第三章-3


 薄いカーテン越しに、強い朝日が差し込んでいる。身体に当たる光の熱さで西野は目を覚ました。時計を見ると六時前である。眠り足りなかったが、目をこすり起き上がると、カーテンを開け、六時にセットした目覚ましのアラームを切った。畳の上の布団はそのままで台所に行き、ラジオをつける。父は六時半に起きてくる。それまでに朝食の準備をし、弁当を作る。それは小学校の頃からの西野の役目だった。

 父が出かけたらもう一度寝ようと考えながら炊飯器をセットし、目玉焼きを焼く。昨夜は考え事をしていたせいでなかなか寝付けなかったのだ。頼子のこと、石田のこと、紗枝に対する怒りや悔しさ。

 頼子はどっちも嫌がるだろうけどね、という紗枝の言葉が、ずっと耳に貼りついていた。うるさい、分かっている、と西野は声には出さず口の中で呟く。目玉焼きのフライパンに水を入れると、油が跳ねて腕にかかり、蓋を取り落とした。蓋はコンロに当たり、床に落ち、けたたましい音を響かせる。

 油を跳ね飛ばし続けるフライパンを傾けて火を止め、跳ねる油が落ち着いてから蓋を拾い上げる。西野は苛立ったようにため息をついた。フライパンに蓋をし、火をつけ、火傷を水にさらしていたら目玉焼きが焦げ始める。

 どれもこれも紗枝と石田と頼子のせいだと思え、そう思っている自分を子供みたいだと思い、それがまた悔しくて、腹立たしい。

 父は焦げた目玉焼きを何も言わずに食べ、夕飯はいらないと言って弁当を持って家を出た。

 食器を水に浸け、部屋に戻るとまた布団に横になった。火傷がチリチリと痛み、日差しは熱く、耳に残る紗枝の言葉に腹が立つ。西野は布団の上で、もうやだ、みんな嫌い、ちくしょうと声を上げてごろごろと転がり、昨日の石田の顔を思い出し「殴ってやればよかった」と呟く。頭は眠気で重たいのに眠れそうになかった。寝返りを打つと、腹が鳴った。腹がすいているから余計に眠れないのだと西野は気付き、台所に戻ると食パンを食べた。それから布団に戻って眠った。

 次に起きた時は一時を回っていた。携帯電話の鳴る音で起こされた西野は、それが紗枝からの着信だと気付くと通話拒否のボタンに指を伸ばした。だが、頼子と石田のことを聞きたいという思いに負け、躊躇いつつも電話を取った。

「ああ、やっと出た」紗枝は酒のせいか声が少し枯れていた。

 何の用かと尋ねる自分の声が、ひどく不機嫌だった。西野はそういう自分の子供っぽさを嫌だと思う。

 紗枝は西野の機嫌を気に留める様子もなく、「昨日あんな状態だったから、一応フォローに」と言い「でも謝るつもりはないけど」と笑う。西野は切りたくなるのを堪えて、「何しにかけてきたんだよ」と言う。紗枝は答えずに、これから暇かと聞いてくる。暇だと答えると、紗枝は「外で話さない? 天気もいいしさ」と明るい声で言う。分かったと言うと、紗枝は二時に東急ツインズ一階の喫茶店でと言って電話を切った。

 紗枝がこうやって突然に西野を呼び出すのは珍しいことではなかった。小学二年の時に知り合って以来、紗枝は暇ができると西野に「今から遊べる?」と電話をかけてきた。中学でも高校でもそうだった。

 服を着替えながら、高校の時の頼子の一件以来、そういうやりとりが減っていたと西野は気付く。幼い頃は、休みになるとたいてい紗枝から電話があった。そこに同情めいたものがあると分かっていても、西野は素直に嬉しかった。

 西野が町田に越してきたのは小学二年のときだった。両親が離婚し、父と共に会社に近い今のアパートに引っ越した。母とはその後、二三年は定期的に会っていたが、やがて全く会わなくなった。母の今の住所も電話番号も知っているが、西野から連絡したことはない。父が連絡を取っているのかは知らない。

