第三章-2


「前田の奴、あんたの留年のこと知ってたよ」

 紗枝から電話がかかってきたのは、ライブの翌日の日曜日だった。

 あんたが子供堕ろしたのも知ってた、噂で聞いたって。早口に紗枝は言った。多摩川に入って一年半が経つが、頼子の耳に自身の噂話が入ることはなかった。そうならない大学を選んだつもりだった。

 前田の態度を思い出す。知ったなら、直接自分に言えばいいのに、それをせずに紗枝に言う。

 頼子はしばらく考えて「それ、カマかけただけじゃなくて?」と言った。

 電話の向こうの紗枝が黙り込む。カマをかけただけだった可能性があるということか、と頼子は判断する。前田のやりそうなことだった。

「紗枝ちゃん、何か話したの?」

「ごめん」と電話から暗い声がした。謝るような話をしたのかと頼子は思う。

「なっちゃん、策士だよね」と笑い「石田さんのことも話したの?」と聞く。

 話した、ごめんと紗枝はまた謝る。

「でも馴れ初めと名前ぐらい。大したことは言ってないよ」

 酔うと饒舌になる紗枝である。それだけで済むわけがなかった。相手が前田であればなおさらだった。

 面倒くさいな、と思いながら、これ以上追及する気にもなれず、「梢とは大丈夫?」と話題を変えた。

 会場で初めて石田を見て、頼子は驚くだけでなにも言わなかったが、西野は紗枝を責め立てた。

「なんで石田が来てんの」という声が、自分たちの通り過ぎた通路から聞こえた。紗枝の声も聞こえた。

 紗枝が石田を呼んだのはおそらく好意だ。その押しつけがましい好意も迷惑だったが、それよりも西野の「頼子のために怒っている」という態度を不快に感じていた。勝手に言い争えばいいと頼子は思う。二人の言い争いを背中に受け止めながら、頼子は石田を伴って非常階段の踊り場に出た。石田と話し、着替えのために楽屋に戻ると、西野が待ち構えたように立っていた。

「どうするの?」と聞く西野に頼子は

「せっかくだから、話してくる」と言った。

 西野は露骨に嫌そうな顔をしたが、頼子はフォローも言い訳もする気にならず、お疲れとだけ言って先に帰った。

 電話の向こうで、紗枝が苦笑するのが分かった。

「キレて帰っちゃったよ」

そう、と頼子は頷く。あとで連絡してみると言って、紗枝は「そっちはどうだった」と一番気になっていたらしいことに話を向ける。

「どうって」頼子は困ったように笑い声を漏らす。

「別に何もないよ。お友達に戻りましょう、って感じ」

「そっか」落胆したのを隠すような明るい声だった。

「久し振りにゆっくり話せたよ。ありがとね」と頼子はフォローをする。

「いやいや、こっちこそ、勝手にごめん」

 本当にね、と胸の中で呟き、「気を回させちゃってごめんね」と頼子は言った。



「頼ちゃんも、やることやってたんだね」

 妊娠が分かった時、二つ下の妹はそう言って笑った。頼子とよく似た顔立ちだが性格は正反対で、髪を染め、スカートの丈を詰め、問題児ではなかったが派手なグループに属していた。

「いつ堕ろすの」

 妹はそれが当然であるかのように言った。

 頼子は、遅く生まれた子供だった。父が四十五、母が四十三の時の子供で、両親のしつけは厳しかった。

 高校卒業まで門限は厳守、破ると閉め出しや外出禁止、食事抜きなどの罰を受けた。罰はそのときによって違った。

 頼子は親の言うことを聞く娘だった。妹の芽衣子は早いうちから反抗的で、しばしば父に平手を食らわされた。

「理由があるなら聞くよ。でもこんなのあんたらの好みじゃん。厳しくしとけば自分たちが安心できるんでしょ」

 妹は黙って叩かれる性格ではなかった。父の平手は止まらず、母は父ではなく口の減らない妹を諌めた。

 そういう光景を頼子は何も言わずに見ていた。

 言うことを聞けば叩かれずに済むのだ。親の決めたルールに不満を感じなかった頼子は、妹を慰めることも非難することもせず、よくめげないものだと思って見ていた。

 一方で、自分が親の言葉に従うのは、自分の理想と親の理想とが食い違わないからだという自覚もあった。親だから従うのではない。もし芽衣子のように自分と親の考えに隔たりができれば、そのときは妥協せずに反抗するだろうとも思っていた。



