四 『最期の一人』

 勢いよく地面に叩きつけられたジョゼは、くぐもった声を漏らす。落下の最中に突き出た岩で何度か体をぶつけたらしい。体の至る場所で火を押し付けられた様な痛みを感じる。

 痛みを噛みしめてジョゼは起き上がる。周囲の確認を試みるが、ろくに何も見えやしない。頭上には微かに月明りが差し込んでいる場所が見えた。あの場所から落ちたのだろう。

 取り敢えず、辺りを手で探ってみる。ごつごつとした岩の感触から、急にごわごわとした感触が現れた。すぐにそれが一緒に逃げた弓兵の身体だと分かった。


「大丈夫か?」


 ジョゼは弓兵に声を掛けた。やや間を置いてから、弓兵は唸る様な声で返事をした。


「どうした? 動けないのか?」


 反応が返ってきたものの、具体的な状態が伝わってこないためジョゼは問い質した。


「いや……不覚を取った」


 息苦しそうに弓兵は答えた。脇腹に当てていた手の平を見せるが、暗闇の中ではよく見えない。ジョゼは弓兵の手の平を触ってみると。ぬるりとした感触が伝わってきた。


「動けるか?」


 ジョゼは弓兵に肩を貸そうとする。手当てをするにも、視界が役に立たなくてはどうしようもない。その上、怪物がまだ側にいるのだ。少々、酷に思えたがジョゼは安全な場所に移動することを優先した。

 ジョゼは慎重に動いて肩を貸したつもりだが、兵士は小さく痛々しい声を漏らした。


「すまない…。だが、走るのは無理そうだ」

「こんな暗闇で突き出た岩が多い場所なら、傷を負っていない俺でも走るのは無理だ」

「そうだな。俺はウーランだ」

「ジョゼだ。助けてくれた礼がまだだったな」


 お互いに名乗り合ったところで、ジョゼ達は手探りながら歩き出した。


「礼なんていらない。それに、あんたの名前は知っている」


 ジョゼは内心、首を傾げた。調査隊は全員が顔見知りではない。十名中、四名が王都より派遣された兵である。そこには、隊長とジョゼも含まれている。残りの六名は同盟下にあるアスティ家から派兵された者達である。ウーランは後者だ。

 そのため初対面の者が大半である。駐屯地で合流した際に、一人ずつ自己紹介などしない(主要な人物を除いて)。肩にある豹の刺繍を見て、アスティ家の兵士だと認知する程度だ。


「隊長とやり合っていただろう。すまない、助けに入れなくて」


 ジョゼは成る程と思った。隊長と戦っていた時に、確かに名前を叫ばれていた。


「どうにか切り抜けられたんだ。気にする事は無いさ。それにあの状況は隊長より、闇に紛れて襲おうとしていた怪物の方が危険だ」

「怪物…。あいつらは一体何だ? 断言出来るが、アスティ家もマックイン家もあんな生き物は見たことが無い」


 ジョゼもウーランの言葉に異論は無かった。マックイン家はこの地を統治する領主だ。グルズ山を所有しているのもマックイン家である。その歴史は十年、二十年ではない。もし、怪物が元々グルズ山に生息していたなら、この地を開拓している際に遭遇し、言い伝えられてきた筈だ。

 ジョゼはその両家に限らず、この世の誰一人として遭遇したことが無いのではなかろうかと考えていた。


「学匠達なら何か知っているかも知れない。何としても、王都へこの事を報せよう」

「もう一度、怪物に襲われたら…その時は逃げ切れない」

「そんなことは無い。この入り組んだ地形は隠れるのに役立つ。上手く隠れてやり過ごしてやればいいさ」

「ジョゼ、それはあまりにも楽観的に考え過ぎだろう」

「心配するな」


 ジョゼは会話を切り上げようとしたが、ウーランは逃さなかった。


「心配しているのは、お前が血迷った判断を下すことだ。敵の数はこちらより圧倒的に多いんだぞ。視界も悪い、武器は弓矢だけ、おまけに俺はろくに動けない。隠れる前に殺される。また襲われたら、その時は俺を置いて行け」

