7
夏も終わろうとしている季節だった。瑞々しかった緑の木々の中に、ちらほらと赤や黄といった秋の訪れを感じさせられる色合いが混ざってきている。
夕暮れ時、西日のきついこの時間に、僕と寒河江さんは青春ドラマでもやりたいのか、ともにベンチに座っていた。その距離は恋人の距離とも言えなくはない。
しかし、それにも事情があった。
「ひどいわね、こんなことされて……ん、なかなか取れないわ」
「も、もう大丈夫ですよ、寒河江さん。水に浸けたハンカチくらいじゃ簡単には落ちないですって」
「んー、でも、せめて文字が読めないくらいには落としたいわね……」
僕の制止も聞かず、僕の顔をごしごしとこする作業を続ける寒河江さん。実は僕が、さっきからきれいな顔が近くにきてどきどきしていることなど、寒河江さんには知る由もないだろう。また、仕方ないとはいえ、彼女が顔をこする力が思ったよりも強くて、想像以上の痛みが顔にきていることも。
寒河江さんがこうも僕の顔を執拗にこすっているのには、理由がある。というのも、僕の顔には現在、清純派正統ラブコメにには似つかわしくない油性マジック製の文字が踊っているのだ。
『人間失格』
『いじめてくださいw』
『お兄ちゃんでーす』
『駄肉』
『アホ』
『ウンコ以下』
発想は小学生以下だが、そのインパクトは絶大だ。僕の中にまだこんな気持ちが残っているとは驚きだが、屈辱以外のなにものでもない。学校でこの顔面落書きを落とそうと一度は考えたのだが、先生に見られたり、トイレの洗面所で生徒とはち合わせるのも嫌だったので、人気のない公園にでも行って落とそうと思っていたのだ。
そんな折に、あの場面に出くわした。
轟たちが立ち去った後、動けないでいた僕は、あっさりと寒河江さんに見つかってしまった。会話の内容はパニックになってよく覚えてないが、確か彼女に僕の顔を心配されて、そこからどこかでゆっくり話そうということになった……ような気がする。
寒河江さんは、イメージほど冷たい性格ではなく、むしろ気さくで、感情豊かな人だった。僕のことをとても心配してくれたし、表所もコロコロと変わっておもしろい、『きつい』とはかけ離れた人柄だった。これもなた、一つの驚きと言える。
そして、今。
さっきまでいじめられていた人が、なぜか慰める側に回っているという奇妙な状況に陥っている。
無言で顔をごしごしとこすられるのも所在ないので、僕は寒河江さんに勇気を振り絞って話しかけた。
「……寒河江さん、その、さっきのは……」
「……ああ、あれね」
僕の歯切れの悪い質問に、寒河江さんは僕の言わんとすることを察して答えてくれた。
「あれは、……いじめね。どこにでもある、普通のいじめ」
「でも、寒河江さんはいじめられるようなことはしていなかった気がするんですが……」
僕は自分の中で引っかかっていたものを吐露した。
それが正当なものなのかはともかく、僕にはいじめられる理由があった。だが、寒河江さんは下から上までの共通認識として、近付き難い存在ではあっても、いじめられるなにかがあった人物ではなかったように思う。
確かに、持ち前の性格のきつさはあるが、そもそも寒河江さんは他人と関わらず、よって軋轢と呼べる軋轢もほとんどなかったはずだ。
それにもかかわらずいじめられている現状が、僕にはあまり理解できなかった。
「もしかして、高一の頃とか、それとも、中学時代の頃まで因果が遡ったりするんですか?」
「……いえ、そういうわけではないわ」
寒河江さんは一度僕の顔をふくのを止め、ふっと不適に笑った。
「たぶん、なにもない……理由なんてね。強いて言えば、『気にくわないから』……ただ、それだけよ」
「――」
僕は言葉を失った。
気にくわないから、だって? そんな自己中心的な、独善的な理由でいじめが行われているって言うのか?
