第四章-6


 朝起きたら目が腫れていたが、シャワーを浴びて目を冷やしたらそれほど気にならなくなった。朝食を食べようと食堂に行くと、珍しく院生が先にいた。

「早いっすね」と言うと、院生は大学の講師のバイトが一限からなのだと答えた。お疲れ様です、と言うと、「本当は論文書かなきゃなんだけど、稼がないとねぇ」と言って苦笑する。

「学校も生活もタダじゃないっスからねぇ」と前田は言った。テレビをつけると、介護を苦に五十代の娘が九十の父親を殺したというニュースが流れている。

「人ごとじゃないわ」と院生は苦笑する。

「ご両親、おいくつでしたっけ」と前田が訊くと、院生は「父は早く死んだけどね、母はもう七十。ずっと農業やってたから足腰がねぇ。まだ大丈夫そうだけど、私兄弟いないから」とため息をつく。

 社会人になってから大学院に入り直した人だった。貯金はとっくに尽きたと以前話していた。

「うち、祖父母は結構ぽっくり逝ったんですけど、こういうニュース見ると、有難かったかもと思っちゃいますよね」と前田が言う。

「ほんとねえ。私は、要介護になる前に適当なところで死にたいわ」院生が言った。

 


 一時限目の授業は民俗学科の授業だったが、他学部の学生も受講できる。その他学部の学生の中に頼子がいた。教室に入るとすでに頼子が座っていた。前田は「おはよう」と言って隣に座った。

 頼子はいつも通りの笑顔でおはようと言う。

「ライブすっごいよかったよ。曲も自作でしょ。CD出たら普通に買うわ」テンションの高い前田の話に、頼子は落ち着いた様子で「ありがとう」と言い、静かな声で「誰かから聞いた? カマかけただけ?」と言った。顔はまだ穏やかな笑みを湛えているが、目が笑っていなかった。

 予想以上に直球な問いに、前田は少し驚き、それから苦笑いを浮かべる。

「紗枝っちから聞いちゃった?」

「日曜の朝にわざわざ電話してきた。なっちゃんが知ってたよって」

 頼子は紗枝とのやりとりを思い出したのか、かすかに笑ってから前田の顔を見た。

「なっちゃんこそ、紗枝ちゃんから色々聞いちゃった?」

 頼子は、困った人だというように前田を見る。

 動揺した様子を見せない頼子に、前田は、やっぱり頼子だ、と納得する。

 教員がやってきて、講義が始まった。前田は小声で「ごめん、カマかけただけでした」と打ち明け、ネタ元を明かす。

「清南女子で、三木さんの一個下の子が多摩川にいるんだ。そいつが知ってたのは、三木さんの学年に留年した子がいるってことだけ」

「それだけ?」

 頼子は不思議そうな顔をする。

「三木さん、浪人時代のこと話さないから。清南女子から多摩川で浪人って、よっぽどじゃん。仮に留年だとしたら、三木さんはそれを隠してるわけでしょ。隠すような理由っていったら、それぐらいかと」

 頼子は呆れたように「それだけで」と言って「なっちゃんらしいなぁ」と苦笑する。

 前田が頼子の堕胎を連想したのには、もう一つ理由があった。フィールドワークの前後、前田の話す間引きや水子の歴史を、頼子は興味津々で聞いていた。頼子自身は気付いているだろうか。

 七つまでは神のうちという言葉がある。小さい子は、死んでも生まれ変わると考えられ、一人前の死者として扱われず、一族の墓に入れられなかった。フィールドワークの前、そんなことを頼子と話した。

 うんちくを披露する前田に頼子は、小さい子は死んでも仕方ないと思われていたのかと尋ねる。

「そう解釈してたんだけどね」と前田は困ったように言う。

 幼子が死者扱いされないのも間引きも、子供の命が軽視されていたことの表れで、小さい子供が死んでも親たちは今ほど嘆かなかったのだと考えていた。

「でもねぇ、間引きは、よくあったって説と、飢饉などの緊急事態にやむを得ず行われたって説があるのよ。七つまでっていうのも、乳幼児の死亡率が高かったから、せめてそう考えて覚悟を決めておこうという意味合いだったんじゃないかとも言われてる」

 子供の成長を祝う儀式の多さを考えると、後者の解釈の方が正しいかもしれない、と前田は説明した。

 水子はどうだろうかと頼子は言った。

 前田は、記録が少ない上に地域ごとに考え方が違うから難しいと言い、「でも、遊廓とか中絶の多いところには、水子供養の地蔵があったって聞くよ」と言う。

 頼子は、前田の説明を一つ一つ咀嚼するように頷いて、

「昔の人は、水子は何とも思わなかったって聞いたことがあって」と話した。

 それを頼子に言ったのは誰なのだろう。

 前田は頼子の言葉の意味を考える。それを言った人は、頼子の堕胎を知って、それを慰める意味で言ったのだろうか。頼子はその言葉が本当なのか知りたくて、民俗学の授業をとったのだろうか。

 子供など親の一存で生きるも死ぬも決まる、かつてはそれが普通だったと思いたくて、前田は民俗学を専攻した。現代の、子供を大切にする文化の方が歴史的には特殊であって、かつては子殺しなど当たり前だった、珍しくなかった、そう思い込みたかった。祖父が曾祖父の亡霊に怯えて死んだのも、自分がいつも死にたいのも、珍しくない、親の意志で子供など死んでいい。そう思いたかった。

 社会は理不尽だと言い続けたのは母親だったが、大学でもバイト先でも両親以上に理不尽なことを言う人間には会ったことがない。

 母親が前田に手を上げて前田は弟に手を上げた。正直、憎まれ恨まれ殴り殺されてもおかしくないことをしていたと前田は思う。和之ならはっきりと言い切るのだろうか、うちがおかしいのだと。

