第49話 初めての。

 バレンタインから数日後の朝。

 朝日が桃色のカーテンを透かし、トキとツチノコ、二人の顔を照らし、それで目を覚ます。


「んん・・・おはようございます」


 トキは目を薄く開け、そう言うが返事はない。隣を見るとまだ起きる気配を見せないツチノコ。その様子に少しがっかりして、トキは立ち上がる。


「私は準備しないと」


 そう呟いて、髪を手ぐしで整えながら洗面所に向かう。

 ふと、手に違和感が。どことなく、髪がベタついている。不思議に思って手のひらを見つめる。そして、驚く。


「・・・えっ?」


 手のひらが黒くなっている。まるで、手形をとったあとのように。黒くてベタベタしたものがくっついている。

 駆け足で洗面所の扉を開けて鏡を覗き込む。



 映ったのは黒髪の少女。



「な、なにこれ・・・?」


 トキ自身でわかる異変はない。ただただ、鏡に映る自分は自分でないようで、悲しい気持ちが湧いてくる。


「どうした?ふぁぁ・・・」


 ツチノコが起きたようで、あくび混じりにトキに語りかける。

 顔を合わせようとトキは洗面所を飛び出す。ツチノコもやはりその髪に気がついたようで驚いた顔をしている。


「トキ、お前それ・・・」


「私、どうしちゃったんでしょう・・・?」


 よろよろとツチノコに近づく。


「もう、真っ黒じゃんか」


 懇願するように彼女の手に触れる。


「トキ・・・」


 ツチノコはその手を優しく握り返す。


 その手の温もりを感じた時。また心臓がドクンと音を立てる。桜の下の一件から、ときどきこうしてツチノコと目を合わせた時に起こる発作のような症状。


 どんどん鼓動が早くなる。体が熱くなる。息が荒くなる。ツチノコ以外のものがぼやける。頭の中の理性の文字が薄くなる。


「痛いところ・・・とかは?気持ち悪いとか・・・」


 ツチノコの心配する声がうっすらと聞こえる。でも耳を掠めるだけで頭に入ってこない。


 気がついたら。


 また気がついたら、ツチノコの唇を奪っていた。戸惑った顔の彼女がものすごく近い。

 ただ、チュッと短いキスじゃない。

 ぎゅっと唇を押し付けて、相手の感触をその小さな面積の中に感じる。


 やがて、ツチノコもトキに身を委ねる。目を閉じて強引な彼女を受け入れ、背中に手を回す。


 三分ぐらいたったろうか。


 トキの方からゆっくりと顔を離して恍惚とした表情でツチノコを見つめる。


「今朝は激しいな?」


 照れ笑いをしながら、声をかけるツチノコ。しかし、やがてトキの様子が髪の他にもおかしいことに気がつく。


「トキ?」


 呼びかけにも応えない。目をぱっちりと開けずに、ハァハァと聞こえるほど荒く呼吸をするトキ。


「どうした!?どこか悪いのか!?」


 トキはふるふると首を横に振るが、ツチノコが顔を覗くと顔を逸らしてしまう。


「ナウのところでも行くか?ほら、肩貸すから、明らかにお前無理してるよな?」


「いえ・・・いいんです、大丈夫ですよ。ごめんなさい、急にしたりして」


「本当に?今日のやめた方がいいんじゃないか?」


「ええ、大丈夫です!ツチノコから元気貰いましたし、早く準備して私行ってきますね」


「それならいいんだが・・・」


 見たところトキにもう異常はない。いつも通りの明るく元気な彼女だ。ただ、髪は黒いが。


「・・・なんだったんだろ」


 ツチノコはもう髪が黒くなる理由も知っている。故に、どちらかというと髪よりもさっきの変な様子のトキの方が心配だった。


「ま、大丈夫だろ」


 洗面所に引き返す彼女を横目に、ツチノコはそう呟いた。





「じゃあ、行ってきますね」


「ん、行ってらっしゃい。暑いから気をつけろよ」


「大丈夫ですよ〜、では!」


 トキはそう言って扉を閉め、空に飛び立つ。

 今日は、パークパトロールの方で会議がある。議題は「より効率の良い空からのパトロール法」である。つまり、翼を持つフレンズしか参加しないのだ。それでツチノコは留守番である。


「・・・ちょっと痛いですね」


 左手の甲を見ながらポツリと呟く。

 最近、ツチノコを目の前に我慢するためしょっちゅう左手を引っ掻く。その為、フレンズの回復力のおかげですぐ治るものの傷が常についている。

 特に、先程も強く引っ掻いてしまったのでそれがヒリヒリと痛む。


「まぁ、仕方ないですね・・・ツチノコのことキズ付けたくないですし」


 はぁ、とため息をひとつついて、思考を切り替える。


「さ、事務所事務所!お仕事です!」


 とは言っても、そう簡単に切り替わりはしなかったが。





「枝渡しは繁殖期に入る前の求愛行動・・・?ってことは、まだナウとかが言ってた繁殖期ってやつじゃなかったのか?」


 留守番のツチノコは、図書館から借りてきている鳥類図鑑の朱鷺のページを開いていた。枝渡しという文字列を見て、初めてキスをした時にトキが渡してくれた小枝を思い出す。今でもパーカーのポケットに入れている。


「繁殖期の朱鷺の写真がこれ・・・これ!?」


 本に掲載されているのは、他のページの朱鷺とは違う鳥のように黒くなった朱鷺。それと朝のトキの様子を重ねる。


「じゃあ、ついに繁殖期になったってことか?結局、何もしてやれないのか」


 はぁー、と深いため息をついて天井を見る。どうもしてあげられなかった。見たところそれによって体調が悪いとかでは無さそうだが髪が黒くなった自分を見てどうしてしまったのかと悲しんでいた彼女を思い出すと、どうにかしてあげられなかったかと思う。


 そんな時、インターホンが鳴る。


 いつかに留守番した時もそうだった、普段来客なんてないのに一人の時だけ来る。


「誰だろう」


 そう言って玄関に向かう。やはり緊張するが、扉を思い切って開けた。





 またここに来てしまった。正直迷惑はかけたくないからあまり来るつもりはなかったのだが、一応報告はしておこうと思った。そんなことを考えていると扉が開く。


「はーい・・・なんだ、フェネック?」


「どうも、ツチノコさん。トキさんは?」


「いや・・・今日もタイミング悪く居ない。まぁ、上がれよ」


「すいません・・・お邪魔します」


 そう言って、上がらせてもらう。


 二回目の部屋。前回来た時はツチノコさんに色んなことを教えたという記憶がある。少々性的な話題だった。


「ところでツチノコさん・・・トキさんとはどうです?結局LIKEなのかLOVEなのかハッキリしました?」


 勧められた座布団に座りながら問いかけると、ツチノコさんはビクッと身を震わせて顔を赤くした。


「ははぁ、その反応はLOVEの方ですね?」


「・・・」


 ツチノコさんは口に出さないが、尻尾を揺らしながら顔をより赤くしている。もう、確定だ。


「どうしたんですかぁ?告白とかしたんですか?どこまでいきました?」


「・・・・・・きす・・・」


 んん?私の耳どうかしたかな?大きくてよく聞こえる自慢の耳なんだけど、今ツチノコさんキスって言った?もうそこまでいったの?


「き、キスですか?」


 ツチノコは頷く。


「そ、そうですか・・・頑張りましたね?」


「トキがしたいって・・・」


(両想いじゃないですか)

