第四章-5
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夕方からのバイトを終えて十一時過ぎに下宿に戻る。部屋に入ると、狙ったかのように実家から電話がかかってきた。
もうすぐ祖母の七回忌だから、日を空けておけという連絡だった。もうそんなに経つのか、と母の話を聞きながら前田は思う。祖母が死んだのは前田が中学三年の時だった。
当時、まだ熱中症という言葉が日射病ほど一般的ではなかった頃、祖母は風の通らない北向きの納戸で昼寝をしていて、熱中症で死んだ。クーラーのない家だった。電子レンジもなく、風呂は薪と石油で沸かしていた。金がないわけではなかった。倹約家で公務員の父、家は持ち家、曾祖父から相続した土地もあった。だが父は家族の贅沢を極端に禁じた。それは、自分が幼い頃に味わった屈辱のようなものを、子供にも思い知らせようとしているかのようだった。
祖母の様子がおかしいのに気付いたのは前田だった。畳んだ洗濯物を届けに行って、祖母が息をしていないのに気付いた。部屋は蒸し暑く、覗き込んだ前田の顔から祖母の身体にぼたぼたと汗が垂れた。部屋の中は、祖母の体臭なのか部屋のにおいなのか、妙なにおいが立ち込めていた。熱気の充満した密室に入ると、前田は今でもそのにおいを思い出す。祖母の身体は熱かった。その年の盆が新盆になった。
母は、本来なら八月にやるべきだったが、夏前に祖父の法事があったので先延ばしになっていたのだと話した。
死んだ人間の供養だらけだった。ふと受験生の和之を思った。
「あいつも出るの?」前田が訊くと、母は「出たくないって言ってる。勉強があるからねぇ」とため息交じりに言う。祖父の通夜にも出なかった弟だった。ぶら下がった祖父を見せてしまったことを、母なりに悔いているらしかった。和之への小言は絶えないが、祖父母の法事に関して、母は和之に強く出ることができない。
法事の前後は慌ただしくなるから、もし騒がしいようならこっちに来るように和之に伝えてくれと言うと、母は素直に伝えると答えた。母なりの後悔が見え隠れして、前田は息苦しくなる。
「母さんも無理すんなよ」と言うと、母は驚いたように「なに突然」と言い、「そんな、機嫌とるようなこと言って」と言う。家事を手伝うと、当てつけがましいと前田を罵る母だった。言うんじゃなかったと思いながら、前田は電話を切った。片付けのできない母の代わりに台所を片付けたら、勝手なことをするなと叩かれた。そうやって育ってきた。何をしたら相手が喜ぶかなど分からない。前田は携帯を置くとベッドに横たわった。
祖父も祖母も、突然ぽっくり逝ってしまった。介護の必要もなく、葬儀の前後のごたごただけで済んだのは、今思うと幸いだったのかもしれなかった。
金はあるのに極端に倹約家の父は、前田や和之が塾に行くことも習い事をすることも禁じた。大学進学のときは、女がなんで四大に行く必要があるのかと言った。前田の父も母も四大を出ていた。風呂場に給湯機がついたのは和之が生まれた頃で、それでもシャワーはつかなかったので、蛇口から洗面器に湯を汲んで身体を洗った。余所でシャワーのある風呂に入っても、その癖が抜けない。
そういう父であった。母も最初は文句を言い続けていた。前田の幼い記憶にある、両親の怒鳴り声は多分そうしたことが原因だったのだと思う。だが母も今は諦め、嫌味を言いながら、父への当てつけのように散らかった部屋に籠っている。
もしも祖父母が生きていて、介護が必要になったとしても、父が福祉サービスを使うとは思えなかった。祖父母に復讐するように子供や妻に自分の屈辱を味わわせるように、家で前田たちに介護をさせただろう。
時計を見ると十一時二十分だった。シャワー室は十二時で閉まる。入らなければと思うが、起き上がるのが億劫だった。どうせ人も並んでいる。朝に入ればいいと考え、前田はベッドの上で寝返りを打つ。
初めて下宿に泊まりに来た時、和之は自分で殴って形のおかしくなった顔で「親父、自殺してくんねぇかな」と言って、そう言う自分を馬鹿にするように笑った。その言葉を思い出して、前田は両親が倒れて介護が必要になったら自分はどうするだろうと考える。病院か施設に放り込むのが一番だが、施設の空きも金もあるのか分からない。父は貯金も土地も持っているはずだが、それで足りるのか分からないし、父が正気であれば使わせないだろう。せいぜい、勝手に死ねばいい。祖父のように、祖母のように。父と祖父母の間に何があったのかは知らない。だが、前田や和之にとっては、優しい祖父母だった。前田は大の字になって天井を眺めた。
食堂から笑い声が響いて来る。留学生たちがテレビを見ているらしかった。
前田が下宿に来てから、留学生たちがうるさいと言ってアパートに越した人が何人かいた。前田にはその声も、台所の使い方の悪さも苦にならなかった。家よりはマシだった。エアコンもある、電子レンジもある。うるさくても、両親の怒鳴り声のように怯えることも不愉快になることもない。
どこでも生きていけると思う。その点に関しては、両親に感謝していた。
どこでも生きていける。家に戻らないためなら、どんなところでも生きられる。
祖父が死に、前田が勝手に家を出たことが堪えたのか、和之が大学に入ったら一人暮らしをすると言っても、父は前田のときのようには反対しなかった。初めは反対していたが、和之と母が勝手に塾に申し込みをし、受験の準備をするのを、無理やり止めることはなかった。自分も無理やり押し通せば、案外なんとかなったのだろうか。考えても仕方のないことだった。前田がもっと早くに家を出て、家の風通しがよくなっていれば、祖父は首を吊らなかったかもしれないし、和之がそれを見ることはなかったかもしれない。だが前田は、祖父が首を吊って死ぬまで家から出られなかった。祖父が死んだことに救われていた。不眠だと言って辛い辛いと言う祖父を疎ましいと思った。そうやって祖父を追い詰めて、死なせて、自分は逃げて生きている。
食堂からの笑い声に感謝した。声を上げて泣いても、隣の部屋には聞こえないだろう。両手で顔を覆って、仰向けのまま前田は泣いた。食いしばった歯から声が漏れた。じいさん、ごめん、和之、ごめんと前田は言い続けた。じいさんが死んで私は救われたけど生きていて欲しかった、生きていて欲しかった。
前田と同じぐらいの年の学生たちの笑い声が、泣き声をかき消してくれた。
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