 父は仕事に忙しく、西野は一人家に残されることが多かった。紗枝からの電話は、事情を知った紗枝の母が気を遣ってかけさせたものらしかった。

 今、自分のことを一番知っている人間は誰かと聞かれたら、西野は父ではなく紗枝の名前を挙げるだろう。月経の始まった頃、下着や布団に付いた血の落とし方は紗枝から教えてもらった。胸がふくらみ始めた頃、ブラジャーをつけるようにと勧めたのは紗枝の母で、西野は紗枝と紗枝の母と三人で下着売り場に行ったのだった。これが可愛い、これは派手すぎるとはしゃぐ紗枝とは対象的に、西野は女の雰囲気の充満する売り場にいるのが気恥ずかしく、そこに並ぶようなレースやフリルのついた下着を身につける自分を想像し、逃げ出したくなった。

 そういう西野の姿を、紗枝はずっと見ていたのだった。

 それが頼子であればよいと思ったのはいつだったか。

 自身の初潮も、父子家庭のことも、恋愛話も、紗枝ではなく頼子に知ってほしかった。中学の頃通い始めた塾で頼子と出会って以来、西野の中のその思いは募るばかりである。何もかも打ち明けてしまいたかった。その相手は頼子であって欲しかった。

喫茶店に着くと、紗枝はすでにコーヒーを飲んでいた。アイスティーを持って向かいに座った西野を見て、紗枝は「懐かしい格好だね」と言って、酒のせいか少しむくんだ顔に笑みを浮かべた。

 西野はTシャツにハーフパンツという格好で、化粧もしていなかった。面倒で、と言うと、紗枝はふぅんと相槌を打つ。

「梢、やっぱり何もしない方が美人だわ」

 西野は顔をしかめた。別に嬉しくないと言うと、紗枝は「だろうね」と笑う。見透かされるような感覚が不愉快だった。

 西野は黙り込んでアイスティーを啜る。西野が何も言おうとしないのを見て、紗枝は「頼子のことだけど」と切り出した。西野は目だけ動かして紗枝を窺う。紗枝はコーヒーをスプーンでかき回しながら続ける。

「この先どうなるか分かんないけど、とりあえず今はお友達に戻りましょうって」

 嬉しさも落胆もない話だった。西野は不機嫌な調子で「それ言うために呼んだの」と言う。紗枝は西野の態度にはまったく動じずに「気にしてるかと思って」と言ってコーヒーに口をつける。

 気になってはいた。知りたいとも思った。だが紗枝にその気持ちを読まれ、紗枝の口から頼子のことを聞くのは嫌だった。

「なんで石田を呼んだの」西野は昨夜と同じ質問をする。

「見ててイライラしたから」と紗枝は答えた。

「イライラ?」と西野は聞き返した。紗枝は、イライラと言うよりモヤモヤかもと言って、頼子のはっきりしない態度がずっと嫌だったのだと話した。

「頼子も傷ついたけど、石田さんだってかなりへこんでたじゃない」

 そう言って紗枝は、西野の知らない話を頼子から聞いたと言って話し始めた。

 別れることになった二人だったが、石田の方はほとぼりが冷めたらやり直したいと言っていた。頼子は、それに頷きもせず、拒否もせずに、自分の気持ちがどうなるか落ち着いてみるまで分からないと言った。そう言って三年半が過ぎた。

「連絡は取り合ってるけど、会ってはいないみたいね。縁を切るでもやり直すでもなく、三年半」

 その宙ぶらりんな二人に、見ていて腹が立ったのだと紗枝は説明した。

「もちろん私の聞いたことがすべてじゃないし、当人たちは色々話してたと思うから、外野が言うことじゃないけどね。でも気になるじゃない」と紗枝は苦笑し、頼子が嫌がるのは分かっていたが出しゃばらずにはいられなかったのだと、自分の性分を恥じるように言う。

