【23】行き倒れの騎士

『リーちゃん。私、いい加減飽きちゃった』

「うるさい」

『うるさいってなによ。毎日毎日薄暗い部屋で壁画とにらめっこ。エレディーンなら本物を見たからいいじゃない? なんで今更あの人の壁画を探すの?』


 リセルは仄かな明かりを照らす角灯を、岩肌いっぱいに描かれた壁画に沿わせながらその内容を読み解いていた。

 神殿に来たその日に、リセルはまず地下二階にある書物室に籠り、先代の巫女が調べた地下三階にある壁画の目録に目を通した。どうやらこの階の絵は遥か昔、まだ人間という存在がなくて、神々が生まれた頃の歴史がだらだらと綴られているのがわかった。


 アルディシスの言う通り、この目録に目を通すだけで三日かかった。

 でもおかげで地下三階にエレディーンの壁画はないという結論を導き出す事ができた。よってリセルは順番に壁画を追う事ことにした。誰も調べていない地下二階の一面と天井に描かれたそれらを調べ始めたが、気付けばはや一週間がすぎていた。


「わたしには自分でも持て余すぐらいの膨大な時間があるんだ。壁画の調査は、丁度良い仕事だと思わないか? ルー」

『知らない』


 ルーは再びリセルの中で大人しくなった。何度も飽きた飽きたとつぶやきながら、リセルが応じないのでついに説得を諦めたらしい。

「ルーグ……いや、エレディーンは、わたしがこういう選択をすると見込んで、壁画の話をしたのだろうか」

 壁画から目を離し、リセルはしばし角灯の揺れる炎をじっと見つめた。


「リセルさーん! ちょっと」

 その時、背後の出入口からアルディシスの白い顔が覗いた。

「なんですか?」

「お願い、助けて。外に行き倒れがいるの」

「は……?」


 リセルはアルディシスに急かされながら、一週間前、自分が訪れた神殿の通用口まで行った。開け放たれた扉からは、雪混じりの冷たい風がびゅうびゅうと吹き込んでいる。

 この二、三日、神の山の天気は荒れていた。アルディシスいわく、冬が近付いてきていると言う。

 その出入口で力尽きたのか、一人の男がうつ伏せになって倒れていた。


「扉を開けたら、ばったり倒れてしまって。私じゃこの人を中まで運べないんです」

 リセルはじっと男を凝視していた。

 男は襟足まで伸びた黒髪に、黒いマント、そして白い手袋をはめていた。がっしりとした肩にはうっすらと雪が積もっている。


 胸の奥がずきりと痛んだ。

 ――嘘だ。

 こんなこと、ありえない。


「リセルさんっ。ぼーっとしてないで、この人を中に入れるのを手伝って頂戴!」

 アルディシスに肩を叩かれるように触れられて、リセルはようやく我に返った。

「あ、はい。そうだ。台所の隣の部屋、丁度暖炉に火が入っているから、そこに運びましょうか」

「ええ。その方がこの人の身体を温める事ができるからいいと思いますけど……」

「じゃ、わたしが魔法でこの人を運びます。アルディシスさん、すいませんが扉を閉めて下さい」


 リセルは倒れた男の側に膝を付き、首筋に手を伸ばして脈を探った。力強い鼓動を感じる。寒さと疲労で力尽きただけだろう。リセルは脈をとったその手を男の肩に置いて暖炉のある居室を強く脳裏に念じた。『転移』の魔法で瞬く間にリセルと行き倒れの男は暖炉の部屋へと移動した。


 普段アルディシスと語らったり食事をするその部屋は、赤々とした暖炉の火が燃えていて暖かかった。床には毛足の長い羊毛で織られた絨毯が敷いてある。

 リセルはうつ伏せに倒れたままの男を凝視した。

 似ている。

 背格好から髪型、体型……そして……。


「いけない。はやく、この人を暖炉のそばに」

 リセルは跪いてとにかく男を仰向けにさせた。

「あっ! やっぱりここにいた」

「なっ、何っ?」


 リセルは叫び声を上げそうになった。仰向けにした男の眼が開いたかと思うと、彼はむずと起き上がり、リセルの右手首を思いっきりつかんだのである。


「やっぱり、やっぱりそうだ! よかった……無事で」

「えっ、あ、うわ! 何するんだ!」


 男はリセルを自分の胸に引き寄せて抱きしめた。リセルはその腕の中から逃れようとしたが、男の両腕は太い木の幹のようで叩いてもびくともしない。リセルはしばしもがいていたが、ふと頬に冷たい金属が触れる事に気付いた。

(この感覚……)

