9
「なーかーいーむーきーくん?」
「ごばッ! がばごばべぼがぼばがごぼがば!」
「おーおー、暴れるねえ……頑張れ頑張れ♪」
紅葉も枯れ朽ち始め、冷たい風が肌を刺すようになった。そんな季節に、僕は屋上で氷水の張った底の深い風呂桶に顔を突っ込んでいた。いや、突っ込まされていた。
「ごばぼがばごおぼばばばがばがばあ!」
「んー? 暴れる力が強くなってきたね。結構苦しいのかな? ――腕、押さえる力、もっと強くしとけ」
耳は水に浸かっていないため、板降の声は頭の中に入ってくる。しかし、入ってくるだけだ。僕の五感は痛いほどの冷たさと、息のできない苦しさで埋め尽くされていた。
「がば! がばごぼ……がば……」
「ん? そろそろかな? 引き上げろ」
ぐいっと髪が引っ張られ、ようやっと、僕の顔は外気に触れられた。必死に息を吸い、呼吸を整えようと試みる。
「すう……はあ……っ……はあ……」
「ちゃんと見てきた? 三途の川。妹が手ェ振ってなかった?」
「振ってました。振ってました……! 三途の川も、ちゃんと見てきました……!」
放課後、板降に「三途の川がどんなのか見てこい」と突然言われ、僕はここまで連れてこられていた。久しぶりの、かなり過激ないじめだった。
いじめが始まってから、もう半年ほど経つ。度重なり、加速していくいじめに、僕の心はもうずたずたになっていた。板降には自然敬語になり、見られるだけで体が萎縮し、膝が震え出す。僕にはもう、限界が近づいていた。
酸素が巡ってない頭の中で、僕にはプライドにまで気を回す余裕はなく、ただ滂沱して許しを請うことしかできなかった。
「見てきました! 見てきましたから許してください……!」
「んー? 許すもなにも、俺はお前の勉強のために、三途の川を見せてやろうとしたんだけど? 謝られることなんてなんにもないよ?」
「その通りです! しっかり見てきました! だからもう、大丈夫です!」
「んー……」
板降は少し考え込んで、いつも通りの、なにも変わらない、爽やかな笑顔を見せた。
「まだ、勉強が足りないな。もう一辺行ってこい」
「ま、待って! 待ってください! もう十分勉強しましたから!」
「はあ……なあ、中居向くん。お前、こいつがどうなってもいいのか?」
「そ、それは……」
板降が三流映画の悪役が言いそうな台詞とともに取り出したのは一枚の写真。
あられもない姿で、失笑もののポージングをしている僕の写真だった。
辱めを受けるのは、女の子だけだと思っていた。しかし、僕は板降によって、そんなステレオタイプを崩された。
なんの面白味もない、芸やギミックとしては使い古された恐喝手段。しかし、現実には面白味など関係はなく、求められるのはその効力だった。
ある日、板降に呼び出された僕は、裸に剥かれ、恐喝され、何枚もの嫌な写真を撮られた。それ以来、この数十枚にものぼる写真は、僕をいいように扱うリードで、また僕を玩具としておいておくための首輪のようになっていた。
効力は、遺憾なく発揮されていた。
「んー……で、やるの? やらないの?」
「え、っと……その……」
だが、やはりさっきの地獄のような苦しみに再び飛び込むのには抵抗があった。言葉の歯切れが悪くなる。
「はあ……もういい」
板降は心底失望した、とでも言いたげに手を振り、僕の方を見もせずに言った。
「やれ」
次の瞬間、僕の頭はぐいっと押さえつけられ、とっさの抵抗もむなしく、氷水の中にぶち込まれた。
もがいても、もがいても、地獄からは抜け出せない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます