第五章

第五章-1

第五章



 昼休み、食堂に行くとひよりが学科の友人と一緒に昼食をとっていた。その中のおさげの女が「前田ァ」と声を上げた。フィールドワークに参加した一人だった。その声でひよりは振り返った。

 おさげに手招きされて、前田はその輪に加わった。ひよりとおさげを含め、五人中四人が顔見知りだった。まだ知らないパッツン髪の女に、周りの人間が前田を紹介する。

「民俗学の課題で分からないことがあったら、前田に聞けばいいから」とおさげが言うと、金色の髪をツンツンに立てた女が「エロい話しか出てこないからだめだろ」と笑った。

「エロい話じゃねえ、エロい研究だ」と前田が反論すると「変わんねえよ」とみんなは笑った。

 ひよりは笑ってはいるがどこか遠慮がちに目を伏せている。それはひよりの癖らしかった。その、どこか不安げな態度に、前田はいつも暗い気持ちになる。

 みんなの話題は金髪頭のサークルのことだった。映画研究会に、変な後輩がいるのだと金髪は言った。その後輩の話を聞いて、みんなは自分のところにも変な先輩後輩がいると話し出す。フェミニン系の女は空気の読めない女の先輩がいると話し、パッツン髪の女はバイト先の後輩が使えないと嘆く。

 おさげは、自分のサークルは平和だと言って、フェミニンと金髪に「今のサークルやめて演劇来ない?」と笑う。いやだという金髪に抱きついて、おさげは「演劇、演劇」と言い続ける。

 前田はふと気になって、みんなサークルに入っているのかと尋ねた。金髪は映画、おさげは演劇、フェミニンはテニスでパッツンはバイト三昧だと答えた。

「前田もバイト三昧だよな」と金髪が言うと、パッツンは前田の方に手を差し出して「同志」と言う。前田はそれに便乗して「世の中金っスよね」と差し出された手を握る。

「やだこの女子大生」とおさげが呆れたように言って笑った。

「ひよりはサークルやんないの?」前田は、ひよりが嫌がるのを分かっていてあえて質問を振った。ひよりは困ったように笑って「私はあんまり」と言う。

「合唱サークルあったら入りたいって言ってたよね。他の学校はなかったの?」おさげが言った。前田には初耳だった。

 ひよりは、探してみたが面白そうなところはみんな遠かったのだと話した。

 前田は顔には出さずに訝る。すぐ近くの緑山学院大なら、それなりのレベルで、他大生を受け入れているサークルがいくつもある。

「面白いところかぁ」とおさげがため息をつく。演劇サークルも、うちの大学は微妙なのだとおさげは言った。

「その分好き勝手にできるんだけどさ。他の学校だと時間のロスがなぁ」

 真面目ねぇ、とフェミニンが言った。

 次の授業は校舎が遠いからと言って金髪が立ち上がったのをきっかけに、六人はそれぞれの教室に向かった。前田は次の時間は休みだったが、自分もこっちだと言ってひよりについていった。

「緑山って、合唱サークルないの?」と前田は聞いた。ひよりは気まずそうな笑みをつくり、「本当は調べてないんだ。わざわざ他の学校行かなくてもいいかなと思って」

 ひよりの言葉に前田は顔をしかめた。

「やりたいんなら、やればよくない?」

 二人は校舎の前まで来ていた。ひよりは立ち止まって前田を振り返った。

「みんながみんな、やりたいことやってるわけじゃないから」

 そう言うひよりの笑顔が引きつっていた。

 それはそうだけど、と前田は言ってから「でも、できない理由はないっしょ?」と首を傾げる。

 ひよりの顔が歪んだ。ひよりは無理やりこわばった笑いを作り直して、「そうだね、ないね」と言って、ふいと顔を背け、「私三階だから、ここで」と言って、エスカレーターを上がって行った。前田は呆然としてその後ろ姿を見送った。