僕の唖然としている様子を見てか、寒河江は「あら?」と声に出して小首を傾げた。
「もしかして……あなたはあまりいじめ事情に明るくないのかしら?」
「まあ、そうですね……僕も、見ての通りいじめられている側ですが、だからといって、いじめについて調べたりとか、そういったことはまだしていません」
「そう」
一言そう呟いて、寒河江さんは再び僕の顔をこすり始めた。
「なら、教えてあげるわ。いじめっていうのはね、えっと……」
「中居向です。中居向伊吹」
「そう、中居向くん。いじめっていうのはね、大抵が、ある日突然、なんの前触れもなく始まるものなのよ?」
「え……そうなん、ですか?」
「そうなんです」
僕の驚きを茶化したように微笑み返してくれる寒河江さん。……ちょっと心を奪われてしまった。
「確かに、いじめられる側になんらかの原因があったのかもしれないけれど、いじめが始まってしまえば、もうそれを知る術はない……だから、当事者にとっては、いじめは突然始まるのよ」
「……でも、事実いじめは始まってるんですよね? だったら、なにかきっかけみたいなのは、あったんじゃ……?」
「んー……」
寒河江さんは再び作業を止め、すこし考え込む。そして、困ったように笑い、答えた。
「どうも最近、……えっと、あの人……」
「……轟あやめですか?」
「そう、轟あやめ。……それで、彼女が恋人と分かれたらしいのよ。この話はお節介な人から聞いたんだけど。それで、きっと機嫌が悪くなって、誰かに発散したかったんでしょうね」
「それで……寒河江さんに?」
「きっと、誰でもよかったんだと思うわ。もしかしたら、前々から私のことを快く思ってなかったかも知れないし」
「それは……」
あり得ない、話ではなかった。
轟は女子の中のトップ。頂点に君臨する女王だ。しかし、寒河江はその王化には属していない。自分で御することができない生徒がいるということが、轟には耐えられないことであった可能性は十二分にあった。そして、目障りだった彼女に、轟の苛立ちの矛先が向けられた可能性も。
僕はあまりに理不尽で勝手な理由でいじめが行われていることに、ショックを禁じ得なかった。脱帽だ。いっそ、あまりの悪性に清々しさを覚えるくらいだ。
しかし、ここで僕が言葉を止めて沈黙を生んではいけないと、僕は必死に台詞をつなげた。
「あの……いつから、いじめられてるんですか?」
「そうね……大体、五月頃かしら?」
とすると、僕よりも少し早いくらいの頃だった。
「全然、気がつきませんでした……」
「まあ、女子と男子ではコミュニティが根本的に違うから、当然のことだわ。むしろ気づけたら変態ね」
くす、と大人っぽい笑みを見せる寒河江さん。どうやら彼女は、七色の笑みを見せることができるらしい。よもや板降たちと寒河江さんの「変態」にこうも違いがあるなんて。寒河江さんになら変態と呼ばれても構わないかも知れない。
変態だ。
話も一段落付いたからか、寒河江さんはまた僕の顔をこすろうとしてくる。僕は慌てて寒河江さんを止める。
「大丈夫です、ほんとにもう大丈夫ですから!」
「そう?」
「そうです!」
顔がひりひりするし。
僕の必死の形相に圧されたのか、寒河江さんは残念そうな顔をしながら、しぶしぶといった様子で引き下がった。
なにか強い使命感を持ってくれていたのは嬉しいけれど、そんなに僕の顔をこすりたかったのか。
結構、痛そうなそぶりを見せていたんだけど。
気づいてよ。
気づいて欲しかったよ。
気づいててこれなら罪な人だ。
「さて、もう日も暮れてきたし、家に帰った方がいいんじゃないですかね? 親御さん、心配するでしょう?」
「……確かに、そうね」
そう言う寒河江さんの表情は、影のあるものだった。もしかして……家族との仲があまりよくないとか、そういったデリケートな問題を抱えていたりするのだろうか。
「ああ、そういうのじゃないわよ」
僕の表情から思考を読みとりでもしたのか、寒河江さんは先んじてそう言った。
「あなたの顔がわかりやすいだけよ」
「……え、本当ですか?」
「本気と書いてマジよ」
茶目っ気にあふれる返しだった。
「ま、確かにあなたの言うように、私と両親の関係はよくないわ。でも、それは周りからなにかを言われるほどひどくはないわ。世間一般で言われている、反抗期みたいなものよ」
そう言われてしまえば、僕がなにか返せる言葉はなかった。せいぜい、「そうなんですね」くらいだ。
「えっと、……」
「中居向です」
「そう、中居向くん。中居向くんね。さようなら。お互い、明日も頑張りましょう」
「あ、はい、そうですね……頑張りましょう」
優雅にベンチから立ち上がる寒河江さんに、(不覚にも)目を奪われ、僕は気の利いた返事など少しもできなかった。そして「さようなら」くらいしか、かける言葉を思いつけなかった自分が恥ずかしくなった。
じゃあ、と寒河江さんは去っていった。彼女の美しく、凛とした後ろ姿は、いじめを受けている人間にはまるで見えなかった。
しゃんとした背筋。
まっすぐな瞳。
表情豊かな顔。
そして、
「強い心、か」
僕は誰に言うわけでもなく、そう呟いた。
なんだか、俯きになっていた心がしっかりと前を向くようになった感じだった。まるで天から蜘蛛の糸を垂らされたかのように、先の見えなかった現実に、目指すものが見えたような気がした。
「あ、あの!」
気がつけば、彼女の後ろ姿に、声を投げかけていた。自制できず、自省する間もなく、僕は彼女をこちらに振り向かせてしまっていた。
「? どうしたの? えっと、……」
「中居向です」
「そう、中居向くん。……で、どうしたの?」
「……そのですね、」
考えは、一切に、全く、これっぽっちもまとまっていやしなかった。だが、口だけは淀みなく動いた。
「また明日、ここで会えませんか?」
寒河江さんは一瞬きょとんと呆けた表情を見せたが、すぐにくすりと微笑んだ。
「ええ、いいわよ。でも、その敬語、ちゃんと直してくれたらね。私たち、同級生なんだから」
「あ、確かにそうで……そうだね」
「よろしい……じゃあ、またね。ええと……」
「中居向」
「そう、中居向くん」
ふりふりと手を振って、寒河江さんは今度こそ公園を去っていった。僕は彼女の姿を最後まで見届けてから、顔の落書きをどうしたものか、再度考え直した。
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