「・・・やめましょう、お二人の事情に首突っ込むのはやめにします。フレンズパス取得試験であった時にはこんな話するようになるとは思いませんでしたよ」


「ほんとだな。で、今日は何しに来たんだ?私のことおちょくるだけじゃないだろ?」


 そうでした。今日はもっと真面目な話をしに来たのだ。


「こほん・・・本題に入りましょう」


 すぅ、と息を吸う。リラックスするためだ。ツチノコさんが真面目に聞き入ってくれているのがわかる。


「私ですね、ついに脱走すること決めたんですよ。それも、明日」


「・・・本当にするのか?」


「ええ、ちゃんと計画を練りました。私はもうあんな人から解放されて、自由に生きます」


「そうか・・・力になれないけど応援してるぞ」


「ありがとうございます。無事に終わったら、またお話しましょう。ごめんなさい、時間が無いので私はもう戻りますね。おじゃましました」


 そう言って立ち上がり、玄関に向かう。


「もし何かあればここに来いよ。トキも私も歓迎する」


「ふふ、ありがとうございます。多分来ませんけどね?」


 玄関先で、別れを告げて外に出る。ツチノコさんが扉を閉めようとした時、ふと思いついたので話しかける。


「エッチとか、頑張ってくださいね?」


 バタン。

 扉がしまった。ちゃんと聞こえただろうか。


「ま、大丈夫かな」


 もう慣れてしまったけんけん足で、家に向かって歩き出した。





「しないわ!!」


 フェネックが別れ際に言ったあの言葉に、変なことを意識させられる。


「全く・・・フェネックも変なことを言うな」


 ブツブツ言いながら図鑑に戻る。


「繁殖期か・・・やっぱりその、エッチなのしたくなったりするのかな・・・?」


 自分で言って恥ずかしくなる。紛らわそうと、ベッドに転がる。


「・・・興味がないでもない」


 ボソリと、自分でも聞こえないくらいに呟いた。




 夕暮れ時のパークパトロール事務所。


「以上、会議おっしまぁい!かいさぁん!」


 空パトロール会議は思いのほか長引いた。そもそもカグヤとエジプトガン、トキの三人だけなのでにカグヤ以外はまだまだ経験の浅い二人だから会議と言うよりはカグヤによる空のパトロール法講座だった。


「お疲れ様です」


「お疲れ」


「お疲れ様ぁ」


 カグヤはニコニコと手を振って事務所を出ていってしまった。なんでも用事があるそうだ。

 結果的に、トキとエジプトガンが残される。


「トキもパトロールっぽくなったな」


「ええ、少しは慣れてきたかな〜って」


「私はもっと慣れるの遅かったな・・・不器用なもんで」


「そうなんですか?エジプトガンってそういう動物なんです?」


「いや、詳しくは知らないけど・・・ところで、その髪が黒いのは朱鷺の習性なんだろう?どんな習性なんだ」


「あはは、実は私もよくわからなくて・・・」


「みんなそんなものか、よし、私はパトロールしてくる。またな」


「はーい!では!」


 そう言ってエジプトガンも事務所から出ていく。それを見送り、トキも出ようかと思った時、ふと喉に渇きを覚える。

 水道で水を飲もうかと、そちらを向くと、見慣れない、文字の書かれたダンボール箱があるのに気がつく。


「何でしょうこれ?『差し入れです ご自由にお飲み下さい』?ジュースとかでしょうか?」


 封のされていない蓋を開けると中に缶が並んでいた。一本取り出してみると桃のイラストが描かれたラベルが貼り付けてあった。


「飲んでいいんでしょうか・・・でも数本無くなってるし大丈夫ですかね?」


 あんまりに喉が渇くので、ご自由にお飲み下さいの字に甘えて缶のプルタブを上げて穴を開ける。プシュ、という炭酸の抜ける音がして、桃の香りが漂ってくる。


「いただきます」


 グイッとそれを口に流し込む。炭酸もあまり強くないようで、ごくごくと一缶容易に飲み干した。


「美味しいですねこれ・・・独特の風味とかが」


 缶を丁寧に処理し、事務所を後にする。


「なんだかクラクラします・・・またいつものアレですかね?ツチノコ居ないのに・・・」


 何事も無かったかのように家まで戻る。実際、トキは何事も無かったと思っていた。

 大したことではない。ただ、缶に書かれた「チューハイ」の文字を見落としていただけだ。





 ツチノコは、夕日に照らされて目を覚ました。いつの間にかベットの上で寝てしまったことに気が付き、むくりと起き上がる。


「んん・・・もうこんな時間帯か」


 気候は既に春だが、まだ二月下旬なので暗くなるのは早い。起きた後なので背伸びなどをしながら立ち上がると、ガチャリと鍵が開き、扉の開く音がした。


「お、おかえり・・・」


 返事がない。ただただ、扉の閉まる音だけが聞こえる。


「トキ?」


 心配になって玄関を覗くと、そこには彼女の姿があった。


「なんだ、返事くらいしてくれよ」


 それに対しても返事がない。

 ツチノコは眉をひそめて彼女を見続けていると、様子がおかしいことに気がつく。いつもは丁寧に揃えている靴を乱雑に脱ぎ散らかし、歩き方もスタスタという感じではなく、ゆらりゆらりとゆっくり近づいてくる。一歩一歩踏み出すリズムもまばらだ。


