第9話
「ねえ」
と、女の子の声が響いた気がした。少し遅れて、部屋の明かりでもついたのか、閉じた目に光の刺激を感じる。だが、俺の意識は既にまどろんでいて――、
「んー」
夢か現実かの区別はつかず、聞こえた気がする声に生返事をした。
「え、まさかもう寝たの!? まだ布団に入ったばかりじゃない! ちょっと、ようやく邪魔者が消えて、着替えが終わって、大事な話があるんだから、起きなさいよ!」
と、女の子の焦った声が聞こえてくる。かと思えば、誰かが俺の上にぽふんと乗りかかってきた。俺はけだるく声の主に応える。
「ん、なんだよ、寝かせてくれ」
「どんだけ図太い神経しているのよ。ねえ、ちょっと。ちょっとってば。起きて。ねえ、起きてよ」
俺の上に乗る誰かは、ゆさゆさと俺の身体を揺さぶってきた。すると――、
(……夢じゃないのか)
流石の俺も異変に気づき、おもむろに目を開ける。
眩しい。が、そこには白銀の長い髪をしたとんでもない美少女がいて、至近距離から俺の顔をじいっと覗き込んでいた。年齢は俺より少し年下、十四、十五歳くらいだろうか。俺はぱちくりと目を瞬いて尋ねる。
「………………誰?」
「……きゃっ!?」
女の子は可愛らしい声を上げて驚き、座ったまま慌てて後ろへ後退した。薄手のワンピースみたいなひらひらのドレス一枚しか着ていないから、服がはだけて色々と見えそうになる。というか――、
「っ……」
スカートの中が覗けて、俺は咄嗟に視線を逸らした。
「え、えっち!」
女の子は自分があられもない姿を晒していることを自覚したのか、服の乱れを整えながら、顔を真っ赤にしてジト目で俺を睨む。
「いやいや、君が俺のベッドに入り込むから! え、もしかして君の部屋だった?」
俺はすっかり動転していたが、頭の中に思い浮かんだ疑問を口にして状況を確認した。
「こ、ここは貴方の部屋よ。でも、私の部屋でもあるんだもん」
と、女の子は唇を尖らせて言う。
「そんな話は聞いた覚えがないんだけど……」
「当然よ。今、言ったんだもん」
いやいや、そんな可愛らしく言っても駄目だからな。
「……事情を説明してくれ。とりあえず、座ろう」
俺は上半身を起こしてベッドの上に座り直すと、女の子の容貌と格好を再確認する。月桂樹の髪飾りを着けていて、本当にすごく可愛い。天使みたいだ。
「うん」
女の子はぺたんとベッドの上に座った。いわゆる女の子座りってやつだ。ただ、服がひらひらしているせいか、色々と視線のやり場に困る。
(無防備すぎるだろ……)
俺はなるべく女の子の顔を見ることだけに集中した。
「で、君は誰なんだ? 聖騎士団の一員、だよな? 俺は柊太陽だ。太陽って呼んでくれて構わない」
「私はルゥよ。ルゥ・ダプネー。初めまして、タイヨウ。その、さっきは驚かせてごめんなさい」
ルゥは姿勢を正して自己紹介をすると、まっすぐと俺の顔を見つめ返して、ぺこりと頭を下げた。とりあえず真面目というか、良い子ではあるっぽい。
「いや、それはいいんだけど……」
やばい。可愛すぎて緊張する。何を話せばいいんだ? ものすごく気まずい。このままこの子の顔を見つめていてもいいのだろうか。とても神々しい物を見ている気がして、なんだかいけないことをしているような錯覚に陥る。
「どうしたの、タイヨウ?」
ルゥは俺の名を呼び、不思議そうに小首を傾げた。その純真そうな眼差しに、俺の邪念は瞬く間に浄化されていく。
「何でもないよ。で、君はどうしてここにいるんだ? いや、君の部屋でもあるとか言っていたけど、アナスタシアかイリスから何か指示を受けたのか?」
俺はそっと深呼吸をして心を落ち着けると、ルゥに尋ねる。
「違うわ。私は
「…………はい?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまう。だって、人格を宿す
「裁光の神剣ケラウノス。それが
そう、そういうことだ。つまり、ルゥこそアナスタシアやイリス達が探し求めている伝説の存在なのだと、彼女は言っている。
「って、待て待て、待ってくれ。あの時の、俺達の話を聞いていたのか? 俺がルゥに語りかけた時も気づいていたのか!?」
「うん。まあ」
俺が慌てて確かめると、ルゥは少しバツが悪そうに頷く。
「それならあの時にそうと言ってくれよ。みんな君を探しているんだから」
そうすりゃ一発で説明がついただろ。
「嫌よ。人前で人化したら、私がケラウノスだってバレるじゃない。せっかく長い歴史をかけて所在不明になったのに」
