第四章
第四章-1
第四章 1
ライブが終わり、居酒屋で飲んでから、酔いつぶれた紗枝をJRの改札に押し込んで前田とひよりは小田急線の町田駅に向かった。
「人は見かけによらないねぇ」
前田は、馬鹿にするでもなく感慨深い様子でもなく、無感動な声でそう呟いた。
「避妊しても、妊娠しちゃうことはあるんだよね」とひよりは言った。的外れなことを言っているという自覚はあった。ピルを飲めばいい、排卵を止めればいいという思いがずっとあって、それを言いたくて仕方ない自分の思いに気付いてもいた。だから、自分の言葉を止めなかった。
「ピルなら、年間で千組に一組で済むのに」
ピルのパンフレットにそう書いてあった。一年間の失敗率の統計では、経口避妊薬の場合は〇・一パーセント、コンドームの場合は三パーセント。
「まあなぁ。百人に三人が妊娠してるんだもんな」
パンフレットは前田にも見せたことがあった。ピルを飲んでいることも話していた。
「月二千五百円だっけ」前田の問いに、ひよりは頷く。
前田は、歩きながら携帯電話を取り出して「それ一度計算してみたんだよ」と言い、道の端に寄って立ち止まる。ひよりもその隣に立った。前田は携帯電話のメモ帳か何かを探していたらしく、「あった」と言ってニヤリと笑う。
「ゴムと中絶のリスクを合わせた費用と、ピルを飲み続ける費用の試算」
ひよりはどう答えていいか分からず、唖然として、なにそれ、と言った。
前田はヒヒヒと声に出して笑い、「紗枝っちのいるときに話せばよかったな。あいつ、こういうの好きだし」と言ってから、自分の〝試算〟を述べ始めた。
「まず、あのパンフの統計が前提な。で、ゴムを一個五十円、月に十個消費すると仮定する。個数についてはデータが見つからなかったんで、あくまで仮定だ」
ひよりは何も反応できずに、適当な相槌を打ちながら聞いている。
「失敗率が年間三パーセントとすると、十年で二十五パーセントを超える。十年間で四組に一組が一回は妊娠することになる。それを中絶したとして、ゴム代六万、中絶費用十五万弱、合わせて二十万程度。ピルは十年で三十万超えるんだよな。性病予防にゴムも使うだろうし」
ひよりは、数字が飲み込めずに、ぽかんとしている。それに気付いて、前田は説明を繰り返す。
「ゴムで失敗する確率は、十年間だと二十五パーセント。ピルは年間〇・一パーセントだけど、とりあえずゼロとする」
「うん」ひよりは頷く。
「十年間ピルを飲み続けて、ゴムを使わない場合、ピルの費用は三十万強。だよな?」
「うん」半年に一回の通院のたびに、一万五千円が薬代に消える。
「で、ゴムの場合。一個五十円月十個として、十年で六万」
コンドームの値段など知らないひよりは、間の抜けた顔でへぇと呟く。
「で、中絶費用。だいたい十五万あれば堕ろせるらしい。失敗した奴がみんな中絶すると仮定すると、四組に一組がこの十五万を負担する。四組中三組は負担しない。分かるな?」
「うん」
「中絶する場合、ゴム代と中絶費用合わせて二十万程度。中絶のリスクのないピルを飲み続ける場合、かかる費用は三十万。もちろん、十年の間に二回も三回も失敗する奴もいるかもしれんが、平均的にはこうなる」
はぁ、とひよりは気の抜けた返事しかできない。
前田は、足疲れたと言ってビルの横の植え込みに座り、話を続ける。
「つまりだな。身体の負担とか生命倫理とか考えないで、金の心配だけするなら、ピルよりゴムの方が中絶費用含めても安いんだよ」
ひよりは、前田が何を言いたかったのかようやく理解した。
「中絶って、もっとかかるのかと思ってた」
中絶一回分の費用は、五年分のピルの代金よりもおそらく安い。
「生命倫理だ子供が可哀そうだって言っても、金で見たらゴムで失敗して中絶する方が安いんだぜ、という話」
前田はいつの間にか煙草をくわえている。
「路上喫煙」と言うと、「こんな時間に取り締まってないだろ」と笑う。
土曜の夜のこんな時間だからこそ取り締まっているんじゃないかと心配になるが、見れば通り過ぎる人たちの中にも煙草をくわえている人がちらほら見える。
「中絶手術で子宮に残る傷とか、母体の負担とか、倫理とか、そういうの気にしないならゴムの方が合理的だよ」
前田は煙を吐き出して、「でもなぁ、だったら同情も後悔もすんなよな」と言って空を仰いだ。
やむにやまれぬ事情で子を堕ろし、それを悔やむこともあるのではないかとひよりは思う。前田のように非難できないのは、自分が揺らいでいるからだろうか。
「前田は、妊娠したらどうするの」
もう一本だけと言って煙草に火をつける前田を見下ろして、ひよりは言った。
「堕ろすよ」
前田はなんの躊躇いもなく言い切って、「むしろ堕ろしてみたい」と口の端を上げて笑う。空を仰いで煙を吐きながら、「月が綺麗だわ」とひとりごち、それから思い出したように終電は大丈夫かと言う。
「半までにホームに行けば大丈夫。前田は?」
「最終が三十八分発」前田は腕時計を見て十二時十分前、と時間を読み上げると、ひよりに「座らねぇ?」と言って自分の隣を手で示す。ひよりが腰かけると、前田は問わず語りに話し始めた。
「堕胎と死刑って、合法的な殺人だと思うのな。本当は堕胎罪ってあるけど、まあ実際はほとんど使われてないから考えないとして」
前田は、まだだいぶ残っている煙草を揉み消し、携帯灰皿に押し込む。
