第四章-4


 以前、同じ学科の女子に「ピルを飲んでいる」と言ったら「男いるんだ」と騒がれたことがあった。そのとき初めて、自分の飲んでいる薬がそういうものだと気付いた。そのときは、避妊のためではないのだと説明して、彼氏はいないと話した。女は不思議そうな顔をして「避妊目的じゃないのにピル飲むって、怖くない?」と言った。それ以来、ピルのことは口にしなくなった。

 三時限目が終わると、ひよりは薬をもらいに婦人科に行った。

婦人科の待合室は子連れが多い。ここは産科のない婦人科なのでまだ妊婦は少ないが、産科では不妊治療をする人も妊婦も中絶手術をする人もいっしょくたに待合室にいるのだろう。

 アロマの香る待合室で、柔らかいソファに身体を沈めていると、膝の上にくまのぬいぐるみが現れた。やっと歩き始めたぐらいの女の子が、腕いっぱいにぬいぐるみを抱え、はにかむように笑っている。

「ありがとう」と言ってくまを受け取ると、女の子は照れたように下を向き、くるりと踵を返して母親の元に走っていく。腕からぬいぐるみがこぼれた。

 母親は娘を抱き上げ、「あらぁ、落としっぱなしじゃ可哀そうでしょ」と言いながらぬいぐるみを拾い上げ、ひよりを見て「すみません」と苦笑しながら頭を下げる。

ひよりはいいえと言って微笑んで、母親の腕の中から手を伸ばす女の子にぬいぐるみを持たせてやった。声を立てて笑う娘に、母親は「あら、よかったねぇ。ほら、おねえちゃんにありがとうしようね」と言う。

 娘は母の言葉などおかまいなしに身体をよじり、手足をばたつかせ、受け取ったぬいぐるみを放り投げる。

「なんで投げるの。くまさん可哀そうでしょ」母親は娘を抱いたまま、ぬいぐるみを追いかける。

 こども、とひよりは考える。

 三木さんがもし産んでいたら、きっとその子はあれくらい。

 子を産みたいとは思わない。昔から結婚も出産もしたいと思ったことがなかった。

 高校の家庭科の授業で、生徒の作ったアンケートが配られたことがあった。子供が欲しいか、欲しくないかという設問で、なんの抵抗もなく「欲しくない」に丸をつけた。匿名だったので理由も書いた。

 その後発表された集計結果は、欲しくないが二人、分からないが一人、女子二十二人のうち残りはすべて欲しいを選んだ。

「虐待死させると嫌だから」

 そう書いたひよりの「欲しくない理由」に、一部の女子が怖いと囁いているのが聞こえた。彼女たちはそれを書いたのが自分だと気付いただろうか。

 子供の甲高い声が耳を貫く。

 何ごとかと声のする方を見ると、男の子がオモチャ置き場の車を手にとって、声を上げて振り回している。母親の姿は見えない。子供はまた声を上げながら、車と絵本を手に持って廊下を走って行った。

 ソファに頭を預けると、受付のうしろのポスターが目に入った。「二十歳を過ぎたら子宮頸がん検診を」という文句が、看護婦のイラストと共に書かれている。ひよりは今年二十一になる。

 名前を呼ばれて立ち上がる。診察室の前の椅子に、一組の親子がいた。床で本を広げているのは、さっきオモチャ置き場で声を上げていた子供だった。母親は注意するでもなく一緒に遊ぶでもなく、ぼうっと子供を見つめて、背中を丸めて座っている。併設の心療内科の患者かもしれない。若い母親だった。

 やってみなければ分からないと稲城は言った。恋愛はそれでいいかもしれない。だが出産は、やってみてダメな結果が親殺し子殺しになるのだとひよりは思う。

五体満足に産んであげたのに。

 薬で排卵を止めたことを伝えた時、母はそう言った。

 欠陥なく産んであげたのに、自ら欠陥を作るのか、と言いたげな母の顔を思い出す。

「うちらも障害児だったら堕ろされてたかもね」と言ったのは前田だ。初詣の帰り、頼子と別れて小田急の駅に向かいながら、堕胎の法律について前田は話した。

「母体保護法って、改正前は優生保護法だったんだよ。優生学って言って、劣悪な遺伝子を減らし、優秀な遺伝子を残しましょうって考え。法改正は平成八年」

 法が変わるまで、月経の片付けができないからという理由で、自分の意志に反して子宮を取られた女性がたくさんいたのだと前田は言った。

 避妊薬では月経は止まらない。子宮を取れば月経はなくなる。だがホルモンバランスの狂いによる辛い後遺症に苦しむことになる。

 女であることも女を捨てることも、結局苦痛だ。

 あと二日。今日と明日、薬を飲んだら一週間の休薬期間。二十一錠の薬と七錠の偽薬が一枚のシートに収められていて、それを毎日飲み続ける。偽薬は毎日飲むリズムを維持するための物で、飲まなくてもよい。休薬期間の間に月経がある。機械のように正確な二十八日周期で、それはくる。

