第四章-3
3
月曜日は三四時限目に授業があり、ひよりとも頼子とも会わない。少し早めに着いた前田は、昼休みに大学北側の都道四十七号線の中央分離帯に立ち、煙草をくわえていた。
トラックの通り過ぎる音に混じって声がしたように思え、振り返ると車道の向こうに稲城が立っていた。こちらに渡ってこようとしている素振りを見ただけで、前田はすでに不愉快になっている。稲城は車が切れたわずかな隙に車道を渡ると、前田の横に立った。
「お前、いいかげんこの変な癖やめねえと卒業まで独り身よ?」と呆れたように言うと、「火ィ貸して」と煙草を取り出す。
他人の恋愛の世話に夢中になる暇があるなら課題をやれと腹の中で毒づきつつライターを渡す。
「そっちはどうなのよ、メンヘラの彼女は」
んあぁ、と気の抜けた声と煙を吐いて、親がなかなか理解してくれなくて大変らしい、と精神疾患を患うという彼女の話をする。
「学校に行けってうるさいんだとよ。親元離れればよくなるってのに、それも許してくんないんだよね」
十九の娘が大学に行かずに部屋にこもってネットサーフィンばかりしていれば親も嘆く、一人暮らしなど許すはずがないと思うが、自称理解のある彼氏である稲城は彼女に同情するだけだ。オンラインゲームで知り合った恋人だと聞いた。
「家出たいなら、働いて出りゃいいのに」と言うと、「大学も来れないんだぜ?」と稲城は言う。
でもオンラインゲームはやれるんだろうという言葉は腹の底に沈め、代わりに「じゃあお前養ってやれば」と言う。
「俺まだ学生よ?」と言う稲城に、だから何だと思いながら「彼女、お前より家提供してくれる金のある男と一緒になった方がいいんじゃね」と言う。
高校生でいっぱいのスクールバスが通り過ぎる。視線を感じるのはもう慣れた。車が途切れ、静かになると、稲城は「お前、ほんとひどいね」と哀れむような口調で言った。前田は何も言わなかった。
稲城はふと思いついたように「お前、田辺って知ってるよな」と言う。
「鉄オタの田辺?」と言うと、稲城はそうそうと頷く。鉄道オタクで、休みがあれば地方のローカル線に乗りに出かける。
そいつがどうしたのかと尋ねると、稲城はにやつきながら「あいつ、ひよちゃんに惚れてるらしいのよ」と言う。前田は露骨に嫌そうな顔をした。
「で、何。お前はまた仲を取り持つ気なわけ」
稲城は勿体ぶって笑うだけで答えない。稲城が何を企んでいても、一方にその気がなければ成立しないと前田は思う。
「ひよちゃんて、彼氏いたことあるのかな」稲城の言葉に、前田は知らないと答える。稲城は、それを嘘だと見透かすようにニヤニヤと笑うと、「ひよちゃん、さっき一人で飯食ってたけど」と言う。
大学なんだから、そういうこともあるだろうと言うと、稲城は「そんなこと言ってると、どっかの馬の骨にひよちゃん取られるんじゃねえの」と笑う。
取られるとか取られないとか、と言い返したかったが、面倒くさくなって言葉を飲み込んだ。時計を見るとそろそろ三時限目が始まるところだった。前田は「ひよりに彼氏できたら、普通に祝福するよ」と言って煙草を揉み消し、車道を渡った。
ひよりに彼氏ができたら、と前田は想像して、昨日の夜のことを思い出した。日曜の夜、男に会った。二年前、救急車に乗り込んできた友人、前田の言う〝自傷の延長〟の相手であった。
町田の喫茶店に前田を呼び出した男は、思いつめたような顔をして
「もうやめようよ」と切り出した。
「何を」
何のことかは分かっていた。だが前田はあえてそう返した。
友人は、言わなくても分かるだろうと言いたげに顔を歪めて、
「前田は、その、嫌なんだろ」と言う。
嫌とか嫌じゃないとか、そういう認識がないのだと前田は説明した。男は情けない顔になり「やっぱり、そういうの良くないよ」と俯いた。
救急車騒ぎの少しあとに、男から告白された。君の支えになれないかというメールに、支えにはならないし自分が支えを必要としていないと返した。それきりそのことには触れず、友人付き合いを続けていたが、ある時唐突に抱きたいと切り出された。好きだとも言われた。
前田は、自分は好きではないし恋人が欲しいとも思わない、人恋しいという感覚も分からないし、これからもずっとそうだと思う、それでもいいなら抱かれるのは構わないと言った。男は悩んで、結局抱いた。
「俺が言うのも変だけど」
男はテーブルの上で組んだ指をせわしなく動かす。
「前田も、ちゃんと人を好きになった方がいいと思うんだよ。そんな風に自分を傷つけるんじゃなくてさ」
なんか説教みたいになっちゃったけど、と男はコーヒーを飲み干す。
前田は、ははっと声に出して苦笑した。
言われずとも、それが健全であることは百も承知していたし、そこから目を背けて自分が正しいと信じていられたら、外からは惨めに見えても本人は満足していられるのだと思う。
「心配させてすまんね。ありがと」
前田が礼を述べると、男は安堵したような表情を見せる。
好きな女でもできたのだろうかと、前よりもこざっぱりした感じの男を見て思う。あるいは就職活動を前にして、真人間になろうと考えたのかもしれない。男の方の事情を聞く気も、引き留める気も前田にはなかった。
自分のコーヒー代を渡して先に店を出た。
なぜ性器に対する暴力は、身体の他の部位に対する暴力よりも特殊な扱いを受けるのかという問いを投げかけたフェミニストがいた。その結論は忘れてしまったが、前田はその答えを漠然と考え続けている。
暴力は特殊な場合を除いて全面的に非難されるものであり、受け手は苦痛を与えられる。性行為はそれそのものが暴力ではないからこそ厄介なのではないかと前田は思う。強姦は男も女も非難されるものだが、同意のもとに行われる性行為には加害者も被害者もない。性の乱れを非難する事はあっても、性行為そのものは非難され得ないのだ。それは生き物としての行いのはずだから。
男は自分を好きだと言って、そこに愛情を見出そうとしていた。自分はそこから苦痛しか受け取らなかった。腕を切って得られるものに快感が含まれているというのなら、それに似たものは受け取っていたかもしれない。だがそれは自分を壊したいという願望を満たすことで得られる悦楽だ。
子供ができたらどうするの、とひよりは尋ねた。セックスの終わるたびに、子が宿り、それを堕ろすことを想像した。
堕ろしたいのではない、と前田は思う。堕ろされたいのは自分だった。胎内にいる自分が、潰され、引きずり出される。
それをずっと願っている。
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