「なに、私なんかひどいこと言った?」校舎の前で、前田は一人呟いた。



 校舎の二階のベランダにある喫煙所に出て、前田は煙草に火をつけた。煙草の味など気にしないのだが、このときはやたらと不味かった。自分の気持ちを見透かされたのだろうかと思い、その考えがナンセンスだというように前田は苦笑し、煙を吐いた。ひよりの態度に苛立っている自分がいた。だから、質問も口調もきつくなった。他の人ならなんでもないが、ひよりは嫌がる、それを分かってあえて言った。そういう自分を卑怯だと思ったが、悪いとは思っていなかった。

 ずっと、ひよりの態度に苛立っていた。今更のように前田はそのことをはっきりと自覚する。やるだけやって、それが叶わず絶望し、卑屈になるならそれもよい。だがいくらでも手はあるのに、それをやり尽くさずに自分を卑下する人間には腹が立った。動かないなら受け入れろと前田は思った。

 柵にもたれ、空を見上げて息を吐き、押しつけだな、と胸の中で呟く。そんなものは好みでしかない。それをひよりに押しつける権利などない。

 それでも、前田は思ってしまうのだった。

 好きにすればいいじゃないかと。できないわけではないのに、耐えるように羨むように卑屈に生きる。そういう生き方を見ると苛々した。だが同時に、好きに動いてそれを後悔する人間も嫌いだった。自分の考えは矛盾しているのだろうか。

 前田は煙草を灰皿に押し込むと、校舎を降りて中央分離帯に向かった。頭を冷やしたかった。

 平日の昼過ぎ、歩道から車も人もない都道四十七号線を眺め、それから車道を渡って中央分離帯の上に立ち、空を仰いだ。

 金も身体も自由がきくのに、耐えて妬んで卑屈に生きる、それは父の生き方だった。自分で選んで自分で進んでそれを悔やんで嘆く、それは母の生き方だった。

 前田は、道路と視線が平行になるように立ち、過ぎ去る車と向かって来る車を見つめる。前田はずっと止まっているのに視界はめまぐるしく動いていた。その感覚が好きだった。大型トラックが通り過ぎると足元が揺れた。

 中三の受験勉強のさなか、祖母が死んだ頃から前田は中央分離帯に立って物思いにふけるようになった。はじめは深夜に家を抜け出して、車の通らない車道を走った。遠くに逃げたかった。それを繰り返すうちに、ふとどこにも行けないという思いが、悲嘆でも絶望でもなく、ぽっかりとした空虚感と共に湧き上がってきたのだった。その感覚を抱えながら、車道の真ん中に立ち止まった。車は来なかった。

 その感覚が何だったのか、今の前田は思い出せない。前田は家を出て、逃げることができたはずだが、道路に立つ癖は抜けなかった。

 煙草を吸う気にもなれず、前田はただぼうっと向かって来る車を見つめていた。ひよりに謝るべきかと思い、携帯電話を取り出すと、頼子からメールが入っていた。

 今日の夕方、西野が路上ライブをしているはずだから、よかったら見に行ってくれという内容だった。珍しいなと思う。以前は頼子からこういうメールが来ることも多かったが、最近は西野や紗枝と直接連絡を取り合っていたので、頼子が間に入ることはなくなっていた。前田は、ライブのあとの西野を思い出す。あのあと、西野は腹を立てて帰ってしまったと紗枝は言った。頼子のメールは、西野の様子を見てくれという意味だろうかと考え、前田は苦笑する。それからふと、自分が頼子の中絶のことを明らかにしたかったのは、ひよりに聞かせたかったからかもしれないと思った。頼子だって黒いものを抱えている、それを綺麗に覆い隠して生きている。卑屈になるな、羨むほどのものじゃない、そう言いたかったのかもしれない。ひよりがそれをどう受け取ったのかは分からない。

 前田は手持ち無沙汰になって、結局煙草をくわえて火をつけた。煙草は、やっぱり不味かった。

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ゆらめく中央分離帯(原稿用紙304枚) Umehara @akeri

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