第50-C話 Fennec
左足に力を込める。
ぴく・・・ぴく・・・
少し、希望が見える。ヒトの体の仕組みはよく分からないがフレンズだからということだろうか、ほんの少しだけ回復している。
「・・・もう、今日かぁ」
いつものようにコーヒーを啜りながらパソコンを弄るアルトさんの背中を見つめる。何やらイライラしているようだ。
「はーっ、会議とか本当しんど」
そうだ、今日はアルトさんが会議に行く日。そして、私がついに脱走を図る日でもある。今日で忌々しいこの男ともおさらばというわけだ。
「・・・何こっち見てやがる?」
液晶に映ってしまったのか、険しい顔でこちらを振り向くアルトさん。どうやら私がずっと後ろに立って考え事するのも気に食わないらしい。
「いや、見てないですよ?何かお手伝いしますか?」
「チッ、コーヒー淹れてから部屋にでも戻ってろ・・・気に触る」
「はーい、ただいま」
「砂糖アリだ」
毎朝ガリガリと挽いているコーヒー豆を袋から取り出す。これでこの作業も最後だ、とお湯を注ぎ、滴る黒っぽい液体を眺める。
砂糖の入れ物の蓋に手を当てた時、ふと思いつく。
最後くらい、ちょっぴり反抗してやろうか。
自分がにやけていることに気がついた時には、砂糖の代わりに塩をマグカップに落としていた。
くるくるとスプーンでかき混ぜながら運び、パソコンの横に置いて、部屋を出る。
自室に戻った私は、脱走の時間に目覚ましをセットして仮眠を取ることにした。夜通し逃げることを想定して、寝溜めした方が良いと思ったのだ。それに他にすることもない。
「・・・アライグマさんは今頃どうしてるかなー」
彼女の顔を思い出すと、ドキドキする。
この感情、恋と呼ぶらしい。女の子同士だけど、それでもいい。現にツチノコさんとトキさんの例もある。二人は愛し合っている。
「まぁ、叶わぬ恋だけど」
そう言って瞼を閉じる。
「おや・・・?」
またか。正直忘れていた、夢の中の世界。ビルの屋上。
金属製の網から上半身を乗り出し、下を見下ろす。いつか私が望んで飛び降り、いつかもう一人の私が飛び降りた場所。
・・・下に、赤色の何かがぶちまけられているのが見えた。ついでに見える、二つの人影。正確には自分。
「もう、そんなに私弱くないです」
ポツリとつぶやくと、カシャンという音がどこからが聞こえてくる。不思議に思い周りを見渡すと、今まであったのか無かったのか覚えていないような金属製の扉が目に入る。中央にはめられた窓ガラスから強い光が漏れているのが見える。
丸いドアノブに手をかける。どうやら空いているらしい。
力を込め、ぐりっと回す。そのまま、手を前に突き出す。強い光が、より強くなり私を包む。視界が真っ白だ、何も見えない。
それでも、今までよりずっとマシだ。
何かが動くような、ほんの僅かな音で目が覚めた。
私は耳が良く、ほんの小さな音も敏感に感じ取ってしまうため眠りが浅い。
「そろそろ、かな」
時計を見ると目覚ましをかけた時刻の二十分前、二時半。体を起こして、大きく背伸びをする。そうすることで目が覚めるのだ。
脱走への準備・・・と言っても、計画の確認ぐらいだが。を、済ませた後に一階へ降りる。
丁度、アルトさんが家を出ようとしていたところだった。それはそうだ、三時から会議なのだからそろそろ出なくてはいけないのだろう。
「仕事行ってくる。夜遅くなるから勝手に寝てろ」
「はい、頑張ってください」
もうこの愛想笑いも最後、なんて思った矢先。
「・・・お前、さっきのコーヒー塩入れたろ?」
「・・・ごめんなさい、砂糖入れたと思いますけど・・・」
「言い訳は要らん、丁度いいイライラしてたんだ」
玄関を開けて、外に出る体制でいた彼が扉を閉めてこっちに戻ってくる。ずんずんと歩を進める。対して私は後ずさり。
ああ、結局最後までこうなのか。
頬を強く打たれる。一回だけじゃない、二回、三回、まだまだ続く。
「ふー・・・行ってくる」
今、私はどんな顔になっているだろう。真っ赤だろうか、真っ青だろうか。とても痛い。ズキズキと、顔の内側から激しく揺れるような痛みが襲ってくる。
アルトさんが出ていって、扉が閉まる。そして鍵をかけられる。戻ってきた時に鍵が開いていればすぐにばれるだろう。
「でも、私はやって見せますから・・・」
頬を押さえながら、私は決心を口にした。
扉を開ける。まだ二月なのに、春の暖かい風が頬を撫でて、髪を揺らす。
「さようなら、可哀想な私」
呟いて、家を飛び出した。
既に慣れた片足での移動。左足は杖のように使い、ぐいぐいと体を前に押し出すようにして進む。
まだ頬はひりひりしている。でも痛みで泣いてる暇なんてない、いち早く逃げて、あの男から解放されなくては。
「今が三時過ぎ、六時間以内にこの足でどこまで行けるかな?」
目標は、ここからずっと西の川を越えた先にある山。そこに隠れてしまえば、もう見つかりっこないはずだ。
そうやって、しばらく・・・2、3時間くらい?歩いていた時。
チャリチャリという自転車を走らせる音。顔を上げて、音のする方を向くと男性が自転車に乗っている。思わず目を見開いてしまった。
自動車が不向きな、狭いパークの都市部では主流の乗り物なので特別おかしい事でもない。
しかし、乗っている男が問題だった。
見慣れた整った顔立ち。さっきまで私の頬を打っていたヒト。
咄嗟に身を隠す。おかしい、こんな時間に帰ってくるなんて。
体力を温存するため控えていたが、仕方ない。彼が通り過ぎるのを見送ってから、私は全力で、けんけん足での逃走を開始した。
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