五 『火 黄金 術の大いなる神秘』
取り残されたウーランは、ただ茫然とジョゼが吸い込まれていった虚無を眺めていた。
信じられない光景だった。しかし見紛う筈が無い。
ジョゼを捕らえた手は、人間のものと同じ。見た目をしていた。明確に違うのは、その大きさだった。
―――巨人。
大の大人の胴体を掴める程に巨大な手を持つ存在など、空想の世界に住むそれくらいしか思い浮かばない。
不気味なほど静かになった洞窟を見つめたまま、ウーランはジョゼを引き上げる筈だった手を力なく落とした。
腹部に鋭い痛みを感じ、ウーランは傷口を押さえた。
そうだ、本来ならば自分がジョゼの立場になるはずだった。ジョゼ一人なら間違いなく逃げ切れた。ウーランはそう思わずにいられず、唇を噛みしめた。
押し寄せる罪悪感に、瞳から涙が止めどなく溢れた。
ウーランの身体は震えていた。
巨人の手と、鷲掴みにされるジョゼの姿が瞼に焼き付いている。
―――俺は何て卑しい人間なのだろうか。
自分ではなくて良かった。涙がウーランを覆っていた虚像を洗い流し、知りたくなかった自らの真実を明らかにした。
巨人に掴まれる運命から逃れられたことに対して、ウーランは微かに安堵を覚えていた。
もしかしたら、その感情を抱くことは、死の運命に直面した人間として自然な反応であるかも知れない。
しかし、今のウーランにとっては、自分が仲間を殺した張本人であり裏切り者に思えた。
雲は散り、月明りが辺りをよく照らしている。
子供の頃、祖母から聞いたことがある。月の光の下では、あらゆるものは太陽の光の下にある時とは別の姿を曝け出す。
ウーランは自分も怪物になった気がした。
そして半ば放心したまま立ち上がり、よぼよぼと歩き出した。
やがて麓に辿り着いた。駐屯地からグルズ山まで兵士達を運んだ馬達が縄で繋がれて待っていた。
ウーランが馬の下へ近づいた時、再び地響きが鳴り響いた。馬達が一斉に嘶く。もうやめてくれ。ウーランは心の内で懇願した。
―――これは何の前触れだ?
ウーランにはまるでグルズ山が、侵入者を逃がすまいとしている様に思えた。崖から転がる小石の音、むせび泣く様な呻き声。これまでに現れたそれら前触れは、調査隊に死を知らせる鐘そのものだった。
とうとう自分の番がきたのだとウーランは思った。振り返る先にいる存在が、死神であろうが、悍ましい悪魔であろうと確かめずにはいられなかった。
しかし振り向いた先に、死の象徴はいなかった。それは死を司る不吉ではなく、これまで見たことも無い、神秘的な光景だった。
グルズ山の山頂から、天へと真っ直ぐに火柱が立っていた。炎の集合体は捻じれる様にうねりながら、闇夜を光で溶かす。
ウーランは再び涙を流していた。何故? 自分に問いかける。これはどういう意味の涙なのか。
何故涙を流すのか、その問いかけでは決して分からない。理解出来ないからだ。
ウーランは問いかけを止めた。心静かになった時、内に広がっていたのは喜びの感情だった。激しく火花が散る様な歓喜ではなく、水面に広がる波紋の様に、穏やかで深い喜びだった。
ウーランは膝から崩れ落ちた。涙が頬を伝う。美しいと感じた。平凡な感想だと思ったが、この光景に下手な装飾は余計だ。
地表は惨い闇に浸され、天は神秘の光に覆われる。ウーランにはその様に見えた。もしかしたら、世界の終わりというのは残酷一色ではないのかも知れない。
ウーランは火柱から目が離せなかった。この輝きを、きっと〈黄金〉と言うのだろう。
太古に存在したと云われる金属。世界から失われた神秘。
やがて火柱は花弁が開く様に霧散して消えていった。
火柱が消えた後も、ウーランは暫く呆然と山頂を眺めていた。
不思議だった。心の内がとても穏やかだ。自分が未だ咎人であるという思いは変わらない。それでも、この生を贖罪に尽くす活力が沸いていた。
ウーランはおもむろに立ち上がった。馬達を見つめて、暫し考える。
やがて馬達を解放する決心をした。それは即ち、仲間は戻らないと結論したのだ。
ウーランは自分の馬に跨る。他の馬達の様子を窺うが、一頭たりともその場を動こうとしなかった。
ウーランは目眩がして、意識が遠のきかけた。血を失い過ぎた様だ。
自分にどれだけの時間が残されているのだろうか。ウーランは答えの出せない自問を、心の内に呟いた。
グルズ山の現状を王都へ報告しなければならない。その使命感がウーランの生命力を支えていた。
そして、ウーランは馬を走らせる。
―――果たして俺は伝えることが出来るだろうか。
―――あの地獄を、もう一度思い出す事が出来るだろうか。
ウーランは心の内で自問していた。悪夢はまだ、覚めそうになかった。
更に深い闇に引きずり込まれた。
これから、どうなるのだろうか。仲間と同じ運命に行き着くのは明らかだろう。そこに辿り着くまでに、どの様な道を通らなければならないのだろうか。
漆黒の中に、ぽっかりと浮かぶ二つの青い光が見えた。そんな筈はないのに。光が差し込まないこの空間で、その様に見えるわけがない。自ら光を発するのだろうか。巨人の目とは、その様なつくりをしているのだろうか。
不思議だ。恐怖が身体に残っていない。代わりに、懐かしさで満たされていた。
ああ、少しずつ思い出してきた。お前は、俺だったな。
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