「ウーラン……」


 ジョゼは返答に困った。最初からウーランが何を言わんとしているのか分かっていた。そしてその判断が正しいという事も。

 何故かジョゼは、これ以上仲間を失う事に耐えられなかった。どれだけ納得する理由を並べても、火に薪をくべる様に相まって大きくなっていく。


「調査隊の一員として、その任は全うする。犠牲になった仲間達の為にも」


 ジョゼは何とか言葉にした。その回答に満足したのか、これ以上の念押しは無意味と考えたのか、ウーランは何も言わなかった。


「今は二人とも生きてグルズ山を下りるつもりだ。希望は捨てない。それが現状の正しい判断だろう」


 ジョゼにとって最大限の譲歩だ。ウーランは否定も肯定もせず、ジョゼの肩を借りて共に歩き続けた。

 ジョゼ達は黙々と、手探りしながら慎重に歩いた。随分と時間が立った様に思う。幸いにも、あれから怪物の気配は無い。

 ジョゼの頭に、怪物に襲われていた場面がこびりついている。不意に思い出して震えた。

 人間の様に思考する怪物。知恵があるからこそ、人間は獣より優位に立ち続けていられる。それが正しいのかは分からないが、ジョゼはそう考えている。

 人間最大の武器である知恵を、怪物も同じように有している。怪物の知力は人間と同程度なのか、それとも人間を超えるのか。その程度が推し量れないから恐ろしいのだ。


 本当にこれは現実なのだろうか。ジョゼが目にした光景は、全く自分の知らない世界だった。

 ジョゼは足取りが重くなるのを感じた。地上で倒れた仲間に足を引っ張られているような気がした。ジョゼの頭の中は、恐れで満たされた。この様な世界で生きられる筈がない。

 ふと、ジョゼは隊長の顔が頭を過った。保身に執着し、仲間の誰一人も信頼出来なかったあの顔を。

 本当に恐ろしいのは、人の奥に巣食う底知れぬ悪意ではないだろうか。ジョゼはあの時の隊長の顔に対して、怪物に通じる何かを感じ取っていた。怪物を利用する人間が現れたら、世界はどうなってしまうのだろうか。

 次々と悪い考えが浮かんでくる。ジョゼは目眩がしてきた。


「大丈夫か?」


 ウーランがジョゼに声を掛けた。密着して歩いているため、ジョゼの足取りなど様子の変化には敏感に察知出来る。

 傷を負っているウーランに心配されたことに、ジョゼは僅かながら罪悪感を覚えた。自分がしっかりウーランを支えなければならないと、ジョゼは思っていた。

 身体ではなく、どうやら心に相当の深手を負っていたのか。そうジョゼは気付いた。


「心配ない。進み続けよう、きっともうすぐ出口さ」


 ジョゼは歩くことに集中した。岩壁を手探りし、足から伝わる感覚で道に障害物が無いか探る。進む事に意識を集中していれば、妙な考えは浮かんでこないだろうとジョゼは考えた。暗闇を歩くことにも次第に慣れてきた。


「あの怪物達、もしかしたら元は人間だったのかも知れない」


 あまりにも唐突にウーランが呟いた。その衝撃的な内容にジョゼは思わず足を止めた。


「何を言っているんだ! そんなこと、あり得ないだろう」


 全く以って有り得ない。ウーランが何故、その様な考えを持ったのかも予想出来ない。それなのに、ジョゼは鼓動が早くなるのを感じていた。まるですぐ後ろに死神の気配を感じていながら、振り向けないでいる様な恐怖が這いあがってきた。


「今日目にしたことは、どれもこれもあり得ないことだ。ここで行方不明者が出てから怪物が現れた。人間の様な素振りを見せる怪物が。それがただの偶然としては括れない」


 一連の出来事が偶然ではないことくらい、ジョゼにも分かっていた。しかし、ウーランの推測は、あまりにも飛躍し過ぎているように思えた。

 あり得ないとは、なんと便利な言葉だったのだろうか。未知と遭遇し、当たり前の概念が崩壊した今、その言葉の魔力は消え去った。


「もう考えるのは止そう。その仕事は俺達ではなく、識者が行うことだ。そのためには、何をしなくてはならないか、散々話しただろう」


 今度はジョゼがウーランを正道に引き戻す番だった。

 もしその考えが正しいのなら、この世界はもうジョゼの知っている世界ではない。そんな恐ろしい世界で、今も自分が息をしているなんて考えたくもない。だからジョゼはこれ以上、この会話を続けたくなかった。

