二 『襲撃される調査団』

 ジョゼは空を見上げた。不気味なほどに黒く塗りつぶされた空。見上げているはずなのに、自分が奈落の底へ落ちていく様な錯覚を覚える。


 握りしめる剣の刃から血が滴っている。


 矛盾を内包する現実。目にする光景の全てが異常だった。

 地面には無残な姿に変わり果てた仲間達が横たわる。死体と呼ぶよりも、かつて人間であった物体と呼ぶ方がしっくりきた。

 地上は地獄に成り果てた。だからであろう。ジョゼは無意識に救いを求めて空を見上げたのだ。

 しかし、その空も魔に侵された様な姿を見せている。天が地上を映し出しているのか、それともその逆か。ジョゼは場違いな疑問を抱いた。いずれにせよ、その間に立つジョゼ達を救う存在はいない。


「奴らは…? 全て倒したのか?」

 荒い息を上げながら、一人の男が誰にでもなく尋ねた。男の被る兜には部隊長の証である、羽飾りの装飾が施されている。

「いえ、手傷は負わせましたが仕留めてはいません。ですが、周囲に敵の気配はありません」兵士の一人が答えた。

「ええい! 状況を報告しろ! 残っているのは何人だ?」隊長は苛立ちながら叫ぶ。

「五名です……。半数がやられました」

「くそっ! 一体何なのだ? 何が襲ってきたのだ?」


 隊長の質問に答える者はいなかった。部下達は隊長が独り言を喚いているのか、質問を投げかけているのか分からなかった。

 それ以前に誰もが現状を理解出来ていなかった。ただ、訳も分からない内に仲間達がただの肉塊に変えられた。分かるのはそれだけだった。


「一瞬ですが、姿が見えました。雲の隙間から月明りが差し込んだ、その一瞬だけ…」ジョゼが隊長の側へ来て告げる。

「見た目は狼、ですが大きさは一般的な狼の倍近くはありました。動きは非常に俊敏で、長く鋭い鉤爪と強靭な牙が次々と仲間達を蹂躙していきました」

「あれは狼ではありませんよ。奴の体毛は、まるで鎖帷子のような堅さでした」別の兵士が話す。

「ならば何だ? はっきりしろ! 俺は正体を聞いているのだ! 我々の任務は何だ? ここグルズ山の異常を調べることだろうが! 逃げた奴らを追うぞ」


 その言葉に兵士達は耳を疑った。

「隊長! 王都へ引き返しましょう。たとえ何の情報も掴めていないとしても、瞬く間に五人の兵士を葬る様な怪物が潜んでいるのです。闇雲に行動しては犠牲者を増やすだけです。ここは王都へ戻り報告し、戦力を整えるべきです」

「撤退はせん! たった今グルズ山に足を踏み入れたばかりだ。ここで発見したことは何だ? たかが凶暴な狼に出くわしただけだ。それだけを報告するか? 兵を五人も失い、得た情報がそれだけとは、情けないにも程がある! それにお前は散った仲間を見て何も感じないか! 彼らの無念を無駄にするわけにはいかない。そうだろう、クイント副長!」


 ジョゼが必死に訴えるものの、隊長は一蹴した。

「副長は…隊長の足元に…」

 隊長は吐き捨てるような悪態を吐いて、グルズ山の奥へと歩き出した。その際に踏み出した足が隊員の亡骸に当たり、結果的に蹴り飛ばしてしまった。


 隊長の後を続こうとする者はいなかった。隊員たちは意気消沈した様子で立ち竦んでいる。愚かな行為だと誰もが感じていた。

 隊長は恐れているのだ。それは想定していた以上にグルズ山が危険な状況になっていることでも、仲間の半数を失ったことでもない。損害を被り、何の成果も挙げずに王都へ帰還することだ。これまで苦労を重ね築き上げた実績が、跡形もなく人生から消滅してしまうことを恐れているのだ。


 多くの部下を失ってもなお、現実を見ず夢想にふけるか。ジョゼは湧きあがる怒りを言葉に変え、隊長に食い下がる。

「この様な事態は想定外です。王室ですら想定していなかったはずです。せめて夜が明けるのを待つべきでは?」

 隊長は振り向きざまに剣を抜き、切っ先をジョゼに突き付けた。

「この臆病者が! いいか! よく考えろ! 王国のため、犠牲となった仲間の無念を晴らすため、先へ進み勇敢な兵士としての誉れを受けるか。それとも任務放棄による反逆罪として、今この場で処されるか。どちらか選べ!」