 紗枝との電話を切って階下に降り、台所に向かうと、母が昼食を食べていた。

「あら、お昼食べるの?」と立ち上がる母を頼子は「いいよ」と止めて

「適当にやるから。食パンまだあったよね?」と冷蔵庫を開ける。

 こういう時、以前の母ならあらかじめ昼食はいるのかと聞いていた。聞きそびれて頼子がいいと言っても「ちゃんと食べないと」と言って、娘のために一人分の食事を作った。

 母は冷蔵庫から適当に食べ物を取り出す頼子に「マーガリンがあと少しかも」と言って、テレビをつけ、自分の食事に戻った。

テレビを見ながら食べるのは行儀が悪いと叱る母だったが、あれ以来、特に頼子が台所にいると、母は食事をしながらテレビをつけるようになった。つまらないと言って嫌っていたはずのバラエティー番組を見るでもなく眺めている。

「芽衣ちゃんはサークル?」

 トースターを覗き込みながら頼子は訊ねる。

「さあ、十一時頃に出て行ったけど」

 母はテレビを見つめたまま言う。

「芽衣子やあなたが外で何してるかなんて、お母さん、全部は分からないから」

 頼子は母の言葉には反応せずに食卓につき、白髪の増えた母と向かい合う。昔は、白いものが目立つ前に染めに行き、娘にも夫にもそれが増えているのを悟らせなかった。

 母の疲れた顔の原因が自分にあることは分かっている、だが頼子には罪悪感が感じられない。悪いと思えない娘である事を申し訳ないと思う。

 日曜日の正午過ぎ、父も仕事で出かけ、家の中では趣味のない母と頼子がバラエティー番組を横目に見ながら、違う昼食を食べている。

 父は去年定年退職をしてからどこかの駐車場で警備員の仕事を始めた。警備員と聞いた時、学生時代ゲバ棒を振り回していた父にうってつけだと頼子は思った。

 父は酒を飲むと学生の頃の思い出を得意げに話した。俺は警官相手に戦った、あの頃の若者は今と違って目標や野心があった、それは砕けたが、その闘いは無駄じゃない、俺はそれを誇りに思う。

 幼い頼子は両親が何か立派なことをしていたのだと信じ、父の話の横で母が「子供の前で」と嫌な顔をするのが不思議だった。

 長じてからそれが学生運動の話だと気付くと、頼子は両親を嫌悪した。当時の人間がどういう思いで運動をしていたのか、父母が何を考えていたのかは分からないし、それを否定するだけの知識はない。だが、今現在振り返って世間に誇れる話ではないと頼子は思う。

 父を下品だと思った。小言を言うだけで父の自慢話を止められない母を愚かだと思った。

「昨日、演奏会だったんでしょう?」と母が言った。

 その言葉がはっきり聞き取れなかった頼子は、一瞬テレビの声かと思い、テレビを見、それから母を見る。母がちらりとこちらを見たのに気付いて、それが母の言葉だったと気付く。

「うん。町田でやってきた」

 演奏会というのは、母がライブという言葉を嫌って代わりに使う言葉だった。

 母はテレビのボリュームを下げて頼子の顔を見、どう言ったらいいのか分からないというように、ええと、と口ごもってからやっと「うまくいったの?」と言葉をつないだ。言ってすぐに不自然じゃなかっただろうかというように不安そうな目をテーブルに向ける。

 頼子は母の質問の意図が分からぬままに

「うん、お客さんもけっこういて、マスターや梢の学校の子たちにも好評だったよ。梢もすごく上達してるし」と母の反応を窺う。

 母は「そう」と頷き、また言葉を探してから、今度は「楽しい?」と尋ねる。

 母の真意がますます分からなくなる。

 ピアノの演奏会やコンクールのあと、母が知りたがったのは評価や得点、審査員や講師の言葉で、妊娠が発覚したあとではそうした質問も減っていたが、大学生活が軌道に乗り始めるとまたそうした評価を聞きたがった。頼子は困惑しながら「うん」と頷く。