 その時、ぱたぱたと法衣の裾がはためく音がして、アルディシスが部屋に入ってきた。


「えっ、あ……、何やってるんですか?」

 アルディシスが来た事に気付いて、リセルは両手を振り回しながら叫んだ。

「助けてくれ。急にこの人が抱きついてきて……」

 アルディシスがおずおずとリセルの側に近付いてきた。そして、行き倒れの男の顔を見て驚いたように口を開いた。


「あら! 誰かと思えば神殿騎士のルーグじゃない」

「ええっ!?」


 リセルはもはやわけがわからなくなった。

 アルディシスがルーグと呼んだ男が、ようやくリセルの抱擁を解いた。

 間近に見えるその顔は、きりっとした眉に青灰色の瞳。どこか飄々とした雰囲気で、リセルと目が合うと人懐っこい笑みを返してきた。

 まぎれもなくあのルーグと同じ顔。彼の胸には王都の『大神殿』に属する銀の剣の首飾りが揺れていた。


「……ルーグ。そんな、馬鹿な」

 リセルは腰が抜けたとまではいかないが、床に座り込んだままルーグの顔を見つめた。

「あら。あなたも彼を知っているの?」

 アルディシスが暖炉に薪を追加しながら言った。

 黒髪の神殿騎士はまだリセルの前に座っていた。目を細めて笑っている。


「私のような一神殿騎士の名前を知って下さっていたとは。いや光栄だな。ハイ・プリースト=リセル」

「ハイ・プリースト……ですって?」

 アルディシスがぎょっとしてリセルの隣にやってきた。法衣の裾をさばいて座る。


「『大神殿』のハイ・プリースト(神官長)は、リスティス様の後継者が決まるまで空席だったと思ったんだけど」

 黒髪の騎士――ルーグはアルディシスに向かって肩をすくめた。

「その後継者が彼だ。ここは辺境の神殿だから、三ヵ月前の情報もまだ伝わってないようだな」

 アルディシスは珍しく頬を怒りのせいで赤く火照らせながら口をとがらせた。


「ええ、ここは山奥の、しかも普段は入山が禁じられている「神の山」の神殿ですからね。あなたもちっとも来てくれないし。悪かったわね。知らなくて」

 リセルはいろんな意味で頭が混乱していた。死んだはずのルーグがこうして目の前にいることと、アルディシスがルーグを知っている事。けれどアルディシスはリセルのことを知らなかった事。


(一体……何がどうなっている?)


 リセルはただ二人の顔を交互に見つめることしかできなかった。


「それにしてもルーグ。あなた、こんな時分に何故ここに来たの? まさか、行き倒れてお花畑の夢とか見るためじゃないわよね?」

「当たり前だ。倒れたのは単なる寒さと空腹のせいだ」

 ルーグはふんと鼻で笑って、そして改めてリセルの前に膝をついた。


「ハイ・プリースト=リセル。ご無事で何よりです。デュミナス国王陛下より、あなたの探索を命じられた神殿騎士のルヴォーグ・フォーグナーと申します」

 リセルは国王と聞いてぎょっとした。

『ふふふ……リーちゃん。どうやら手配書は生きてたみたいね』

(そ、そんなことわかるもんか)

 ルーはやっと面白い事が見つかったかのように瞳をきらきらさせている。


「わたしの探索って?」

 ルーグは膝をついたままリセルを見上げた。

「驚かないで聞いて下さい」

(いや、あんたの出現で、もう十分驚きまくっているんだが)

 リセルはもはや何を聞いても知っても仕方ないと腹をくくった。


「何だい?」

「はい。実は、もう一週間前になりますが、王都の大神殿が地震に見舞われ、全壊してしまったんです。それで……その時に、お母上のリスティス=アーチビショップも巻き込まれて……犠牲に……」

「……」


 リセルは悲し気に俯くルーグを黙って見ていた。ルーグの膝の上に置かれた両手は握りしめられ小刻みに震えている。リセルはそっとその拳の上に自分の手を置いた。

「リセル様」

 リセルは首を振った。

 気持ち悪い。中身まで同じかわからないが、あのルーグの顔なのだから、そんな呼び方は止めて欲しい。


「わたしのことはただのリセルと呼んでくれ。わたしもルーグと呼ぶから。それから、ありがとう。母の事を教えてくれて。犠牲者は他にも沢山出たのだろう? あなたも無事で本当に良かった」


 ルーグの青灰色の瞳が心なしか潤んでいるような気がする。

 神殿騎士は突如右腕を目に当てて何度かごしごしと擦った。


「それは私の台詞だ。丁度リセル様……いや、リセル、あなたが護衛もつけず、「神の山」へ壁画の調査に行くと言われたその翌日に、地震が起きたのだから。そうだ。それで、リスティス様が亡くなられたので、私は王命であなたを迎えに来たのだ」