 それを最後に二人は黙り込んだ。ただひたすらに、黙々と月明りを求めて歩き続けた。




 どれだけの時間が過ぎたのだろうか。閉ざされた視界。感覚を研ぎ澄まし、手探りで道を確かめて進む。怪物の気配に神経をすり減らす。ジョゼとウーランの体力と精神力にも限界が近づいていた。口を開いたら弱音が溢れそうだった。

 ジョゼは頬に風の感触を得た時、直ぐにそれが何であるのか分からなかった。錆びついていた頭と神経が生き返るのに、しばしの時間が必要だった。


「―――風だ」


 ジョゼはウーランに呼びかける。


「分かったか? 風が吹いている。出口が近いぞ!」


 消え失せかけていた活力が、再び体の中から溢れてくる。ウーランの足取りに、僅かながら力強さが戻ってきたのが分かる。

 二人の視線の先には、ついぞ憧れた光があった。優艶な青白い帯が、うっすらと差し込んでいる。


「やったぞ!」


 抑えきれず、ジョゼは歓喜の声を上げた。遂に地獄から、悪夢から解放されるのだ。


 しかし、出口を目前にして二人は足を止めざるを得なかった。


 地響きがした。一連の出来事の始まりである、鉱山作業者が聞いたであろう謎の地響き。

 それは内臓が揺さ振られるほどの、低い呻き声だった。

 呻き声が洞窟内に響き渡る。音は反響するため、ジョゼ達はこの音がどこからやって来るのか掴めずにいた。

 この呻き声の正体が自然現象ではないのは明らかだった。不規則に呻き、息遣いの様な音も聞こえる。


「泣いている?」


 ウーランは困惑した声で言った。

 ジョゼにも、それは人間がすすり泣く様な声に聞こえた。

 この世のありとあらゆる負の感情を掻き集め、心の内に凝縮した感情を解き放つ。決して報われることはなく、生物として持つはずの喜びという感情をえぐり取られた様な悲しみの声に聞こえた。


「近づいているぞ」


 ウーランの言う通り、呻き声はどんどん大きくなっている。


「ああ、急ごう。傷が痛むだろうが、頑張ってくれ」


 ジョゼ達は気付かれない様に注意を払いつつ、歩を速めて出口を目指す。

 しかし音は離れない。この暗闇を迷うことなく、ジョゼ達の後をついてくる。

 ウーランは傷口から手を離し、その手をジョゼの顔の前に突きつけた。


「血だ。奴を導いているのは、俺が流している血だ。この臭いを辿っていている」

「黙って進め。奴がどこまで追いかけてこようと、それが仲間を見捨てる理由にはならない」


 怪物は着実に近づいてきている。洞窟内を揺さ振る空気の振動は、ますます大きくなっていく。

 なりふり構わず進むしかなかった。岩が身体に当たろうと、傷口から血が流れようと二人は突き進んだ。嘆く声は、すぐ側まで迫っていた。

 外へと通じる隙間は、小高い崖の先にあった。一人で何とかよじ登れる程度の高さだが、今のウーランには厳しい。ジョゼは迷うことなく、ウーランを下から押し上げて出口に辿り着かせた。


「よし!」


 ウーランが崖の上に辿り着いた。間髪入れずにジョゼも崖を登る。


「もう少しだ!」


 ウーランがジョゼの腕を掴もうとした。

 それよりも早く、ジョゼを掴んだのは灰色の巨大な手だった。その腕は大木の様に太く、生々しい傷跡が多くあった。


 灰色の大蛇はその大口を開き、ジョゼの胴体を咥えた。ジョゼは悲鳴を上げながら、崖から突出している岩にしがみつく。


 ウーランは弓を番えた。傷の痛みなどとうに忘れて、全力で引き絞った矢を灰色の大腕に放つ。


 大腕に傷一つつかない。腕に当たった衝撃で矢柄が折れた。

 ジョゼとウーランは目が合った。次の瞬間、ジョゼの手は岩から離れた。ジョゼはそのまま、闇の中へと引きずり込まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る