 母はもう一度「そう」と頷いて「楽しいなら、よかった」と視線を落して微かに笑った。

「見てない?」とテレビを消すと、母は食べ終わった食器を持って流しに向かい、カウンター越しに「紅茶飲む? 水出ししてあるの」と頼子に声をかける。

頼子が頷くと、母は紅茶の入ったグラスを持ってまた向かいの椅子に座り、グラスの一つを頼子に渡した。

「ありがとう」

 そう言って受け取った頼子の困惑を見てとった母は、笑みを漏らす。

「いえね、あなたが、本当はピアノ、嫌いだったんじゃないかって心配になったの」

 溶けた氷がグラスの中で崩れて、涼しげな音を立てて揺れる。母は紅茶に口をつけた。

 妊娠が分かった時、頼子は産むと言い張った。学校もピアノもやめて育児に専念すると主張した。ピアノでプロになれるわけがないし、両親だってゆくゆくは頼子が専業主婦になることを望んでいる、だったら今の進路の先に意味はない、予定が少し早まるだけだと頼子は言った。頼子は十七だった。

 ミントの香る紅茶だった。頼子は喉を潤しながら、母が言ったのはそのことだろうと考える。ピアノは、父の反対を押し切って母が娘二人に習わせたものだった。

「芽衣子、今サークルでキーボードを弾いてるんですって」

 母は笑った。さっき聞いたら嫌味を言ったくせに、気まぐれな人だと内心苦笑しながら、それにほっとしている自分もいる。

 頼子は「そうなの?」と興味ありげにテーブルの上で両手の指を絡ませる。

 芽衣子が大学で音楽を始めたことは、台所に置きっぱなしにされたCDやスコアブックから予想がついた。

「芽衣ちゃん、何年やってたんだっけ」

「五年生までね」

「けっこうブランクあるよね」と頼子が笑うと、母は

「それがね、そうでもないのよ」と内緒話をするような楽しげな顔をする。

「ピアノやめてからもね、あなたのいないときに時々弾いてたの。高校でちょっとご無沙汰してたけど、でも吹奏楽やってたでしょ」

 母は当時の妹の誇らしい一面を思い出したように、ふふっと笑う。頼子は母に調子を合わせて

「芽衣ちゃんそんなことしてたの」

と驚き、そんな芽衣子が可愛いというように笑ってみせる。

「今のサークルも、あなたの影響かしらね」

 だとしたら、コンプレックスの裏返しじゃないの、と頼子は思う。

 一見不仲な娘たちが、反発しながらも惹かれ合っている、その筋書きが母にとっては嬉しいのだろう。目を細める母を見ながら、頼子は、それが母にとって嬉しい解釈であればそれでいいと考える。もとより芽衣子の気持ちなど分かるわけがなく、自分自身の気持ちさえ信用ならない。芽衣子は実は自分を慕っているのかもしれないし嫌悪しているかもしれないし何とも思っていないのかもしれない、そのどれであっても、頼子にはどうでもよいことだった。

 妹の好意も悪意も、両親や教師や学友と違って利益にも害にもならないのなら、気にすること自体面倒だと思う。

 母が仲の良い姉妹の姿を思い、自分の与えた傷が癒されるのなら、母の中の娘像に沿った人間でいればいい。頼子も芽衣子も母が思うほど温かくもないし素直でもないが、親の子供を見る目などそんなもので、そのフィルターの向こうで結ばれる像が親にとって嬉しいものであれば、親は満足なのだと思う。そこを満たすことでしか孝行などできないと思う。

 母の話に頷きながら食べていたトーストの最後の一口はすっかり湿気ていて、頼子はそのボソボソしたものをミントの香りのするお茶で流し込んだ。

「紅茶ありがとう。おいしかった」と言って皿を下げ、母の下げた食器と一緒に洗い始める。母が「ありがとう」と言って隣に立ち、皿を受け取って拭き始める。さっきまで不機嫌そうだった母は、すっかり上機嫌になっていた。

