第三章
第三章-1
第三章
1
頼子の元恋人の石田優(すぐる)にライブのことを知らせたのは紗枝だった。頼子も西野も、会場で姿を見るまで石田が来ることを知らなった。
「いいから」と西野に腕を引かれ、外に引っ張り出された時、石田のことだと紗枝は思った。面倒だと思いながらも、西野が怒るのは分かり切っていたので、促されるままに通路に出た。
「なんで石田が来てんの」
西野は薄化粧の整った顔を怒りで引きつらせる。自分が呼んだと正直に言うと、西野は今にも掴みかかりそうな剣幕で、なぜ呼んだのかと詰め寄る。
どう説明しても納得しなさそうな西野に自分の胸の内を話す気になれず、紗枝は「一度ちゃんと話し合って欲しかったんだよ」と無難な答えを選んだ。
「そんなの、紗枝が手を出すことじゃない」
その通りだと紗枝は頷いて「私が気を回すことでもないし、あんたが怒ることでもないよ、頼子の問題なんだから」と続ける。西野の顔が歪んだ。
「紗枝だって勝手にやったんだから、私だって勝手に怒っていいでしょうが」悔しさと怒りのない交ぜになったような声だった。
紗枝はそれにも頷き、言う。
「頼子はどっちも嫌がるだろうけどね」
西野は、言いたいことはいくらでもあるのに言葉が出てこないような奇妙な顔をして、ふいと顔を背けると、踵を返して楽屋に入って行った。それと入れ替わるように非常階段のドアから頼子と石田が現れる。頼子も石田が来たことに驚いているはずだった。だが、まったく動じていないような顔で「石田さんから聞いたよ」と言い、気を遣ってくれてありがとうと笑う。その後ろで石田が軽く会釈をした。紗枝が勝手に連絡したことを謝り、「久し振りの再会はどうだった?」と尋ねると、頼子は元恋人をちらりと見て、「この後、外で話そうかって」と言い、だから今日はすぐにあがるね、と申し訳なさそうな顔をする。分かった、前田たちにも伝えると言って紗枝は会場に向かう。うしろから頼子がありがとうと言うのが聞こえた。その言葉が本心なのか、紗枝には分からない。
高校二年の一月、頼子は子供を堕ろし、その後学校を休んで留年した。中絶のことを知る同級生は西野と紗枝だけだったが、留年の事実は広まり、あれこれと噂がささやかれた。理由を聞かれ、西野も紗枝も知らないとシラを切り通した。ほどなくして、噂は収まった。
ごく一部の人間しか知らない事実を、前田は知っていると言った。
「詳しく聞かせてもらおうか」と、芝居がかった口調で前田は言った。ライブの会場をあとにした三人は、居酒屋に移っていた。
「元カレさん、同級生じゃないよな。年上に見えたけど」前田は煙草に火をつける。
塾でバイトをしていた大学生で、今は院に通っていると紗枝は答えた。頼子が高校から通い始めた塾でチューターをしていたのが、大学に入ったばかりの石田だった。
前田は煙を吐いて「どうして産む気もないのに作っちゃうかね」と言って酒をあおり、「そんなに気持ちいいもんかね」と下卑た笑いを浮かべ、温かいお茶を舐めるように飲んでいるひよりに目を向ける。何も言わずにひよりは目を伏せた。
「頼子は産むつもりだったんだよ」と紗枝が言う。不可解だというように顔をしかめる前田に紗枝は話を続ける。
妊娠が分かった時、頼子は高校をやめて子供を産むと言い張った。両親は当然反対したが、頼子は聞き入れなかった。
「石田さんが社会人になったら一緒になるから、それまでは実家で育てるって言ったのね」紗枝はその頃の頼子を思い出し、ふっとため息をつく。
頼子がなぜそんなことを言いだしたのか分からなかった。進学校の清南女子の中でも頼子は優秀で、幼い頃から続けているピアノの腕前もなかなかのものだった。大学はそちらの方面に進むと言い、周りもそれを当然と思っていた。その頼子が高校をやめ、ピアノも捨て、子供を産んで育てると言う。紗枝や西野だけでなく、頼子の両親も娘の言葉を信じられなかったという。
石田がたぶらかしたんだ、と西野は言った。勉強もピアノも一生懸命やっていた頼子がそんなことを言い出すなんて、石田が何か吹き込んだとしか思えない、紗枝は西野のそういう言葉を黙って聞いていた。
高校一年の文化祭で、頼子に恋人だと紹介されたときから、西野はずっと石田を嫌っていた。
「あんな冴えない奴、頼子に合わないよ」と悪態をつき、「頭はいいみたいだから、ちょっと格好いいこと言って女を乗せるんじゃないの? 頼子も経験ないから、それで舞い上がってさぁ」とけなす。
どうしても石田を認めたくない西野は、頼子と石田が付き合い始めてからずっと文句を言い続けていた。だいたいは紗枝が聞き役だったが、頼子の耳に入ることもあった。そのたびに頼子は「真面目で、いい人だから」と言って笑うだけだった。
妊娠したと聞いた時、西野は怒り狂った。ぶん殴ってやると息巻く西野は、石田の家や大学を知っていれば飛んで行って殴り付けそうな勢いで、紗枝は西野を宥め、石田に対する呪詛のような文句を聞き続けた。
