『悪いな、中居向……』


『いや、いいよ。俺も皆に迷惑かけたくないし』


 今でも鮮明に思い出せる。あの日から、僕はかろうじて友達として成り立っていた生徒たちに縁を切られた……大げさではなく、本当に。


 面と向かって『もうお前とはつき合えない』と言ってもらえただけ、貰い物だと思った方がいいだろう。これが徐々に、さり気なく、余所余所しく距離を取られてたら、ダメージは累乗されていたことだろう。


 ただ、そう言ってくれた時でこそ心底申し訳なさそうに顔を俯けていた彼らだったが、日を跨いでしまえば、僕に対してなんら気にしたそぶりもみせず、彼らの日常に戻っていった。


 所詮、僕なんて――というか、友人関係なんてそんなものだろう。それこそ血を分けた兄弟や長い時間を過ごしてきた親友、夢に見るまで好きな人――そんなレベルのつながりでなければ、僕が気にされる理由なんて、負い目や罪悪感でもなければ、あるはずもない。


 あれから、一週間が経った。


 あの後、僕がどうなったのかと言えば、すぐにはなにも起こらなかった。手紙で校舎裏に呼び出されることも、夜道で背後から襲われることもなかった。嫌だったことを強いて挙げるとするならば、周りからの哀れみや嘲笑のこもった、じっとりとした視線をしばらく向けられたことくらいだろう。


 しかし、時間が経つごとに、徐々に板降の悪質な嫌がらせが始まっていった。


 僕の机の前をわざわざ通り、その脚を少し音が鳴る程度に蹴っていく。


 わざわざ僕の周りに寄ってきて大声で歓談をする。昼食をとる時にもだ。


 そして、当然のように無視される。僕の「やめろ」「嫌だ」等の言葉は板降たちには届かない。


 ……挙げていけばキリがないが、要するに僕はいじめられていた。だけど、世間一般で言うような酷いいじめ――というといじめに貴賤をつけているようで適切な表現ではないが――に類するであろう、水を頭からかけられるだとか、靴の中に画鋲が入っているだとか、万引きをさせられるとか、そういったものではなかった。


 いや、むしろ今ではそういった、証拠があからさまに残るようないじめは、前時代的になってしまっているのかもしれない。僕はいじめ事情に明るくないので下手なことは言えないが――今は、あまり証拠の残らないような、水面下で行われるいじめの方が主流なのではないだろうか?


 しかし、こんな考察を続けていても、空しさが砂時計の山のように刻々と積み重なっていくだけだった。


「はあ……まさか、便所飯を人生でやるなんて、ちょっと前までは思ってもみなかったな……」


 少しアンモニア臭の漂うレストルームの個室で、僕はお弁当を広げていた。板降たちを避けるためだった。


「でも、ここに手が伸びるのも時間の問題だよな……」


 誰かから逃げるようにご飯を食べるために、便所飯を開発した人はなるほど素晴らしい発想だったのだろうが、しかし、便所飯には欠点がある。


 個室であるため、逃げ場がないのだ。


 さっき挙げた頭から水だって個室トイレでなら簡単にできるだろうし、ドアを何度も蹴ったり外から煽ったりすることで中にいる人にプレッシャーをかけることもできる。


 つまり、便所飯とは諸刃の剣なのだ。


「なんのこっちゃ」


 便所飯の下らない考察をやめ、僕は卵焼きをつまむ。我らがお母さん謹製、激甘卵焼き。その糖度は、わたがしにも匹敵すると言われている……僕の大好物だ。


 そんな具合で大好物のオンパレードなお弁当をもぐもぐと食べていると、トイレの入り口が開く音がした。同時に、誰かが歓談している声が聞こえてくる。どうやら、板降たちではないが……僕のクラスメートだった。二人組の男子のようだ。


「――それにしても、中居向かわいそうだよなー」


「それな」


 と、耳をそばだててみると、彼らは僕の話をしているように聞こえた。いつからそんな人気者になったんだろう照れるな、なんて言うほど僕は楽観的で脳天気な人間ではないので、箸を止め、若干の緊張に手を振るわせながら耳を澄ませた。


「板降に目をつけられちまうなんてよ、ありゃもう学校生活終わりだな」


「確かにな……あれじゃもう、どうしようもねえよ」


「でもさ……最近、板降のやつ、ピリピリしてたらしいからよかったぜ。中居向が板降に目をつけられて」


「お、おい……そこの個室入ってるの、中居向かもしれないだろ。やめとけって……」


「いや、もしも中居向だったら、もう声かけてきてるって。おーい、個室入ってるやつ、中居向かー?」


 誰だか名前は忘れたし、彼氏の推測の方法にはいささか疑問を覚えるが、ともかく、僕は返事をしなかった。ここで「本人だ」と言って出て行くのはバツが悪すぎる。


 しばし黙っていると、彼氏は「ほらな」と得意げな声音でもう一人に返した。


「だからって、誰が聞いてるともわからないし……」


「いいだろ別に、トイレでくらい好きな話したって……。ともかくさ、中居向が狙われてくれたおかげで、俺たちはなんの被害にも遭わずにすんでんだよ。中居向サマサマだな」


「うん、まあ、否定はしないけど……」


「これからも、中居向には頑張ってもらいたいぜ」


 洗面台の水が流れる音がジャーっと響く。そして、パタパタという足音とともに、話し声は遠ざかっていった。


 バタン、と扉の閉まる音がする。


「……」


 僕は、大好物が半分も残ったお弁当をしまった。個室から出て、洗面台に向かう。


 鏡に僕が映っていた。鏡の中の僕は、僕に哀れみの目を向けていた。


『君は哀れだね、中居向伊吹』


『君はヒーローになることすら許されていなかったんだ』


『さしずめ贖罪の羊――スケープゴートといったとこだろう』


「うん……そうかもね」


 僕は鏡の中の僕に頷いた。


「……でも、僕は誰も犯してない罪を代わりに背負ってるんだ。実体がないのに、とても重い罪をね」

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