「ねえお母さん、お父さんの誕生日、どうしよう?」

 母の機嫌が悪くならないよう、頼子は母の好みそうな話題を振る。

「そうねぇ、もうネクタイは使わないし……」

 母はうきうきと考え始める。

「頼子、携帯のストラップなんてどう? お父さん、自分でひも通して首にかけてるじゃない」

 それじゃあ百均で買えちゃうよと笑う、その間、自分はいい娘ぶっているのだという考えが頭の中にずっとある。

 子供を殺した人間が母親に媚びる姿は、とてもいびつで滑稽ではないか、と頼子は自分を見下ろして思う。



 堕ろしなさいと最初に言ったのは母だった。

「たぶらかされたんでしょう、ね、怖かったでしょ、忘れなさい、なかったことにするの」

 母は頼子から見ても可哀そうなほどうろたえていた。

 数回は殴られるだろうと覚悟していたのに、父は頼子を殴らなかった。それなのに頼子の妊娠を面白がった芽衣子は殴られた。

 芽衣子は、「頼ちゃんは子供作っても殴られないんだね、私だったら殺されてるよね」と言って腫れた顔を引きつらせて笑った。

 避妊はしていた。望んでいない妊娠だった。だが頼子は、やる以上はできてしまうこともあると腹をくくっていたし、その覚悟なしにするものではないと考えていた。それは石田にも話していた。

「そうしたら、私は学校をやめて産むね。優さんが働き始めるまで、実家で育てて待ってる」

「もしそうなったら、出世払いだな。ご両親にツケておいてもらわないと」

 そう言って石田は笑っていた。頼子は本心から言っていたが、石田がこのときどう考えていたのかは分からない。頼子が妊娠したと言ったとき、石田はこのときの言葉を守ろうとした。仕事に就くまで待ってほしい、それまでの費用は必ず返すと言ったのだった。

 両親が反対するのは分かっていたが産んでしまえば手を貸すという確信が頼子にはあった。子を産んだ娘を勘当するより、自分の目の届く範囲においてこれ以上外聞を悪くしないように気を遣い、頼子にもその子供にもそれなりであることを強要するのが両親のやり方だと頼子は考えた。幸い、財産はある。家に置いて近所の目に触れることを嫌うなら、外に部屋を借り、そこに娘と孫を住まわせ妻に面倒をみに行かせる、父はそういうやり方をする人間だ。

 きちんとした人なのだと思う。だがひどく矛盾した人間だとも思う。両親の出会いが大学の学生運動の中でだったと知って以来、頼子には両親の掲げる理想がハリボテにしか見えなくなった。古臭い父権を誇示する父、良妻賢母であろうとする母、娘たちには清く正しくと教え込み、酒を飲んでは今の生活を否定するように学生時代を述懐する。

 酔った父の語るそれが何なのか知りたくて本を読み古新聞をあさった。そして知った。

 彼らの主義主張は分からなかったし、二十歳を過ぎた今になっても分からない。そのとき中学一年だった頼子の感じたことは、そうした学生たちの性のありようへの吐き気のするような嫌悪感。

 そこに踏み込んで、自分は綺麗だったなんて言えるわけがない、頼子は両親に対してそういう目を向けている。

 まだ付き合い始める前、塾の休憩時間に、頼子は家の厳しさを石田に愚痴りながら、両親に対する嫌悪をこぼした。

「三木本さんは潔癖なのかな」と石田は言った。

「それだけで、全否定することないんじゃない?」

 石田の言うことはもっともだと思われた。だが頼子は言い返した。

「でも、当時の母はモテただとか、それを射止めただとか、そういうことを言うんですよ。学生運動やらストやらでお祭り騒ぎの大学で、モテる女子学生って、高嶺の花とは違うでしょう?」

 お父さんも失言の多い人だねと言って石田は笑った。

その石田が、話に上がった両親に頭を下げに来たのは頼子が妊娠二ヶ月半の時、妊娠が分かってから半月後の寒い日だった。

 必ず検察官になって頼子さんを迎えに来ます、だからそれまで、と言う石田を玄関にも上げずに、父は高校生を孕ませるような検察官など司法の場にはいらんと言い、その後ろから憔悴した母が不安げにそのやりとりを見守っていた。

 三度目の訪問のあと、石田は諦めようと言った。胎児は四ヶ月目に入っていた。

 通い慣れた石田の四畳半のアパートで、子供を堕ろせと言われた頼子は「なんで」と声を荒げ「君の両親が反対している」とうなだれる石田に「関係ない」と食い下がる。

「あの人たちが何言おうと関係ないでしょ。もともと娘にそんなこと言えるほど立派な人じゃないんだから」

「そういうことじゃない」石田は言う。

「もし駆け落ちするだけの覚悟があって、その先もきちんとやっていく力があるなら、それもありだよ。でも俺たちは頼ろうとしてる。親が認めていないのに、親の協力を前提に話を進めるのは、間違ってるよ」