頼子は何も言わなかった。妊娠した、産むつもりだと言っただけで、石田を庇うことも弁解することもなかった。それが一層西野を苛立たせた。
頼子は学校に来なくなり、こちらからのメールや電話にも反応しなくなった。頼子から連絡があったのは中絶のその日で、「今、堕ろしてきました」という文から始まるメールが紗枝と西野の元に届いた。メールには、心配をかけたことへの謝罪と、しばらく学校を休むということだけが簡潔に書かれていて、石田のことには触れていなかった。
紗枝は電話をかけた。頼子はすぐに出た。
親に説得されたのかと尋ねた。頼子は、そうではないと言った。
「優さんが堕ろせと言ったの。だから堕ろした」頼子は、言葉少なにそう説明した。
居酒屋に入ってからも紗枝の酒の勢いは止まらず、すでに三杯目を飲み始めていた。前田は二杯目の梅酒を少しずつ飲みながら、紗枝の話を聞いている。ひよりだけがすっかり醒めていた。
「男が堕ろさせたのか」
前田が先を促す。紗枝は酔って頭が重たいのか、大仰に頷く。
「梢はそれで余計に石田さんが嫌いになったみたい」
紗枝は煙草を吸おうと箱に手を伸ばし、中身がないのに気付いて、前田に煙草をねだる。
「またもらい煙草かよ」と言いながら、前田は煙草を差し出し火を付ける。
「お互い様でしょ」紗枝は深呼吸をするように煙を吸い込み、長い息を吐いた。遠くを見るような目をしてふっと表情を緩め、頬杖をついてぽつりと呟く。
「石田さんもよく言ったと思うよ」
前田は不思議そうな顔をして「好意的じゃん」と言う。紗枝は空になったグラスの底の氷をマドラーでつついて、「妊娠はさすがにアレだけどね」と言い、「梢ほど毛嫌いしてないよ。高校生でセックスなんて珍しくもないしさぁ」と続ける。
「嫌味っスか。どうせ彼氏いない歴イコール年齢ですよ」と前田が笑う。紗枝はそれには答えずに、とろんとした目でグラスを見ている。
「女の判断に任せるとか言う男いるじゃん。アレ嫌い」呂律の回らない口調で紗枝は言う。
なんでまた、と前田が尋ねる。
紗枝は、力の抜けた顔をぎゅっとしかめて、殺すも生かすも、女の責任になるのが嫌だと言った。
ずっと黙っていたひよりが、「女の責任」と言葉を繰り返す。
「そうよひよちゃん、女の判断で人一人産むか殺すか決めろってのよ。ひどくない?」くだを巻く紗枝に、ひよりは少し後ずさる。
「紗枝っち、あんまひより苛めないで」と前田が笑う。苛めてないもん、と紗枝は口を尖らせる。その言い方が面白くて、ひよりと前田は笑う。
紗枝は二人の反応は気にせずに、テーブルに顔を乗せて話し続ける。
「産んでたら、頼子、今頃はやつれたお母さんでしょ。石田さんが言わなくても、親が堕胎させただろうし。でも、石田さんが言わなきゃ、頼子が一人で決めて堕ろすことになるんだよ。自分だけの判断で子供殺したって思い続けるんだよ」
紗枝は頬をテーブルに押し付けて、ふぅと息をつき、
「私は、石田さんはよく言ったと思うよ」ともう一度言った。
ふと、焦げ臭いにおいが鼻をついた。前田とひよりがテーブルの上に目を走らせると、紗枝の持った煙草の火に、長い髪の先が掛っている。
前田が慌てて紗枝の手から火のついた煙草を取り上げて灰皿に片付けた。紗枝は、とろんとした目のまま、一人でうんうんと頷いていた。
西野は、石田が悪者で頼子を被害者だと思っているが、紗枝にはそうは思えなかった。新年度が始まり、学校に戻ってきた頼子は、石田とは別れた、と紗枝と西野に告げた。頼子を被害者だと思っていたのは西野だけではない。両親はもちろん、担任までもがそういう態度だった。事情を知る紗枝に担任は、頼子を見守ってやるようにと声をかけた。紗枝は素直に分かりましたと答えたが、胸の内では頼子はそんな弱い人間ではないと思っていた。頼子は自分で選んで自分で考えてこの道を選んだ。大変なことだったとは思うが、同情する気にはなれなかった。
頼子が被害者ぶっていたわけではないが、周りに同情されて石田を悪く言われて、それでも何も言わない頼子が、紗枝には不可解だった。学年は別れたが、三人の付き合いは再開した。西野も頼子も石田のことには触れない。なかったことにするような雰囲気に苛立った。
だから、石田を呼んだ。石田と連絡を取った。頼子が迷惑に感じるのも、自分の自己満足なのも分かっていたが、呼ばずにはいられなかった。
まだ妊娠が分かる前、三人で恋愛について話したことがあった。「二人とも、私のことドライだとか言うけど、頼子もけっこうドライじゃない? ドライっていうか、クールで打算的?」
紗枝の言葉に、西野は「何言ってんの、あんだけあれこれ男に条件付けといて」と笑う。だが頼子は否定せずに、「少しも打算的じゃない人間て、頭悪いだけじゃない?」と言った。頼子は穏やかに笑っていた。
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