 隊長の顔が恐ろしい形相に変わりまくし立てた。窪んだ目の奥で、淀んだ光が覗いていた。


 これほど醜い人間の顔は見たことが無い。自らの命よりも地位を欲する、欲深い人間の本性を見た気分だった。

 隊長は脅すように兵士達の顔を見渡すと、剣を鞘に納めて再び山奥の方へ歩き出した。

 兵士達は隊長の背を見ながら立ち尽くしている。

「ジョゼ、放っておいて俺達は下山しよう」

 先程、隊長に怪物の特徴を話した兵士が、ジョゼの肩に手を置いて話しかけた。

「流石にそれは出来ないだろう。あの様でも、同士であることに変わりはない」

 ジョゼの返答に対して、提案した兵士は不満気な表情を覗かせた。

「あの間抜けは俺達が襲われた時に剣を抜いただけで戦いもしなかった。ただ突っ立って喚きたてていただけだ。何も見ちゃいないし分かってもいない。だが、お前は見ただろう。実際に剣を振るって気づいただろう。あれは獣の動きじゃない」


 兵士は怯えた様子で続ける。

「一匹が陽動を掛け、注意が逸れている隙に近づき喉に食らいつく。こちらの動きを観察して、間合いを把握して近づかない------」

「まるで人間と戦っているようだ」ジョゼがその続きを言った。

「ああ、そうだ。なんだか気味が悪かった。あいつらが退いてくれて助かった。実際、俺達に勝ち目は無かった。お前だって分かっているだろう? もう一度奴らに出くわしたら、俺達は間違いなく全滅だ」

「もう一度、説得してくる」

 兵士は観念したようで、隊長を呼び止めに向かうジョゼを引き留めなかった。

 不意に物音がした。ジョゼは足を止めて辺りを見渡すが、相変わらず静かな闇に包まれている。


「貴様ら! 何をぐずぐずしている!」

 隊長が怒鳴りつける。誰の耳にも隊長の声は届いていない。ただ神経を研ぎ澄まし不審な物音を探る。


 静寂に混じり、微かにからからという物音が聞こえた。ジョゼは嫌な予感がして隊長を呼び戻そうとする。


「隊長、何かが…近づいてきます」

 隊長が剣を抜いた。状況を察してくれたとジョゼは思い込んだが、どこか様子がおかしい。

「貴様らがこそこそと何か話し合っていたのは分かっている。大方逃げる算段でも立てていたのだろう。そう言って俺をおびき出して殺すか?」

 隊長はゆっくりとジョゼに振り返り、殺意の籠った目を向ける。

「ラグロ隊長!」

「お前たちが逃げ切ったとしても、俺が生きて王都に戻れば全員処刑される。ここで殺しても、狼にやられたと言えば問題無い。そうだろう? ジョゼ。謀反を企てたお前は、ここで処刑する」


 隊長は剣を構えてジョゼに近づく。その様子に他の兵士達も気づいているが、今は隊長よりも恐ろしい影が迫っている。ジョゼは仲間の助けは望めないと悟り剣を構えた。当然それは自己防衛の為だ。ジョゼから見たらの話だが。

