三 『壊滅』

 ジョゼの鼓動が跳ね上がり、爆発したように血液が全身を駆け巡る。

 覆いかぶさったまま動かなくなった隊長を押し退ける。怪物とジョゼの目が合った。全身が粟立つ。剃刀の様なその爪を、喉奥まで押し込まれている様な恐怖に襲われた。


 怪物はにたりと笑った。耳元まで裂けた口をしているため、そう見えただけかも知れない。しかしジョゼにはそう見えたのだ。怪物の瞳に、暗く湿った喜びを見た。この怪物は夜目が利くのではない。人の恐怖心を見抜くのだ。


 怪物はジョゼに狙いをつけて鋭い爪を振り上げる。

 ジョゼは咄嗟に怪物を蹴り飛ばした。これが痛手を与えられたのかは分からないが、怪物を遠ざけることには成功した。

 周囲には新たな惨状が広がっていた。

 新たに襲ってきた怪物は、この暗闇をまるで昼間の様に動き回っている。兵士達は抵抗してみせるが無駄に終わる。怪物達からしてみたら、兵士達は案山子同然だ。

 ジョゼは立ち上がってみせるが、襲われる仲間達の下へ駆けつけられずにいた。ジョゼの他に戦える仲間は見受けられず、状況は多勢に無勢。迂闊に助けに向かっては、ミイラ取りがミイラになる。


 もたついている内に、先に蹴り飛ばした怪物が再びジョゼに狙いを定めやってきた。

 両手の爪を広げ、ジョゼを威嚇しながら距離を詰めて来る。ジョゼは剣を構え、敵の出方を伺いつつ、他の怪物に不意を突かれぬよう周囲を警戒する。

 耳をつんざく様な咆哮を上げ、怪物はジョゼに飛び掛かった。

 振り上げた両腕が、ジョゼの脳天目掛けて襲いくる。

 ―――速い!

 怪物は跳躍により、ジョゼとの間合いを一瞬の内にほぼ無へと変えた。しかし怪物の予備動作から、攻撃の形は予想に難くない。

 間一髪のところで怪物の攻撃を防ぐ。鋭く甲高い音が鳴る。それは剣による打ち合いそのものだ。

 体が小さい分、攻撃に重みは無い。そのため、ジョゼは攻撃を防ぎきることが出来た。

 狼の怪物より膂力は劣るが、この怪物の脅威は強靭な脚力から繰り出される跳躍攻撃だ。ここに矮小な体躯が活きてくる。飛蝗の様に飛び跳ね、懐に潜り込み急所をその爪で引き裂く。

 加えてこの暗闇と足場の悪い岩山地帯。怪物はこれら環境条件の影響を受けていないのだ。


 ジョゼを仕留め損なった怪物は、再び距離を取った。この行動を見て、ジョゼは更に確信を得た。怪物達は人間に近い思考をもって、戦いを展開している。

 常に接近して戦うよりも、距離を置いた方が怪物自身の特徴を有効的に活用できる。

 野性的ではなく、合理的な戦い方。次々と仲間達が倒れていく中、ジョゼはそこに僅かな勝算を見た。

 ジョゼは隊長の剣を拾い上げる。右手に持つ剣は背後に回し、怪物に見えない様にする。左手に持つ剣を前に、そして左足を前に出した構えで怪物に対峙する。

 怪物が走り出した。一直線にジョゼへ向かうと思いきや、突然に右へ跳躍する。更に跳躍。不規則な動きを見せジョゼを翻弄してくる。

 二度目の跳躍で、ジョゼは怪物の姿を見失った。胸に恐怖が渦巻き、腹で緊張が膨れ上がる。思考は停止した。それは本能だろう。ジョゼは敵の攻撃が自身のある一点にくるだろうと予測し、そこへ誘う様に構えている。意識を他に分散しては、防御の成功が僅かに上昇するだけで反撃の機会を失う。


 ジョゼは一点賭けの戦いを選択した。成功したら傷を負わせられるかも知れない。しかし、失敗ならば結果は死だ。


 次第に周りが静かになっていった。仲間の声も、怪物の雄叫びも聞こえない。風が皮膚を擦る感覚も無い。まるで、時が止まった世界に自分一人が立っている様な気がした。


 その静寂はほんの微かな音ですら浮き彫りにする。


 石と石がぶつかり合う音が聞こえた。風ではない、左頬に空気の乱れを感じた。

 ジョゼは即座に左手に持つ剣で、左側の頸動脈を庇う。


 ―――金属同士がぶつかり合う、鋭い音が鳴る。


 ジョゼの剣は怪物の爪を受け止めていた。止まっていた時間が、堰き止められていた川が解放された様に、爆発的な勢いで動き出す。ジョゼは右手に持つ剣を、渾身の力を込め怪物に振り下ろす。