と、ルゥは世界を救うべき神剣にあるまじき発言をする。
「…………ええ?」
俺はまたしても調子外れな声を出してしまう。
なんだ、このやる気のない伝説の神剣様は? ここは「私と一緒に世界を救って」と頼まれる流れになるのが物語ならお約束だろう。ここは物語じゃないけどさ。
まさかルゥは世界を救う気がないというのか。
「その、貴方は私の契約者だから、特別よ。特別に姿を現してあげたの。貴方、むちゃくちゃな真似するし、忠告もしておかないとって思ったから。でも、
と、ルゥは念を押すように語る。
「忠告って、俺、何かしたか?」
むちゃくちゃな真似をした? まったく心当たりがないぞ。
「したわよ。スパルトイが襲ってきた時に、
ルゥはぐいっと俺に迫り、そう訴えた。
「う、うんっ……」
俺はルゥの気迫に押され、おずおずと頷く。というより、ルゥの顔が近くて、その顔がとても可愛くて、堪らずドキッとしてしまった。
俯いて少し視線を落とすと、隙間の多いルゥのドレスから彼女の胸元が覗けてしまい、さらにどぎまぎしてしまう。だが、ルゥは真剣な顔でこう忠告してきた。
「緊急時にああいう向こう見ずな真似をされると困るから、きちんと忠告をしておこうと思ったの。命は大事にしなさい」
「……ありがとう」
俺は少し呆けていたが、気がつけばお礼を言っていた。
「な、何でお礼を言うの?」
ルゥは少し困惑しているのか、おっかなびっくりと俺に訊く。
「いや、だって俺のことを本当に心配してくれているみたいだし、あの時はルゥが俺のことを助けてくれたんだろ。なら、お礼を言うのが筋ってもんだろ」
「べ、別に、訳もわからず召喚された貴方が、何も知らないまま死ぬのは目覚めが悪いと思っただけよ。私が望んだことじゃないけど、私が存在するから貴方が召喚されてしまったわけだし……」
ルゥは顔を赤くして語り、そっぽを向いてしまう。
「君は、俺が召喚された経緯について、何か知っているのか? もしかして、地球に帰る方法も知っている?」
「……ちきゅう? ああ、貴方がいた世界のことね。ごめんなさい。貴方が元の世界に帰る方法は私にもわからない。私が知っているのは、貴方の召喚を仕組んだのが女神エロースということだけ」
ルゥは顔を曇らせ、申し訳なさそうに答える。
「女神エロースが?」
「
ルゥは唇を尖らせ、ぶつぶつと語った。
「じゃあ、ルゥは女神エロースが君にどんな選定条件を設定したのか、具体的に知っているのか? どんな条件で俺は呼ばれたんだ?」
知っているなら、ぜひ知っておきたい。
「……し、知らない! 決めたのはあの性悪女神だから!」
ルゥは俺と視線が合うと、顔を赤くして恥ずかしそうに首を左右に振った。
「ええ~、本当か?」
なんだかルゥの反応が怪しい気がする。
「知らないの!」
ルゥはジト目で俺を睨み、そう訴えた。うーん、この反応は……。
「……そうか。わかったよ」
俺は恥ずかしそうに嫌がるルゥを見ると、嘆息して納得する。
「え?」
ルゥは少し意外そうに俺を見た。
「知らないんだろ? なら、無理に訊いても仕方がない」
というより、嫌がっている女の子に無理強いをするのは俺の趣味じゃない。
「ふ、ふーん」
ルゥはそっと俺の顔を窺ってくる。
「代わりに、少し話をしないか? いくつか訊きたいことがあるんだ」
「うん、いいよ。何を訊きたいの?」
俺が話題を変えようとすると、ルゥは素直に頷いてくれた。
「まず、君はギリシア神話って知っているか?」
「ん、何それ? 知らないけど」
「そっか……」
どうやらルゥも知らないようだ。これで嘘を言っているのなら、俺に見る目はない。なら、別のことを訊いておくとするか。そうだな……。
「なら、
「私が目覚めたということは、少なくともテュポーンとエキドナの封印が解けかかっているのよ。それまでは私と契約することは誰もできないように、あの性悪女神が私のことをしっかりと封印しやがったから」
ルゥはしれっと重大発言をする。というより、この口ぶりだとやっぱり契約者の選定条件のことも知っている気がするぞ。まあ、いいけど……。
「じゃあ、ルゥの役割はやっぱりそいつらの討伐、あるいは再封印ってことになるのか? で、俺はそのパートナーとして選ばれたことになるわけで」
今の話を聞く限りは、そうとしか思えない。でも、ルゥはさっき正体をバラしたくないと言っていたんだよな。アレは戦う気がないということなのだろうか?