「迎え?」

「そう。あなたに、正式にアーチビショップ(大神官)になってもらうために」


 リセルは飛び上がった。じりじりと壁際まで後ずさる。


「まあ……リセルさんすごい! しかも、あのリスティス様の息子さんだったなんて」

 アルディシスが両手を合わせて感嘆した。

「断る! その話はもうなかったことにしたいんだ。断じてわたしはアーチビショップにはならない。いや、なれない!」

 ルーグが黒いマントを翻しながら立ち上がった。


「どういう心変わりか知らないが、あなたはいずれはリスティス様の後を継ぐ方だ。あなたもそれをわかって、神殿に来たんじゃないのか? 違うか?」

 ルーグの口調がリセルの知るそれと大分近くなってきた。

「……それは、そうだが……でも、わたしは……」

「神官達の口さがない噂を気にしているのか?」


 リセルは思わずぐいとルーグを睨み付けた。

 リセルはルーグの事を知らないが、ルーグは神官と神殿を護る『神殿騎士』として、さまざまなことを見聞きしているはずだ。勿論、リセルに関するいい事も悪い事も。

 リセルはルーグを睨みながらはっきりと言った。


「わたしは魔法使いだ。神官ではない。仕事も神をその魔力で喚ぶことしかできない。それでいいのなら神殿に戻る。そう、国王陛下に伝えてくれ」

 ルーグはにやりと微笑した。なぜそこで笑う。リセルはルーグの腹の中が読めず、さらに身を固くした。


「それでいいそうだ」

「……なに?」

 ルーグは白い式服の胸元を探り、赤い封蝋のついた一枚の封書を取り出した。

「デュミナス陛下の親書だ」


 リセルはルーグを睨み付けながら封書を受け取った。水平線から昇る日輪と獅子を組み合わせた紋章が封蝋に刻み付けられている。一応紋章だけは正真正銘、本物の王家のものだ。封筒の端を破り捨て、リセルは中に入っていた国王の手紙に目を通した。


「……」

「どうだ?」

 両腕を組んでルーグが訊ねる。

 リセルは深く溜息をついた。

 ルーにさんざんおどされていた『手配書』とは全く無縁の内容で、国王は母リスティスへのお悔やみと、リセルの無事を祈っていると綴っていた。そして無事ならば、年に一度のアルヴィーズ神の召喚だけ務めてくれれば、後は好きなようにしてもいいとあった。


 リセルは国王の手紙を持ったまま目を閉じた。

 アルヴィーズがここまで『なかったこと』にしてくれたことを、素直に喜ぶべきだろうか。そして、一度は放棄したリスティスの後継者としての人生を、考えるべきなのだろうか。


『リーちゃんがしたいようにすればいい。誰も、最初から正しい道を知っているわけじゃないもの。そして、その道が間違っていると思う事もおかしいわ。どんなことをしようと、大事なのはリーちゃんが自分で『選ぶ』こと』

(ルー……)

 リセルはそっと胸に手を当てた。

 思い返してみれば、一時の怒りがすべてのきっかけだった。自分にもっと分別があれば、今頃誰も傷つくことなく失う事なくすごせたと思う。


 ただ、あのままずるずるとリスティスの後継者に奉り上げられていたら、リセルは自分がいつか神殿から逃げ出すだろうとも思っていた。魔法使いである自分を偏見で見る神官達の視線が辛かったのは確かだし、母リスティスの苦労を知らないで、彼女の陰口を叩く彼等の存在は今も許したくない。

 けれど。

 リセルは唇を噛みしめ国王の親書を握りしめた。


 これが『やりなおし』だとは思いたくない。自分にはそんな恩恵を受ける資格などない。でも、この世界には自分を必要としてくれる人達がいて、他にそれを為すことができる人間がいないのだ。

 強制されるからやるんじゃない。今度は自分の意思で決めるのだ。

 リセルは俯いていた顔を上げた。肩に流れ落ちたセピア色の髪を払いのけ、光の加減によって淡い青にも深い青にも見える瞳でまっすぐルーグを見つめた。


「わかった。ルーグ、わたしは神殿に戻る。そして……」

 運命の歯車が軋みながら動き出す音が聞こえる。


「母の後を継ぐ。わたしには神を喚ぶ事しかまだできないが、少しでも多くのことを覚えて皆の役に立てるようになりたい。それでいいか?」

 ルーグは黙ったまま頭を垂れた。

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