 こんにちはと言って診察室に入ると、先生がいつもの穏やかな顔で「調子はどう?」と聞いてきた。

 不正出血があることを話した。最初の三ヶ月にはよくある副作用だが、ひよりはもう一年以上飲み続けている。だが、数年飲み続けている人でもまれに不正出血があるので、あり得ないことではなかった。医師は、今も出血があるのかと確認してから「一度出血のないときに、子宮頸がんの検査をしましょうか」と穏やかな口調で言った。

 医師はカルテを見ながら「今二十歳ですね。二十歳を過ぎたら定期的に検査をした方がいいから。ちょうどいいですね」

 ひよりは返事ができなかった。ピルを飲むと子宮頸がんの危険性が上がるとパンフレットに書いてあった。それでがんについて調べた。

 医師はカルテに記録を書きつけて「それじゃ、血圧と体重だけ測りますから、向こうの部屋で」と隣室を示した。ひよりは医師に礼を述べ、看護婦に促されて隣室に移動した。

 体重計に乗り、血圧を測る。部屋には看護婦とひよりだけだ。「お疲れ様です」と言って看護婦はひよりの腕から圧迫帯を外し、「こちらからどうぞ」と待合室に繋がるドアを手で示して立ち去る。その背中に、ひよりは「あの」と声をかけた。

「ちょっと質問していいですか」

 看護婦は振り返り、はい、と答える。

 子宮頸がんは、性交によってヒトパピローマウィルスに感染することで引き起こされると、婦人科のサイトに書いてあった。

「子宮頸がんて、ウィルスでなるんですよね」

 看護婦は、そうですねと頷いて、ウィルスの名前を説明する。ひよりは質問を続ける。

「ウィルスはセックスでうつると聞いたんですが、セックスの経験がなくても検査は必要ですか」

 看護婦が、穏やかな笑みをたたえたまま、一瞬固まったように、ひよりには見えた。

「すみません、先生に聞いてきますね」と言って看護婦は診察室に戻った。

 珍しいのだろうか、こういう質問は。白いベッドに腰をかけ、天井を見上げると、血液が後頭部に流れていくように視界が白くなる。あと二日、とひよりは口の中で呟く。

 看護婦は医師を伴って戻ってきた。

 医師は「変なこと聞くけど」と前置きをして「セックスの経験はないのかな」と言う。

「ありません」

 ごまかすように恥ずかしがるように笑って答えたつもりだったが、顔が引きつっていて、ちゃんと笑えているのか分からない。

 医師は、検査は必要ないと言い、セックスをしたら、市の健診でもよいから受けるようにと言った。

「あと、最近子宮頸がんのワクチンが日本でも認可されてね」

 医師はその接種を勧めた。国や地方による助成金の話も出ているが、それは中学生や小学生を対象にしたもので、成人女性は対象にならないだろうと言う。興味があったら言ってくれと医師は言った。

 六ヶ月分の薬とワクチンのパンフレットを受け取り会計を済ませる。薬は一シートにつき三百円値上がりしていた。保険のきかない十割負担、一枚二千八百円。

 薬とパンフレットを鞄にしまい、顔を上げると受付の後ろのポスターが目に入る。二十歳ではなく初体験を過ぎたらと書くべきだと思いながら、ポスターから目を逸らす。世間様は二十歳以上はほぼ非処女だと思っているのだろうか、と卑屈な考えが浮かんでくる。

 病院を出ていくひよりの背中に、子供の笑い声が追いついて来る。

 ワクチンで全体の六割が予防できます。ワクチンと検査で百パーセント防げます。

 パンフレットにはそう書いてあった。

 ワクチンで百パーセントではないのなら検査率を上げた方がいいのではないかとひよりは思う。検査率の上がらない背景に処女でもないのに医者を前に股を開くのを嫌がるカマトトぶった女たちがいるような気がしてひよりは気分が悪くなる。

 みじめさを感じてしまう自分が何より嫌だった。泣きたかった。私は欠陥品か、とひよりは考える。恋も分からない男も知らない排卵もない、女であることをやり過ごせない自分から女という肩書きを消してほしい。

 有性生物になった進化系を呪う、と言った前田の言葉が頭をよぎった。



 子供は産みたくない、とはっきり言葉で示した一番古い記憶は中学一年のときだ。仲間内で溜まり場にしていたカウンセリングルームの中で、同級生らと出産の話になった。カウンセリングとは名ばかりで、中にいるのは資格のないボランティア、子ども会や地域の行事で役員として活躍している、顔の広い教員経験者の女性が、相談員として座っていた。