「……嫌よ、面倒くさい」
ルゥは微かに間を置くと、ふんと拗ねたように言う。
「いや、でも……、魔王と魔女が本当に復活したら、世界が滅ぶんじゃないのか? だから、聖騎士団のみんなはルゥのことを探しているらしいし」
ケラウノスがいたからこそなんとか封印できたって、イリスも言っていたからな。
「滅ぶ、かもしれないけど、嫌なのよ。なんで私がそんな面倒なことをしなくちゃいけないの? 用済みになって五千年も封印されて、また必要になったから戦ってほしい? なにそれ、舐めてるの? って、思わない? 私、都合の良い道具じゃないし」
ルゥは拗ねた子供のように、ぷりぷりと語る。でも、そうか。ちょいちょい拗ねた態度を見せると思ったけど、合点がいった。
「五千年か……」
「そう、五千年よ、五千年! 貴方と契約するまで、人化することもできなくて、ずっと封印されていたの」
うん、そりゃすごい年月だよな。で、ようやく封印が解けたらまた戦ってくださいっていうのは確かに虫のよすぎる話だと思う。
ただ、それでもルゥに戦ってもらわないとやばいというのが、この世界の置かれた状況なのだろう。でも、俺としてはルゥの気持ちも十分に理解できた。
「貴方だって嫌でしょ? 訳もわからず私と契約させられて、世界を救うために邪神である魔王と魔女と戦えだなんて」
「うーん……」
俺は即答することはできなかった。確かに二つ返事で戦うとは言えないが、アナスタシアやイリスに、
確かに今日、知り合ったばかりの相手だが、みんな良い子だし、イリスに至っては俺のことを助けようと橋の上で命がけで戦ってくれた。
「言っておくけど、基本、神は不老不死だし、確かに殺そうと思えば殺せるけど、それでも生半可なことじゃ死なないんだからね?」
ルゥは俺が悩んでいると思ったのか、ジト目で補足してきた。
「……不老不死だけど殺せるって、矛盾していないか?」
「それは人間に適用される常識でしょ。神になるとその常識も覆るのよ」
「そっか……」
本当に生命としてのスケールが違う相手なんだろうな。
「それに、私は神位、最高位の
ルゥはとどめと言わんばかりに、マイナスな情報を提示してくる。もしかしたら、この子はこの子で俺のことを心配してくれているのかもしれない。
「正直、いきなりの話が多すぎて気持ちの整理がまだできていないんだ。ただ、軽はずみに世界を救うために戦おうなんて思わないし、ルゥに戦ってほしいとも思っていない」
俺は素直に今の気持ちを伝えた。確かに
「……ふーん、私に戦わせるつもりはないと」
ルゥはほんの少しだけ目を見はり、じっと俺を見つめてくる。
「今はそれじゃ駄目か?」
「……別に。私がケラウノスであることを誰にも言わないのなら、いいよ」
俺が真剣に見つめ返すと、ルゥは少しだけ後ろ暗そうに視線を逸らす。
「わかった。俺からルゥの正体をバラす真似はしない」
もとより嫌がる女の子のプライバシーを開示するつもりはない。
「そう……。なら、本当に危ない時は力を貸してあげるわ。私のことはとりあえず正体不明の聖位の
「それはありがたいけど……、安易に剣の姿を晒しても大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。あの女達の話を聞く限り、ケラウノスの外観は大して伝承で残っていないんでしょ。スペックも下げた状態で剣になるから。まあ、鞘をつけたままだと思って頂戴」
「じゃあ、もしかして、今日の剣だった時の姿も力を抑えた姿だったのか?」