「誰でもいいから殺したいとか、病気じみたこと考えてもさ、すでに生まれてんの殺したら捕まるじゃん。もし殺したいと思って、捕まらないギリギリの方法探すなら、女には中絶っていう選択があるわけよ」
ひよりは、なんと答えたらいいか分からず、ただ黙って前田の横顔を見つめている。その困惑が伝わったのか、前田は「ごめんごめん」と茶化すように笑って、「別に自分がそういう願望を持ってるわけじゃないけど」と言う。
ひよりが「仮定の話だよね?」言うと、「仮定というか、まぁ妄想の中のお話だな」と言ってまた誤魔化すように笑う。胎児殺しという合法的な殺人が前田の頭の中で繰り返されるのを想像する。
「堕ろすために、妊娠したいの」とひよりは聞いた。
前田は少し考えてから「できたら堕ろすけど、そんな積極的に妊娠しようとは思わん。避妊してるし、中絶金かかるし」
避妊してる、という言葉で、目の前の女がセックスをした男と交わったという事実が急に現実味を帯びて、ひよりは一瞬気持ち悪さを覚える。
「でも、興味はあるよ。それもやっぱり腕のコレの延長なんだけど。自分の一部で、だけど命があって自分ではない生き物、それを殺すってのはね、やってみたい」
ひよりはふと、もし人が単細胞生物のように分裂して増えていくことができるなら、前田は自分の分身を作っては殺し続けるのではないかと想像する。
「子供は、親の分身じゃないよ」
ひよりは、当たり前すぎる正論を述べる。
「そうだね」と前田は頷く。
「でも、私はやっぱり、自分の一部を殺すんだって思いながら、中絶をするんだと思う」
前田はそう言って、また煙草に火をつけた。
布団に横になると、ひよりはふと今年の一月に前田と頼子と三人で初詣に行ったことを思い出した。
水子供養の祭壇の前で手を合わせるひよりと頼子の横で、前田は白けたような顔で祭壇を見て、「水子供養って戦後になってから生まれたんだよ」と言う。
そうなの? とひよりが訊ねると、前田は得意そうに持ち前のうんちくを披露する。
「民間ではあったけど、寺ではやってなかったんだよ。明治から戦前は堕胎が違法だったのもあるけどね。教義には水子供養なんてない」
「でも、死者を祀るのは昔からあるでしょう?」と頼子が言う。
「人と認識しなければ死者とも思わない。そういうことだよ」前田は供えられたお菓子やぬいぐるみに視線を落とす。
しかし多いな、と言って前田は灯された電気式の蝋燭を眺め、本堂を出ていく。ひよりと頼子もそれに続いた。
外のベンチに座り、屋台で買った甘酒を飲みながら、前田は「堕胎罪って、まだあるはずなんだけどね」と話し始める。
「母体保護法ってあるじゃん。あれで認められてるのは母体を守るための堕胎だけなんだけど、ほとんど役に立ってないよなぁ」
前田は、さっきの水子供養の地蔵に呆れたというように溜息をつく。
「胎児の様子が分かるようになってから、急に胎児も人間扱いされ始めたけど、法的に殺していいことにするなら、人間じゃないって言い切ればいいんだよ。少なくとも、堕胎する人間は、胎児を殺しても殺人にならないって法律に守られてるんだからさ」
ひよりは適当に相槌を打つだけで何も言わない。
「本当に母体や子供に問題があって仕方なく堕ろしたなら分かるけどさ、自分で作って、自分の意志で堕ろして、その子を我が子みたいに言って可哀そうとか、どんな自己満足だよ」
前田はどこか苛立ったようにいう。
「思わん?」前田はひよりと頼子を見る。
分からない、とひよりは言った。
頼子は何か考えるように甘酒のカップを見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「胎児は人間だって、今は言われているわけじゃない?」
頼子が前田を見た。
「そうだね」と前田は言う。
「昔はなんとも思わなくても、今がそうなら、やっぱり可哀そうとかごめんなさいとか思うのが普通じゃない? それが行動と矛盾してても」
普通ねぇ、と前田は呟く。
「矛盾に気付かないで悲しむだけの人は、私も嫌。でも」
前田は頼子に視線を向けた。頼子は正面から前田を見つめて言った。
「今は今の道徳があるんだから、昔のようにっていうのは、おかしいと思う」
前田はそれには答えず、自嘲気味に笑った。
このとき、前田は頼子の中絶のことに気付いていたのだろうか。
日曜日はPMSと前夜の酒のせいで一日中眠く、だるく、食事もろくに摂らずに眠り続けた。
浅い眠りの中でいくつも夢を見た。祖母がいて、頼子がいて、中央分離帯でゴスロリの西野が歌っている。目を覚ましては居間に行き、そのたびに母に小言を言われたのだが、それもいくつかは夢だったような気がしている。
夕方、居間に行くと、祖母が粗相をして汚した下着を押入れに隠していると母が文句を言っていた。ひよりは、そうだ祖母は次の夏に自転車ごと転んで死ぬから、自分はそれまで一年間世話をするのだと思い、尿のにおいを頼りに祖母の下着を探した。においは仏壇の下の棚から漏れていて、そこを開けると中には水子供養の地蔵があり、たくさんのお菓子やオモチャが供えられていた。顔を上げると仏壇には祖母の遺影があり、ひよりは祖母の膝に湿布を貼らなくてはいけなかったのに、貼るのが遅くなったから祖母が水子に祟られて死んだのだと思って地蔵に手を合わせた。
手を合わせたってあんたには産めないよ、と母が笑うのが聞こえた。
そういう夢を見続けていた。
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