「今は今の道徳があるんだから、昔のようにっていうのは、おかしいと思う」

初詣のときの頼子の言葉を、前田は反論も納得もできないまま頭に留めている。

和之に会いたいと思った。うちの家もあんたもおかしいんだよと言い切って欲しかった。そうすればこの執着にも諦めがつくかもしれない。

 だけど、諦めたら自分はどうなる。

 教員の話が脇道に逸れ始めた。教員の話す学会の様子に、学生の間から笑いがこぼれる。

「他の人に言わないでね、みっともないから」と頼子はノートに書いて前田に見せた。

「ひよりにはばれちゃった。ごめん」と前田はその下に書き込んだ。学生たちが教員の話に笑うのに便乗して、頼子は耳打ちした。

「ひよちゃんには、昨日いろいろ突っ込まれちゃった」

「ひよりが?」

 頼子の前でのひよりの卑屈な態度を思い出す。どんな話をしたのか、聞けば教えてもらえそうだったが、頼子の口からそれを聞くのは躊躇われた。

 教員の雑談は続く。学生がそれに乗って話し始める。前田は口を開いた。

「水子なんて昔は当たり前だったって、聞いたことあるって言ってたよね」

「よく覚えてるね」呆れたような言葉とは裏腹に、口調は穏やかだ。

「あれ、誰に言われたの」

 頼子の顔から一瞬笑いが消えた。頼子は教員の視線がホワイトボードに移るのを待ってから「父親」と答えた。

 前田は少し躊躇ってから「それは、アレのあとで?」と尋ねた。

 頼子は、恥ずかしい話を思い出させるなというように苦笑して、「そうねぇ。慰めるつもりだったみたい」と言って板書を写し始めた。教員は教科書の解説を再開していた。

 前田は、頼子の笑みの消えた横顔を眺めて、聞いてはいけないことを聞いてしまったような罪悪感を覚えて、謝るでもなく「慰めって、ときどきすげえ残酷だよなぁ」と言って笑う。

 頼子が微かに笑ったのが分かって安堵し、そんな自分に嫌悪を覚えた。初めから不快にさせるのを覚悟で中絶のことを聞きだし、今また話を蒸し返していた。

 頼子は黙々と板書を写し続けて、前田は黙った。

 的外れな慰めは恐ろしいほどに残酷だ。それは、前田自身がかつて痛感したことだった。祖父の自殺、それを知った近所の友人たちの言葉。通夜に出なかった和之と葬式の席で泣けなかった自分。頼子の父を思いながら、前田は当時の友人の言葉を思い出していた。



 民俗学のレポートで、胎児を肉塊と見るか人間と見るかという疑問を解くために文献に当たった。魂は、腹で成長した肉塊にあとから宿るものだという。その時期ははっきりとしないが、家の魂が入るようにと言って、妊婦は嫁ぎ先で出産するのがよいとされた。

 そんなものが本当にあるのなら、自分は祖父の代からそういう魂を受け継いでいることになる。

 その資料を読んだ時、前田は腹を抱えて笑った。祖父も父も自分もキチガイ、胎内にいるときからその魂が宿るなら、自分に救いなどないのだと思った。祖父は曾祖父に怯えて首を吊り、父は復讐するように祖父母を死に至らしめ、自分は母にキチガイと呼ばれ、祖父と引き換えに生きている。神も魂も信じないが、その愉快な考えに前田は涙が出るほど笑った。それから声を上げて泣いた。

 本当は自分が中央分離帯の上で死ぬべきだったと思って前田は泣いた。騒動のあと、両親は警察に話を聞かれて厄介なことをしてくれたという目で前田を見て、弟は「ついにやったか、と感心したんだが、事故かよ」と言った。祖父だけがヤケを起こしたらダメだと言った。その祖父が首を吊って死んだ。

 祖父が死んでしばらくして、事情を知る中学の同級生と食事をした。

 祖父を死なせたのを申し訳なく思う、だけど、祖父が死んで家の風通しが良くなったと思っている、誰かが死ななきゃあの家はもたなかった、祖父が死んで、自分が残った、それがたまらなく、有難くて、申し訳ない。

 そういうことを訥々と話した。

 自分でも何を言いたいのか分からなかった。

 祖父が消えて、家がマシになった。それは前田も弟も感じていることだった。そう感じてしまう自分がたまらなく嫌だ。

 友人はうんうんと相槌を打って「おじいさん、すごいね」と言った。

「死んで感謝されるなんて、すごいことだよ。夏子はありがとうって思えばいいんだよ」

 前田は言葉が返せなかった。何言ってやがると思った。死んでありがとうと思われるのは自分だったかもしれない、死んでくれてよかったと思われることがどういうことか、どこの受け売りでそんな言葉を口にする。

 友人の言葉への苛立ちと、こんな話を打ち明けた自分への嫌悪感があった。

 友人は、聞くだけならできるから、と前田を慰めようとする。

「頭のおかしい話を聞いてくれてありがとう」と前田は笑って言った。拒絶せずに聞いてくれたことには素直に感謝していた。だが、もう二度と言うものかと前田は思った。

 頭の中はおそろしく冷めていた。

 


 板書を写しながら、頼子の整った横顔に眼をやる。

 彼女を慰めようとした両親の胸の内を想像した。子殺しなんて罪でもなんでもないんだ、そう言って父親は娘を慰めようとしたのだろうか。自分の子供である頼子を。

 残酷だな、と前田は口の中で呟いた。

 頼子の耳に、その呟きは届かなかった。

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