 西野は何も言わずに紗枝の話を聞いていた。紗枝の話したことのうち何一つ、西野は知らなかった。石田とは、高校の時に切れていると思っていた。連絡を取り合っていたのも、石田がやり直したいと言っていたのも初耳だった。ショックだった。

自分は聞いたことがなかった、と西野は言った。紗枝は「石田さん嫌いのあんたに言うと、絶対険悪になるでしょ」と当然のことのように言う。何か言い返したかった。だが、喉元に出かかる言葉は、ずるい、くやしい、なんで、といった感情ばかりで、まともな言葉が出てこない。しかめっつらのまま無言でアイスティーを飲むと、紗枝がふっと笑った。

「梢、まだコーヒーだめなんだね」紗枝は懐かしそうに頬を緩める。

 不意にそんな話を持ち出された西野は、困ったように眉をひそめ、「だって、苦いじゃん」とぼそぼそと言う。紗枝は声を上げて笑った。

 西野が紅茶を飲み終えるのを待って、紗枝は外を歩かないかと言った。

「クーラーで冷えちゃった」と言い、腕をさする。紗枝が寒がりなのも、西野がコーヒーを飲めないのも、昔からのことだった。

 二人は外に出ると駅前のデッキに向かった。

「そうだ、この間、兄貴が彼女連れてきたよ」唐突に紗枝は言った。

 西野は驚き「隆(たかし)兄(にぃ)が?」と聞き返す。紗枝には兄と弟がいた。その 兄弟とも、西野は幼い頃から親しかった。

結婚するつもりらしいと言って紗枝は「あのヘタレ兄貴が」とおかしそうに笑う。

「健ちゃんは?」西野は弟の名前を挙げた。紗枝は「あいつはオタクだから」と呆れたように言ってから「でも兄貴も高校のときはそんなんだったよね。大学入って健が彼女連れてきたらどうしよう」と笑う。

「バイト代、全部ゲームに消えてたよね」と西野は紗枝の兄を思い出して言う。

「健は漫画オタクなんだよ」と紗枝は苦い顔をした。

「彼女はアニメキャラでいいとか言い出さないといいなぁ」

 紗枝の心配に、西野は明るい声を上げて笑った。

 モニュメントの前に来ていた。さっきまで冷房の中にいたのに、照りつける日差しに汗が滲んだ。どこか建物に入ろう、と西野が言うよりも早く、紗枝が口を開いた。

「もし、頼子が連れてきたのが非の打ちどころのないイケメン好青年だったら、あんた素直に認めてた?」

 紗枝は西野の顔を覗き込むようにして、反応を窺う。西野は自分がどんな顔をしているのか分からなかった。言葉に詰まる幼なじみを見て、紗枝はルミネを指差し「暑いから入ろうか」と言った。

 エスカレーター横の休憩所に腰かけると、西野の答えを待たずに紗枝は話し始めた。

「梢見てるとね、なんか頼子を母親だと思ってるように見えるのね」

 西野は、ぽかんとして紗枝を見返した。聞き間違いかと思い、「今、母親って言った?」と聞き返す。

「そう、母親。おかあさん」と紗枝は言う。

「なにそれ」と西野は苦笑する。紗枝は笑わなかった。

 紗枝は高校時代の西野を思い出すように、遠くを見るような目をして話し出す。

「梢、頼子に彼氏ができた途端いろんな男と付き合ったじゃない、当てつけみたいに。あれ本当は頼子に止めて欲しかったんじゃないの?」

 高校二年、まだゴスロリファッションを始める前、頼子に石田を紹介された西野は、今まで一度も行ったことのなかった合コンに行った。そこで知り合った男と付き合い、すぐに別れた。そういうことが何度も続いた。