 剣を構えるジョゼを見て、隊長は表情がいっそう険しくなる。


「やはりか! ジョゼ! 俺を殺すつもりだったな!」

「落ち着いてください。その様なつもりは毛頭ありません」

「黙れ! 剣を抜いておいて戯言を!」


 隊長は剣を振りかぶり、雄叫びを上げながらジョゼに襲い掛かった。

 暗闇の中にあっては、視覚に頼り切る事は出来ない。ジョゼは音と肌に伝わる感触、そしていくらかの直観を用いて、隊長の剣撃に対峙する。


 体重を乗せて勢いよく振り下ろされた剣を、ジョゼは剣で受ける。そして即座に斜めに切り払って、隊長の剣撃を往なした。

 攻撃を往なされ、隊長は勢い余って躓き倒れ込んだ。隊長はうずくまったまま動かない。


 ジョゼにとっても脅威は、眼前の錯乱した隊長ではない。闇に紛れ、いつどこから襲ってくるか分からない怪物である。周囲を警戒しながら隊長に近づいた。


「どうして、こうなった…。こんな筈ではなかった」


 ジョゼは隊長の嘆く声を聞いて剣を下ろした。王室の命令を遂行することへの重圧、兵士の命を預かる責任。板挟みの苦悩を抱えているところに怪物だ。怪物により任務遂行は出来ずに仲間も失う。隊長としては失格かも知れないが、人間として見たら同情の余地はある。


「隊長、まだ終わりではありません。この窮地を脱してから、我々がどうするべきか考えましょう」


 ジョゼはうずくまる隊長に手を差し伸べた。それが隙だった。


 隊長は躓いた時に、石を手に取り隠し持った。ジョゼがそれに気づいたのは、右目の上辺りに鈍い痛みが広がった時だった。隊長は振り向きざまに石をジョゼに投げつけたのだ。

 ジョゼが怯んだのを見て、隊長は奇声を上げて襲い掛かる。


 今度ばかりは隊長の剣撃を防ぎきれなかった。体制を持ち直せないまま、防御の為に振るった剣はあっけなく弾かれた。隊長はジョゼを猛追する。


「お前が死んだら良かったのだ! お前が命令に従わないから、仲間が死んで任務が失敗したのだ!」


 逆恨みを叫びながら隊長はジョゼを追い詰める。後退りながら攻撃を凌いでいたジョゼは、剥き出た岩の隆起に足を取られ転倒した。


 倒れ込んだジョゼに剣が振り下ろされる。寸でのところでジョゼは剣で防いだ。鍔迫り合いの状態になったが、隊長が体重を掛けられる分有利だった。

 ぎちぎちと音を立てながら刃と刃が押し合う。隊長の剣は既にジョゼの鼻先まで迫っていた。

 仲間達の声が聞こえる。周りがやけにざわついているが、何を言っているのかは分からない。


「あなたは一体、何と戦っているのですか」

「知れたこと。俺の邪魔をする奴らとだ」


 隊長の背に黒くどろどろとした空が広がっていた。星々はこの闇に飲み込まれたのだろう。


 矛盾を内包する現実。目にする光景の全てが異常だった。


 ジョゼは膂力を振り絞り、隊長の剣を押し返す。


 許せなかった。その思いがジョゼに再び力を与えた。たとえ全てが狂っていても、自らの光を失うべきではないと内側から迸る様な衝動があった。自分自身の存在を打ち消し、恐怖に飲まれ同化することは酷い裏切りだと思えた。


 その裏切りは仲間に対して、そして何より自分に対してだ。


 誰もが同じ目的と志を抱いていた筈だ。そしてその光はまだそこにある。内に感じる。

 隊長は光を見失った。恐れに飲まれ、仲間を引き込もうとしている。だからこそジョゼは、ここで隊長の剣に倒れるわけにはいかなかった。


 ジョゼは雄叫び押し返す。その気迫と膂力に隊長の表情はみるみる恐怖から怯えに変わり、剣に込める力がジョゼに押し負けていく。


「ぐうっ!」


 唐突に隊長がくぐもった声を出した。それと同時に、ジョゼを押さえつけていた力が消えた。

 何が起きたのか理解できないジョゼの上に隊長は覆いかぶさるように倒れた。


「隊長…?」


 ジョゼは隊長の背中に、何かぬるりとした感触を覚えた。


 先まで隊長の姿が見えていた場所に別の影があった。

 風が吹いている。雲が流れ、青白い月明りが一時だけ照らし出した。淡い光が影を洗い流す。瞬き程に短い時間に思えたが、垣間見たその光景は脳裏に永遠に刻まれるだろう。


 人間の子供の様に体は小さいが、異様に大きい頭と臨月の様に膨れた腹をしている。口は耳元まで裂け、鋭利な牙を覗かせ、剃刀の様な爪が月明りを跳ね返す。異形の怪物がそこにいた。


 ジョゼの耳が漸く周囲のざわつきを捉え出した。それは仲間達の断末魔だった。



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