「そうよ。本気を出した時の私は刀身から常に神々しい光を発するようになるんだから」
ルゥはふふんと誇らしげに控えめな胸を張る。
「そっか……。鞘を付けた状態、今日のルゥもすごく綺麗だったけど、いつかルゥの本当の姿も見られるといいな」
俺は今日、戦闘中に見た剣としてのルゥの姿を思い出すと、自然とそんな台詞を口から漏らした。すると、ルゥは目をぱちぱちと瞬かせ、かと思えば頬を赤くしていく。
「な、何を言っているのよ!? 馬鹿! タイヨウのえっち!」
ルゥは上ずった声で俺を非難する。
「な、なんでだよ? 本気を出したルゥの姿も見てみたいって言っただけだろ?」
意味がわからないぞ。
「そ、そうだけど……、さ、鞘を着けている状態って言ったでしょ! 鞘っていうのは人間にとっての服なの。貴方、服を着ないで戦うの? って、やだ! 想像しちゃったじゃない、もう!」
と、ルゥは支離滅裂なことを言いだし、勝手にさらに顔を赤くしてしまう。
「いやいや、鞘付きってのはただの比喩だろ? 実際は刀身がむき出しになっていたじゃないか」
「やっ、やだ。剣の時の私で変な想像をしないでよ!?」
「しねえよ!」
なんで剣を頭の中に思い浮かべて欲情しないといけないんだ。どんな変態だよ。
「むううう」
ルゥはぷっくりと可愛らしく頬を膨らませ、俺を睨んでくる。けど、ただただ可愛いだけなので、迫力が全くない。
俺はなんだか照れているルゥが面白くて、くすりと笑ってしまった。
「な、なんで笑うのよ。もう、知らない!」
ルゥはぷいっとそっぽを向いてしまう。
「悪かった。降参だ。誰かに正体をバラすわけにはいかないし、俺はルゥの契約者だからな。今日からここで一緒に暮らすんだろ? 幸いベッドルームが一つ空いているから、そっちを使えばいい」
俺は両手を挙げて、降参の意を示した。
「……駄目よ。今後、誰かが部屋に来た時、ベッドルームを二つ使っていたら怪しまれるじゃない。私は霊魂化して姿を消しているわ」
ルゥはまだ少し拗ねているようで、やや棘のある口調で言う。
「うーん、なんなら俺がリビングのソファで寝るけど」
「寝ている間に誰か入ってきても面倒だし、ベッドルームがあるのに貴方がリビングで寝ていたら、さらに変に思われるじゃない。却下よ。というより、かなり眠いんでしょ? もう寝ていいわよ。私は姿を消すから」
「そっか……。じゃあ、お言葉に甘えて。おやすみ、ルゥ」
「……おやすみ。じゃあね」
ルゥは少しだけ目を丸くすると、照れくさそうに言った。そして、そのまま消えるのかと思えば、こんなことを言いだす。
「あ、あと、一つ伝えておかないといけないことがあるんだけど」
「なんだ?」
「もうわかってはいると思うけど、私が剣の姿になっている時、貴方、女の子を魅了して強制的にメロメロにしちゃう能力が常時発動している状態になるの。私が力をセーブしていても完全には抑えることはできないから、気をつけてよね」
「……は?」
俺の声は大きく裏返る。って、おい! そうだ、その能力のことを忘れていたぞ!
「やっぱりアレは、ルゥの能力だったのか!?」
「おやすみ!」
ルゥはそう言い残すと、さっさと姿を消してしまう。
「あ、おい。ルゥ、待て。こら、もう少しちゃんと説明しろ!」
慌ててルゥを呼び止める俺の声が、室内に空しく響いた。
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