「優さん、賛成したじゃない。私の話を聞いて、それもいいって言ったじゃない」

「説得できると思ったんだよ」

 石田の声が大きくなる。頼子は黙った。

 自分は最初から説得できるとは思っていなかった。理屈は通じない、口答えすれば芽衣子のように顔が腫れるまで叩かれる、遠い記憶の中には父の怒声に泣く母の姿もある。

 そういえば石田にはそうしたことを言っていなかったと頼子は気付く。小学生の芽衣子を雪の降る中外に引きずり出し、庭に積もった雪の上に組み伏せた父と、そのまま芽衣子を閉め出した母。頼子は妹が動かなくなったら助けに行こうと思いながら二階の自室から雪の上で泣く芽衣子を見下ろしていた。痣がみっともないからと、初夏に長袖姿で登校することを強いたのは母だった。虐待のニュースを見るたびに、しつけとそれの線引きが分からなくなる。芽衣子は、自分の受ける暴力をどう思っていたのだろうか。

「堕ろしてくれ」と石田は言った。

 父がそういう人だと知っていたら、石田は自分を抱かなかっただろうか。

「ごめん、頼子。本当にごめん」

 初めから子供ができると分かっていたら、石田は自分を抱いただろうか。

 すぐに答えは出なかった。

 数日経って、頼子は石田に「堕ろすね」と言った。石田は何度も謝り、両親は安堵した。そのどちらからも何も感じなかった。胎児に対する悲しみや哀れみすら感じなかった。頼子の胸の内には、両親の反対で意志を覆してしまう自分自身への失望だけがあった。



 部屋に戻ってピアノを弾こうと課題曲の譜面を開くと、中からライブの譜面が落ちた。拾い上げた譜面を見つめ、一昨日の石田を思い出す。大学院は順調だと言っていた。頼子は素直に喜んだ。未練がないと言うと嘘になるが未練という言葉をつけるには頼子の中にある感情は冷たい。

 感情に当てはまる言葉が見つからないのはよくあることだった。

 五線の下に書かれた詞が目に入り、その言葉が読むつもりもないのに頼子の中で意味を紡ぎ、そこに西野の声が重なる。西野は詩人だと頼子は思う。声楽の授業で海外の歌の解釈をしていることもあってか、難しい言葉を使うことなくぴたりと感情に名前を付ける。感情的になったときの言葉や態度は幼稚なのに、詞の中ではどきりとする言葉を持ってくる。それが昔から不思議だった。西野なら、この名前の見つからない冷めた執着にも言葉を与えられるのかもしれない。

 西野はずっと石田を嫌っていたが、頼子は最初からそれを相手にしなかった。西野の言葉が、石田そのものではなく〝自分の恋人である男〟に向けられていると、頼子は最初から気付いていた。



「どこがいいの。なんか冴えないよね、真面目そうだけど」

 文化祭で石田を紹介してから、西野はことあるごとに頼子に突っかかった。

「真面目なら十分」と頼子は言った。

「ええ、なんかやだ」と西野は不満を口にした。

「頼子には、もっと格好いい人が、並んで絵になる人がいい」

 口を尖らせる西野に、紗枝は「あんたの趣味でしょ。格好いい男がいいなら、自分で捕まえれば」と言って笑った。

 西野が男と付き合い始めたのは、その直後だった。

 頼子の妊娠を知った西野は激昂した。学校を休んでいた頼子は、携帯に残る着信履歴の多さでそれを窺うことしかできなかったが、あとで紗枝から「石田さんを殴りに行きそうな勢いだった」と聞かされた。

 堕ろしたとメールをしたあと、紗枝は電話をかけてきて、西野は頼子を呼び出した。中絶した翌日、頼子は学校帰りの西野と会った。中絶を決めた事情を話すと、西野は鼻筋の通った整った顔を歪めて「信じらんない」と言った。

