page2 『木星日記』
page2 『木星日記』 —1
わたしはパソコン画面の右下に表示されたデジタル時計にちらりと目をやった。部長が帰ってくるまで、あと十五分ほど。
やばい。終わんない。
「ちょっと集中する」
わたしは明季にそう声を掛け、イヤホンを取り出した。
イヤホンをしている部員には話し掛けてはいけないというのが、この部活の数少ないルールのひとつだ。部長に指摘された箇所を修正し、今日の帰りまでに何とか再提出しようと思っていたのだけれど、このペースでやっていては間に合わない。
部室の、ちょうどわたしから見て真正面。二日後の日付を記したA4の裏紙が、薄汚れた壁に貼ってある。部長の字だ。前から思っていたけれど、パソコンばかり使っているくせに、字が上手い。
明季は軽い調子で頑張れと答え、自分の作業に戻る。わたしはオーディオプレイヤーを出して、作業用BGMを呼び出す。
世界をシャットアウトする。自分の作った世界に入る。自分と、登場人物だけが存在する場所へ行く。
わたしが今回の部誌に投稿するのは、一万文字の恋愛小説――実は、この一年の集大成である。一学期末の『初夏』と二学期末の『晩秋』に出した話の続きで、つまり連載。今回で完結するものだ。感慨深いものもあり、一年の努力に報われてほしいという思いもある。文芸部員以外にも、読んでくれている友達もいる。手は抜けない。
今のわたしは赤点と戦う女子高生の
手を抜いて部長に怒られるかもしれないのが怖いというのは、だから、二次的な問題でしかない。
出会い、別れ、伝わらない想い、伝える気のない想い、諦め、執着、プライド、嫉妬。
夜を越え、季節が変わり、ようやく春が来る、そこまで部長の赤印を手掛かりに読み直し、顔を上げると、とっくに五時半を回っていた。
「ひえ!?」
声にならない声を上げ、慌てて口を抑えるも、時すでに遅しだった。部長が、自分の席から振り返る。
「どうした!?」
驚かれる。無理はない。音の無かった部室に突然悲鳴が響いたのだから。音が鳴っていたのは、わたしのイヤホンからだけ、わたしの頭の中だけ。
「すみません時計見て驚いちゃっただけです、すみません」
気付けば部室にはわたしと部長しかいなくなっていた。鞄すら残されていない……どうして!? なんで明季は帰るとき、声を掛けてくれなかった。
部室に最後まで残りたがらない部員の中で、時計を見なくなるわたしを現実に引き戻してくれる、明季だけが頼りなのに!
とりあえず、携帯を持って席を立つ。我が海原家では、自分に非のある緊急連絡はメールより電話が望ましいことになっている。五時半、いつもなら家に着いていてもいいころだ。母に連絡を入れなければならない。
「どこに行く」
部室を出ようとしたわたしに、部長が声を投げた。思わず背中を強張らせる。
「あ……えっと、電話するのでちょっと出てきます、すみません」
「電話? ……ここですれば? 俺しかいないし」
「えっ」
部長がわたしに向かって、無表情のまま首を傾げる。
良いとか悪いとかじゃなく、思いつきもしなかった。いや、確かに部長がいないときは、部室で雑談でも電話でも、自由にしている。思いつきもしなかったのは、部長が、そこにいるという事実、それだけのせい。
「いいんですか」
思わず訊いた。
「いいって言っただろ」
部長が不機嫌そうに背を向ける。怒らせたかもしれない。ここでお言葉に甘えたら余計に怒られるだろうか。いや、部室を出る方が、折角くれた許可を無駄にして、機嫌を損ねるかもしれない。わたしは散々迷った挙句、部室の中でいちばん部長から遠い場所まで移動し、小声で手短に自宅に電話を掛けた。
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