昼下がりの教室。窓の外を眺めると、ついこの前まで憎き新学期を祝福してくれやがった桜の花々が、葉桜へと移り変わろうとしていた。


 そんな季節の移ろいを感じながら窓の外を眺め、僕は今日だけで何百回も堂々巡りさせた思考を再び呼び戻した。


 ラノベ読みたい、と。


 昨日は某王手レーベルの新刊の発売日だった。読みたかったシリーズの続刊が大量に上梓されていたので、飛びつくように一気買いしたのだ。だが、何冊か読んだ後に寝落ちしてしまい、結局、最後の一冊を読み切ることができなかった。


 結果、今まさに、悶々とした思いを抱えることになってしまっている。


 休み時間にラノベが読めたらな……。


 僕はまた、そんなことを考えてしまう。


 オタク文化は徐々に市民権を得ているらしいが、残念ながらこの学校では『オタク文化=悪』という概念が隅から隅まで、満遍なく、天網恢々といった様子でびっしりと張り巡らされている。


 もちろん、僕のような隠れオタクはいるだろうが、そのことがバレたあかつきには、この学校での社会的地位がどうなるかは、推して量るべしといったものだった。


 さすがの僕も、一年の半分以上を占めている学校生活をふいにしてまでオタク文化に浸りたいとは思えない。正直、ずる休みをしてしまえば済む話なのだが、それをすると両親によってオタク趣味の差し止めが起こりかねない。


 父としては、僕にちゃんと学校に行って学業を修めてもらいたいのだ。

 当然だろ。なに言ってるんだ、僕。


 ともかく、この学校の『オタク文化ダメ、絶対』という不文律から、僕は校内でオタク文化に触れるのはおろか持ち込んでもないのだった。


 授業終了のチャイムが鳴った。なぜ日本の学校はチャイムに『ウェストミンスターの鐘』を多く採用しているのかは、僕は寡聞にして知らない。きっとビッグべンに憧れていたのだろうと、勝手にあたりをつけておく。


 次の授業の準備でもしようかと鞄を漁り、僕は国語の教科書を取り出した。最近は『舞姫』のエリスを萌えキャラ化してきゅんきゅんしている。あの娘はラノベのヒロインになれる逸材だと思う。


 と、大先生の著作に対して失礼なことを考えながら教科書を取り出すと、同時にバサリと、文庫本サイズのなにかが一緒にでてきて、リノリウム張りの床に落ちた。


 というか文庫本だった。


 ラノベじゃん。『お兄ちゃんが一緒じゃないと身悶えすぎて死んじゃうっ! 4』(初版限定特典・ドラマCD同梱版)じゃん。


 パンツ見えてるし。


 はみチチしてるし。


 表紙ヒロインのキャラの表情エロいし。


 そもそもカバーついてないし。


 わからない? 表紙を楽しみたいからカバーをつけてもらわないこの気持ち。せっかくライトノベルという媒体なんだからイラストも楽しむべきであって――


「って、まずい!」


 混乱しすぎて思考停止していた脳をフル回転させて、僕は行動に移る。素早く手を伸ばし、口が大きく開いていた通学鞄の中に、『お兄ちゃんが(以下略)をぶち込んだ。


 なんでだ? なんで鞄の中にラノベが入ってるんだ? まさか……この手か! この手が勝手に動いたのか! 僕のアホ! いくら読みたいからって、学校に持ってくるのはマズいだろ! 『読まず、話さず、持ち込まない』の非オタ三原則はどうしたッ!


 しかし、どうやら本当に無意識に持ってきてしまっていたようだった。チラッと見た感じ、僕のもので間違いない。たぶん、本を開けばお気に入りの栞がコンニチハすることだろう。


 とりあえず危機は去ったと、僕は深く息を吐く。危うく、僕の学校生活が終わってしまうところだった。もうこんな目に遭うのは懲り懲りだし、明日からは出かける前に持ち物のチェックをしよう――そう思った時だった。


「おい、中居向。お前、今なに隠したんだ?」


 ぞわり、とした。誰かに見られていた。確かにそんな恐怖感もある。だが、それよりも、僕にこの問いかけをした人物の方が、僕にとってはより驚異で、脅威で、恐怖だった。


「ん? どうした?」


板降いたぶり……」


 ニヤニヤと、いいカモを見つけたとばかりに嗜虐的な笑みを、その男、板降は見せていた。

 板降らく。この学年で最も幅を利かせている、男衆のトップカースト。ぱっとした見た目はイケメンな好青年なのだが、彼の酷薄な笑みは、その印象を真逆へと変えるほどおぞましく、性格も虐め狂いと言っていいほどの嗜虐趣味だ。


 噂によれば、板降の玩具と化してしまっている生徒は、この学校だけで一〇人はいるらしい。それほどまでに他を踏みつけ、恐怖で圧することのできる男なのだ。


 そんな男に、目をつけられた。否、見られてしまったことが、僕にとってどれだけの恐怖かは言うまでもない。


「もう一回聞くぞ、中居向。なにを隠したんだ?」


 板降は笑みを一ミリも崩さず、もう一度、嫌みったらしいくらいに優しいトーンで問いかけてくる。ここで抵抗しても無意味だ。窮鼠猫を噛む展開は期待できそうにない。僕は観念して、鞄に突っ込んだラノベを板降に差し出した。


「偉い偉いっと……んー? やっぱり、……ふーん、なになに? 『お兄ちゃんと……』って読めるかよ! 罰ゲームじゃあるまいし!」


 からからと爽やかに、かつ僕の心を的確に抉るかのように、板降は笑った。


 すると、板降と同じくトップカーストにいる(正確に言えば板降の腰巾着だが)やつらが、わらわらと寄ってきた。


「おいおい、なに持ってんだよ板降! お前、もしかして目覚めちまったのか?」


「バーカ、そんなわけないだろ。中居向のやつだよ。……な、?」


 からから、と再び爽やかに笑う。悪意を存分に盛り込んだ、完璧なイケメンスマイル。僕は額に脂汗を浮かべながら、俯くことしかできない。


「こっち向けよ」


 目を合わせない僕に苛立ったのか、少し語気を荒げて、板降は言った。素直に従い、僕は顔を上げる。そこには、人の良さそうな青年の笑みがあった。



 葉桜が萌える季節に、こうして、僕の新たな一年間が始まった。

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