「それは、あったと思う」西野は悔しそうに頷いた。

 西野の尻軽な態度を諌めたのは紗枝だった。頼子はもとより興味を示さなかった。本当は頼子に止めて欲しかった。もっと、自分を大事にしろと言って欲しかったのだった。

「でも、それだけじゃないんだよ」と西野は口を開く。これも本当は頼子に伝えたいことだった。だが、頼子が自分の話を聞くために目の前に現れてくれることはない。

 紗枝は先を促すように、西野を見つめて頷いた。西野は話し始めた。

 頼子に止めて欲しいという思いもあったし、自分が味わったショックを頼子にも味わって欲しかった。だが、頼子にとって自分はそういう位置にいない。それがとても悔しくて、でもなんとかこちらを見て欲しくて、どうすればいいか分からなくなったのだと西野は言った。

 紗枝は一言一言頷きながら幼なじみの話を聞いている。

「梢が、頼子にすっごい執着してるのは分かってたよ。それなのに、頼子が冷めてたのも」

 自分の思いが一方通行の押しつけだということも、石田が気に食わないのは単に嫉妬だということも、西野自身よく分かっていた。紗枝は、黙り込んで俯く西野を見て、急に明るい声を出した。

「私ね、最初あんたはレズなんじゃないかと思ったの」

 なにそれ、と声を上げて西野は紗枝を見る。

「だって、今の話、完全に恋愛感情じゃない。後輩にモテ始めたときなんて、そっちに行っちゃったらどうしようって冷や冷やしたよ」

 西野は苦り切ったような顔をして「うそ、めちゃくちゃ面白がってたくせに」と口を尖らせる。紗枝はブロマイドでも撮って売りつければよかったと言ってニヤニヤと笑い、それから「ゴスロリだって、そういうとこから来てるんじゃないの? レズじゃなくてさ、恋愛嫌いって言うか」と言った。図星だった。

 女らしいことが嫌だった。かといって男になりたいわけでもなかった。男っぽい服を着ても、ダサい格好をしても、突き出した乳や尻は隠れず、何もしなくても綺麗だ、美人だと囃される。お世辞だと思おうとしても、嫌でたまらなかった。

「ゴスになった途端に、みんなの反応が綺麗だとか美人だとかじゃなくて、すごいだとか派手だとかに変わったよね」と西野は苦笑する。

「あんなのが似合うのは美人に限るけどね」と、紗枝は羨むように西野を見る。西野は困ったような顔をした。紗枝はその幼なじみの反応が可愛いというように目を細め、

「あんたの場合は飾ることで隠してるわけね」と言って、すべてお見通しだというようにニヤリと笑った。

 西野は観念したというようにため息をつく。

「なんだろ、私がガキなのかな。男も女も恋愛も分かんねぇよ」

吹っ切れたように言って伸びをする西野を見て、紗枝は笑う。男と付き合ったのは頼子への当てつけだった。だがどこかで、付き合ってみれば分かるかもしれない、頼子の気持ちを理解して、離れられるかもしれないとも思っていた。だが、だめだった。

「あんたは中身よりも見た目が先に女になっちゃったから、色々ずれてるんじゃない? 世の中には同性愛者も、どっちも好きにならない人もいるけど、梢はまだ固まってない感じ」

 どこかで聞いたような話だと思い記憶を辿ると、眼鏡の女を口ぶりが頭に浮かぶ。

「それ、前田の受け売りじゃないの」

ばれたか、と言って紗枝は笑った。

 紗枝は、真面目な話をしたら疲れたと伸びをして、兄への婚約祝いを見たいから付き合えと言う。

「もう婚約したの?」

「まだだけど、近いうちにしそうな感じ」

 立ち上がり、エスカレーターを降りながら、兄の喜ぶものがゲームしか思いつかないと言って紗枝は頭を抱える。

「ベッドの下あさったら、変なフィギュア出てきたことなかった?」

 西野の言葉に紗枝が噴き出し、

「あった。すっごい大事そうにケースに入って」と昔の兄を思い出して腹を抱える。

 頼子とこういう話をすることは、多分ないのだろうと西野は思う。目の前で笑い続ける幼なじみへの怒りや悔しさは、いつの間にか消えていた。

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