 西野はもう一度「ほんと、信じらんないよ」と言った。駅前のハンバーガーショップで、制服姿の西野と私服の頼子が向き合っていた。

 頼子は何も言わない。こじ開けた子宮にまだ痛みが残っている。早く帰って横になりたかった。

「頼子って、もっときちんとした人だと思ってた」

 頼子はすぐには答えずに、温かいコーヒーに口をつける。カフェインの入った飲み物は久し振りだった。

「きちんとって?」

 頼子は聞いた。

 西野は、そんなことも説明しなきゃいけないのかというようにふて腐れて答えない。頼子はその態度を面倒だと感じながら、言葉を続ける。

「妊娠して子供を堕ろすような女は、たしかにきちんとした人じゃないね」

久し振りのコーヒーは苦く、口の中に留まる香りが胃を不快にさせる。妊婦は味覚が変わるというが、もう頼子の腹に子供はいない。

「石田もだよ」と西野は怒りをあらわにする。

「妊娠させて堕ろさせて、最低じゃん」

「避妊はしてたよ」

 頼子は暗い声で、だがはっきりと言った。単語に驚いたのか雰囲気に押されたのか西野は言葉を詰まらせ、気まずそうに視線を落とす。その仕草が子供のようだった。自分に処女性など求められても迷惑だと言い、今ここで関係を絶ってしまいたいと思う。頼子は続けた。

「梢が、結婚までやるなとか、二十歳までやらないとか言うなら分かるよ。でも、そうじゃないでしょ」

 何が許せないの?

 頼子は静かに、苛立ちを抑えた声で言った。

 男と付き合ったことか、寝たことか、孕んだことか堕ろしたことか。そのどれも正しいと言うつもりはなかったが、西野に非難される覚えもない。

「堕ろせって、石田が言ったんでしょ」

「そうだよ」

 だから堕ろした。石田が言わなければ、多分産んでいただろう。

「最低だよ」

「何が?」

 嫌悪感を隠さない西野に、頼子は感情を抑えた声で言う。言い返せなくて悔しいのか西野は足をカタカタと鳴らして怒りに顔を歪めたまま目を泳がせる。バカだの嫌いだの幼稚な言葉が飛び出してきそうな雰囲気だった。西野が次の言葉を見つけるより先に、頼子が口を開いた。

「妊娠して堕ろしました。男とも別れました。ビッチでも人殺しでも好きに罵っていいよ」

 頼子は、暗いうろのような目でコーヒーを見つめている。西野は、何か言おうと口を開くが、言葉が出てこない。西野の言葉を待たずに、頼子は言葉を続ける。

「でも、梢は好きでもない彼氏と平気で寝るんでしょ」

 西野は、頼子へのあてつけのように男を変えて、寝たと言った。

 西野は何も言わなかった。



 そういう人間を、恋愛を、見下し、軽蔑していた。

 ピアノの前に座り、頼子は梢の詞を読んでいる。その端々に自分への恨みつらみが見てとれるように思うのは、自意識過剰だろうか。

 〝かくご〟という文句が目に入り、自分は何を覚悟していたのだろうと考える。覚悟していた、つもりだった。だが実際には堕ろして別れた。残ったのは、高校で妊娠して堕胎して一年ダブったという客観的な事実。何が覚悟かと頼子は自分を笑う。

 堕ろしてから頼子を苦しめたのは、子供や両親への罪悪感ではなく、堕胎という行為への嫌悪でもなく、自分自身が、自分の軽蔑していた人間となんら変わらないという意識だった。他に感じた物といえば石田の親と妹に対する申し訳なさぐらいだ。真面目な兄が高校生を孕ませて中絶させた。頼子と同い年だという妹に、その事実は受け入れがたいものだったに違いない。

 だが、それだけだった。

 ライブの譜面を閉じて、課題曲に移る。

 ピアノの音の中に「楽しい?」という母の声が蘇る。やめればよかったとも、やめなくてよかったとも思わないが、ピアノの前では無心になり、自分の愚かさから目を背けることができた。

 子供ができても構わない、自分は将来を見越して考えている、そう思っていた。

できてもいいと言って交わり妊娠し、結局堕胎するのも、愛情という不確かなものを拠り所に産んで、後に苦しむのも、頼子には軽蔑の対象だった。だが、今の自分と何が違う。

 頼子を苦しめたのはそれだった。そして堕胎そのものではなく〝そんなこと〟で苦しんでいる自分を薄情だと思った。

 それから四月になるまで学校を休んだのは、転校しろと言う父と寝付いて看病が必要になった母と、しばらく人に会いたくないと思った頼子の妥協点だった。父は一年遅れで卒業するという娘に何も言わず、芽衣子は、あれ以来父が弱々しくなった、叩かれなくなったと喜んでいた。

 父も母も老いた。

 それを助長したのは自分だった。

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