなってはいない。……むしろ、より脆く、柔く、弱くなっている」
「それは、どういう……」
「誰にも迷惑をかけず、全てを一人で抱え込み、何食わぬ顔で日々を過ごすのがあなたの言う『強さ』だと言うのなら、私は否定しないけどね」
寒河江さんは怒っていた。憤慨していた。眉間にはしわが寄り、目は刃のように鋭く、瞳に湛えられた覇気は静かに張りつめている。
「あなたは、地獄の道を進んでいく中で、間違った目標を持ってしまっているの。とびきりね。そして、それを達成しようと、意固地になってしまっている」
「……僕の目標って?」
「さっき言った通りの『強さ』を手に入れることよ。本来あなたが目指すべきなのは、地獄から抜け出すこと――『いじめからの脱却』のはずなのにね。その逃げられる勇気こそが、本当の『強さ』のはずなのに」
「い、いや! でも、それは!」
それは、なんだと言うんだ?
否定しようとして、言葉が出ない。否定できるはずなのに。否定するべきなのに。
あるいは。
否定したいだけなのか。
「もう一度言うわ、えっと……」
「……中居向、だよ」
「そう、中居向くん。あなたは、逃げなさい。あなたなら、逃げられるの」
「……『あなたは』って……寒河江さんはどうするのさ」
今更ながら、寒河江さんも同じくいじめられる側の人間で、逃げるべきもう一人なのだということに気が回った。
寒河江さんは僕と同程度、下手したら僕以上のひどいいじめを受けている。今まで寒河江さんは、思い出したくないという理由で、あまり自分のされたいじめの愚痴をこぼしてこなかった。
それでも、あまりに酷いときは僕に話してくれた。虫を食べさせられた。屈辱的な格好をさせられた。等々。
だからこそ、弱い姿を見せない彼女のことを強いと思っていた。
だからこそ、『あなたは』と突き放すように言う寒河江さんの気持ちが分からなかった。
散々諭されたが、諭している張本人も、逃げなければいけない人のはずだ。
寒河江さんは、影のある笑みを見せた。
「言ったでしょう?」
それは、先の見えない真っ暗闇に吸い込まれてしまうような、ミステリアスな微笑だった。
「私は、強くなんてないのよ」
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