「トキ・・・?」


 うつむいて、顔を合わせずに歩くトキははっきり言って不気味だった。髪が黒く染まっているのも相まって、ツチノコも近づいてくるトキからじりじりと距離をとる。


「ど、どうしたんだよ・・・なんだか怖いぞ?」


 やっぱり返事はない。

 ツチノコも今まで冗談かもしれないと思ってぎこちない笑みを浮かべながら対応していたが、それも出来なくなってきた。


「な、なんか言えよ・・・な? ・・・うわっ!?」


 少しずつ後ずさりしていたツチノコは、後ろのベッドに気が付かずに後退してしまって思い切り後ろから倒れ込む。ぼすっ、という柔らかい感触に受け止められて平気ではあるが、トキがその間にも近づいてくる。

 トキのことは言うまでもなく好きだが、今目の前にいる彼女には自分でもよくわからない恐怖を感じていた。



 ぼすっ。ぼすっ。



 仰向けに倒れたツチノコの顔の横、左右に一本づつトキの腕がベッドに刺さるかのように配置される。左に見えた手の甲には、数えきれない程の引っ掻き傷があった。しかも、ついさっき付けられたような痛々しいものだ。


 そして・・・目の前にはとろんとした目で息を荒くするトキの顔。


「ごめんなさいツチノコ・・・私、頑張ったんです・・・頑張って我慢しようとしたんですけど、もう限界です・・・」


「トキ・・・」


 ツチノコは妙に納得する。

 トキは、とうに繁殖期を迎えていて。

 自分のことを思って、自身を傷付けてまで我慢してくれていた。

 でも・・・彼女の言う通り、もう限界なのだ。

 抑えるというものは、いつか抑えきれなくなる。そんなものだ。


「トキ、ごめん。私がもっと早く気がついてあげられたら、こんな痛い思いさせなくて済んだのにな・・・」


 返事がない。

 が、もう目の前にいる彼女に対する恐怖は微塵も無くなっていた。


 受け入れる。それが一番の解決策。ツチノコもそれを拒もうなんて一切考えはしなかった。


 薄暗い部屋の中。一瞬、夕日が部屋に入り込んでトキの赤くなった顔を照らす。


「私・・・わたし」


 トキがポツポツと呟く。そうしている間にも呼吸はより荒く、顔は苦しそうになっていく。


「・・・私は、大丈夫だから」


 そうツチノコが声を掛けた瞬間。

 トキと唇が重なる。

 ベッドの上、押し倒された姿勢のまま、ツチノコが下でトキ上になり接吻を交わす。


 いつもならそこまで。


 今日は違う。


 トキの顔が、斜めにずれてより近くなる。

 閉じていた唇が開いて、お互いの吐息を交換し合う。

 やがて、舌がねっとりした液体の絡んだ柔らかいものに触れる。それを舐めあって、絡めあって、相手の味を感じる。


 しばらく、静かな部屋の中にぴちゃぴちゃというなまめかしい水音が響き、それがやんで一旦トキから口を離す。離した口からは透明な、二人のそれが混ぜ合わされた糸が引いている。


「美味しい、です・・・」


 一般的に、ファーストキスはレモンの味がするらしい。初めてのディープキスは、どんな味と言われているかは知らないが、ツチノコの初めての味は桃の甘い味がした。


「もっと・・・もっとツチノコのこと感じたい・・・」


「・・・私も、トキのこと・・・」


 日が沈んで、部屋が暗くなる。


 暗闇の中で、チャックを動かす音とボタンを外す音が交わる。


 そして・・・その夜は、お互いを激しく愛し合う、チョコレートよりも甘く酒よりも刺激的な夜になった。

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