幕間:不協和音
レムリス子爵家の雰囲気は最悪と言って良いだろう。
つい先日までヴァトラス王国屈指の大貴族であったのが現在は子爵家、しかも領地の大部分を王族に召し上げられてしまったのだ。かろうじて領都はレムリス家のもとに残ったのだが、穀倉地帯、交通の要所を王族に持っていかれたのだから影響が無いはずはない。しかも悪い方向にしか影響はない。
そのようなレムリス家に対して救いの手を差し伸べる貴族はいない。口角と領地の大部分の召し上げの理由が王族であるアルトとベアトリスの殺害未遂によるものであるとは公表はされていない。
だが、公表されていないことが余計に憶測を呼び、レムリス家に近付く事は王の不興を買う可能性が高い以上、レムリス家と関係を持とうという家は皆無であった。
嫡男のルークレイグが婚約者のエルザに婚約破棄を突きつけられたのはその例の一つにすぎない。
「エメトス様、領都の治安の悪化が……」
「わかっている」
レムリス子爵家の当主であるエメトスのもとに届けられる報告にエメトスのこころをかるくするものは皆無であった。
現在の領都エグノワスの賑わいはかつてのものに比べればまったく振るわなくなっている。店先に溢れていた品物はガラガラでありを閉める者が続出していた。交通の要所を押さえられ、ほとんどの貴族に縁切りをされたレムリス家に近付こうという奇特な商人はほとんどいないために慢性的に品不足となっているのだ。
賑わいが失われた場所からは品物が消え、品不足から物価が上がりそれが家計を直撃する。この流れを止めることは現在のレムリス家の力では不可能であったのだ。
経済の停滞は人々の心から余裕を失わせ、それがエグノワスを荒廃させていくことになったのである。
「お父様、どういうことですか!!」
そこに娘のフレデリカが執務室のドアを開け放ちエメトスに詰め寄った。
「今は仕事中だ!!」
上手くいかない領地経営に苛立っていたエメトスは反射的にフレデリカを怒鳴りつけた。
フレデリカはビクリとした表情を浮かべたが自分が何を父に伝えに来たかを思いだし、エメトスに向かって言う。
「私の婚約の件です」
「……その事か。つい先日、アークロッグ侯から直々に婚約を見直すという通達があった」「……通達」
エメトスの“通達”という言葉にフレデリカは愕然とした表情を浮かべた。通達とは通常、上の身分の者が下の身分に告げる時などに使われる言葉だ。父エメトスがアークロック侯から通達があったと言った。それはアークロック侯がレメトス家よりも格上である事を示していたのだ。
もちろんフレデリカも頭ではアークロック家は侯爵、レメトス家は子爵家であり家格の面で大きな差があるのは頭では分かっている。だが、つい先日まで侯爵令嬢として周囲の者にちやほやされていた事を考えると納得は出来ないというのが正直な所である。
フレデリカは先日まで王都にある貴族の学校に通っていたのだが、レムリス家が子爵家になった事で学校を退学させられており領地に戻されていたのである。
「お父様は情けなくないのですか!! このような屈辱になぜ私は耐えなければならないのですか!!」
フレデリカの芽から涙が溢れ出す。フレデリカにしてみれば自分の知らぬ所で両親がレムリス家を没落させたという思いしかない。自分の責任の及ばぬ所で起こった不利益を受けねばならぬ事に対してどうしてもフレデリカは納得出来なかったのだ。
ヴェルがフレデリカの心情を知れば皮肉気な笑みを浮かべるのは間違いないだろう。ヴェル自身、レムリス家一同に自分の責任でないことを理由に虐待を受けていたのだから。
「黙れ!! お前に何がわかる!!」
エメトスの怒りを孕んだ声にまたもフレデリカはビクリとする。だが、フレデリカはここで引くような事はしなかった。
「お父様はどうして国王陛下へ反論しなかったのですか!! 王がそれほどまでに恐ろしいのですか!!」
「黙らぬか!!」
バシィィィィ!!
エメトスは立ち上がるとフレデリカの頬を激しく打った。拳ではなく掌で打ったのはエメトスの最後の自制心であったのかもしれない。
叩かれたフレデリカは呆然とした表情を浮かべていたが自分が父親にぶたれた事に対して大きなショックを受けていたのだ。
(お父様に叩かれるのは
フレデリカの考えるあの女とはもちろんヴェルのことである。フレデリカにとってエメトスに手を上げられるというのは見下していたヴェルと同レベルに落ちた事であり到底耐えられるものではなかった。
「お嬢様!!」
端で見ていた執事は驚きつつフレデリカを介抱しようとして近寄ったが歩みを止めた。フレデリカの目に見たことの無い光が宿っていたからだ。執事にとってその目の光がいかに危険なものであるか知っていたのだ。
“憎悪”
陳腐な表現かも知れないがそれこそが最も相応しい表現であろう。そしてフレデリカのその憎悪の向かう先は父エメトスであった。
(もうレムリス家は駄目かも知れないな)
執事は父と娘の間に満ちる空気を感じると即座にそう思う。
そしてそれが正しい事を確信していた。
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