 金切り声とは、正にこのことだ。鉄が切り裂かれる様な声を上げ、怪物はその場に崩れ落ちた。ジョゼの一撃は、怪物の片方の腕を切り落としたのだ。


 ジョゼは賭けに勝った。結果は期待以上だった。狼の怪物と違い、現在の装備でも十分に傷を負わせられる事が分かった。そして隊長の剣を捨て、助けられそうな仲間を探す。


 期待以上の結果を前にして、ジョゼの緊張は緩んだ。攻撃が通用するかは重要である。しかし、最重要ではない。この状況において、最重要は死ぬか生きるかである。


 月が再び陰り出した。薄い月明りでは、色を判別するのは難しい。怪物の血が何色をしているのか、確認することは出来ない。ただ、黒い液体を肩から流しながら、怪物は立ち上がった。

 ジョゼがそれに気付けたのは、ただの偶然だった。振り向けば、腕を切り落とした怪物が動き出そうとしていた。とどめは間に合わない。また、怪物の攻撃を防がなくてはならない。

 今回は思慮する余裕などない。どこに攻撃が来るかを予想して防げない。


 命の瀬戸際に晒された怪物の行動は、動物らしく命にしがみつき、残りの生を全てぶつける様な攻撃だった。

 矢の如くジョゼを目掛け一直線に飛び掛かり、悍ましい口を広げて食らいつこうとする。


 ジョゼが偶然に気づかなければ、間違いなく餌食になっていただろう。もう一度、剣で防御するが怪物の勢いに負け、剣を取り落としてしまった。

 無防備になったジョゼは、先程に手放した隊長の剣を拾おうとする。しかしジョゼは動きを止めた。他の怪物達の視線が集まり、ジョゼを狙っている事に気付いたからだ。

 怪物達は仲間の断末魔を聞いた。人間の様に戦う生物なら、果たして仲間が殺された時どうするのだろうか。その答えは、ここに明確だった。


 先程までは、怪物にとって戦いではなく狩りだった。今、怪物が向けているのは殺意だ。そうジョゼは直感した。怪物達は無意識に報復の意志の下で、結束を新たにしてジョゼを攻撃しようとしている。


「こっちだ!」


 誰かがジョゼに呼びかけた。

 竦んでいたジョゼは弾かれた様に、声がした方向へ走り出した。近くにおちていようと、隊長の剣を拾い上げる余裕は無かった。その次の瞬間には、怪物達が一斉に襲い掛かるのだ。


 どんどん闇が広がっていく。走るジョゼを誘導するように、こっちだと呼びかけ続ける。

 背後から怪物達が追ってくる。呪いの言葉でも叫ぶ様に。お前も同じ目に遭わせてやる。何故か、ジョゼの頭の中はその言葉が埋め尽くしていた。

 がむしゃらに走り続け、ジョゼは声の下に辿り着いた。闇に浮かぶその影は、見慣れた人間の形をしていた。


「ここに入れ!」


 ジョゼは兵士の背後に押された。そこは岩壁だった。一瞬、ジョゼは焦った。逃げ場が無いではないかと。しかし、岩壁を手で探ると隙間がある。大人一人が通れるような隙間だ。


 考えている暇は無い。外を走って逃げ続けても、いつかは追い付かれる。木が一本も生えていない岩山では、隠れる場所も無い。この穴の先ならば、もしかしたら隠れる場所があり敵をやり過ごせるかも知れない。

 ジョゼは急いで穴に潜り込もうとするが、怪物は容赦なく迫って来る。振り向くと、一匹が間近まで来ている。


 すると、ジョゼを誘導した兵士が、弓に矢を番える。迫り来る怪物に向けて矢を放った。矢は怪物の右肩に突き刺さる。甲高い叫びを上げ、怪物はその場で痛みにもがいた。

 怪物の動線が分かれば、たとえ視界が悪くても当てられる。しかし当て続けるのは至難の業であり、怪物が一斉に飛び掛かれば矢を放つ暇など無い。


「お前も来い!」


 ジョゼは嫌な考えが頭を過り、兵士に呼びかけた。殿を務めるつもりだ。


「構うな、行け。あの数からは逃げ切れん。ここで奴らを足止めする」


 ジョゼは自身の考えの甘さを実感した。まだ助かろうとしていた。状況を理解して、然るべき行動を取っているのは弓兵だ。調査隊の兵士として、グルズ山の危険を王都へ報せなくてはならない。それが使命だ。


 弓兵が次の矢を番えようとした時、人間の叫び声が聞こえた。胆力を振り絞る様な決死の声だ。生き残っていた兵士達が、ジョゼ達に迫る怪物へ攻撃を仕掛けた。

 弓兵とジョゼは何も言わなかった。ただ歯を食いしばり、溢れんばかりの敬意を抱いて二人は逃げた。彼らの意志まで死なせるわけにはいかない。二人は自分達の命が、自分だけの命ではない様に思っていた。


 そして、月は完全に雲の中に隠れた。この隙間の向こうは、元より月が出ていようと関係ない。後に勇敢な兵士達の声を残し、新しい暗闇の中へジョゼ達は進んだ。

 数歩足を踏み出した所で、足から伝わる地面の感覚が消えた。ジョゼ達は、グルズ山の闇に飲み込まれていった。

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