 私は絶対欲しい、二十五までに結婚して、三十までに子供産むの、二人。

 そう話す同級生に、自分は無理だと言ってひよりは笑った。

「先生はどう思います?」と同級生の一人が相談員に話を振った。

  相談員は、中学生たちの他愛のない話が可愛らしいというように自分の経験談を語り、生徒たちの希望を聞いた。

「子供は産みたくない。一人が生きていけるだけのお金を稼いで、一人でひっそりと生きていきたい」

 ひよりは言った。一度として子を持ちたいと思ったことのないひよりだった。

 同級生はひよりらしいと言ったり、寂しすぎると言ったり、口々に感想を言い合った。ひよりは曖昧に笑って「そもそも相手ができないよ」と言ってごまかすように笑った。

「ひよりちゃん」と小学生の頃からひよりを知る相談員は口を開いた。

「子供を産まないっていうのは、自分の存在を否定する事になるのよ」相談員は、ひよりを諭すようにそう言った。

 子供ができたら変わるよ、と言ったのは、誰だったか。紀子か、栃木の親戚か、飯田の家の大叔母たちか、中学高校の同級生、教師、男からも言われた気がする、小説、漫画、宣伝広告。

 耳をふさぎ目を閉じてその場にしゃがみこんで叫びたかった。声を上げて泣きたかった。

 〝それ〟は腕を切ることの延長だと前田は言った。前田は傷を作りたいのか、それとも死にたいのか。

 鞄を肩にかけ、壊れそうな身体を押さえ込むように両手で身体を抱きながら歩く。両の手の爪が腕に食い込んでいる。痛みは感じるが苦痛ではなかった。

 〝それ〟も〝それ〟に伴う妊娠も、自傷と同じだと前田は言う。

 頼子は産むか堕ろすかの二択を迫られ、結局中絶を選んだ。

 いずれも、自分で選んで突き進み、けれど幸せだとは言い難い。だが、幸か不幸かなど関係ないという思いがひよりの中にある。選択肢、それはひよりにはないものだ。

 自分で決めなきゃ、と言った稲城の連れの言葉が脳裏をよぎる。

 それが明らかに間違っていても、客観的に見て愚かでしかなくても、選べる人間は、選ぶ余地のない人間よりも広いところにいる。

 東柏ヶ谷の駅で定期入れを取り出すと、挟んでおいた紙が落ちた。稲城に押し付けられた、連絡先のメモである。ひよりはそれを定期入れに戻さずに、手に持ったまま、改札を通り抜けた。



 夜半、口さみしさに耐えかねて袋から出した白いままの食パンにマーガリンを塗って食べているひよりに、物音に気付いたらしい母は迷惑そうな顔で「太るよ」と言い、すぐに気付いたように「生理前?」と尋ねる。

 ひよりが「うん、あと二日くらい」と答えると、母はまだ二日も具合の悪い娘に付き合わなくてはならないのかというようにため息をつき、「薬もらってるんでしょ」と言う。

「前よりは良くなってるよ」とひよりが言うと

「でも前はそんな風に食べなかったじゃない」と母。

 以前は眠気やだるさ、不安感が強すぎて食べる気力がなかったのだと言おうかと考えたが、そもそも薬のことをよく思っていない母には何を言っても仕方ないと思い、黙った。ピルを飲み始めたと伝えたら、五体満足に産んであげたのにと不快感をあらわにし、生理前に横になっていると「女の方も人並みに片付けられないの」と言う母である。

 ひよりは「ごめんなさい」とだけ言うと袋を閉じてマーガリンを冷蔵庫に戻した。冷蔵庫の中に見覚えのない菓子箱があるのに気付き、「これ何?」と聞くと「日曜に紀ちゃんが来たのよ。あんた寝てたから」と母。

「起こしてくれればよかったのに」と言うと「気を遣ってあげたのよ」と母は口を尖らせる。

 どういう意味かと首を傾げるひよりに母は「旦那と子供も一緒だったの。あんたほら、薬で止めてるじゃない」と言いった。

 つまり、排卵のない妊娠し得ない娘を、子供を連れた同年代の従姉と鉢合わせるのは可哀そうと母は考えたのだ。まるで子宮をとってしまったような反応だ、とひよりは呆れ、母が気遣いへの感謝を期待してるのに気付いたが礼は言わずに「そっか」とだけ答えた。

「わざわざ言わせないでよ、鈍いんだから」と母はひよりを罵って寝床に戻る。

 低用量避妊薬を飲み始めて二年半になる。服用する女性は増えている。自分の何が可哀そうなのだろう。

 薬をやめれば排卵は始まる、何も一生産めないわけではない、だが現実にやめるきっかけなどないだろうし、やめれば社会に適応できない廃人になるとひよりは信じていた。

 いずれにせよ母はひよりが子を産めない身体になったと考えているようだった。

私は、欠陥品か。ひよりは考える。

 腹は膨れているのに、まだ口さみしさがあった。

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