第二章-3


 町田駅のバスロータリーから原町田大通りを東に行くと、草の植えられた中央分離帯がある。待ち合わせの時間より早く町田に着いた前田は、109の前を通り過ぎ、そこに立った。

 大学のそばよりも車が多く日も当たる。空は雲があったが晴れていた。日本海を通過していた台風はすでに本州から離れたらしく、風もない。汗が首から胸に流れる。大型の車が通るたびに風が起こるが空気は熱く、長袖のシャツはすでに腕に貼り付いていた。

 大学に入学してすぐ、前田は救急車で運ばれたことがあった。そのとき、前田はこの中央分離帯に横たわって吐瀉物に頬を浸したまま、近づいて来る赤いランプを見ていた。前田はその光景を思い出す。

 その日は高校の同級生と町田で会う約束をしていた。大学に入ったが馴染めない、思うようにいかないと友人は言い、前田は志望校に受かっておいて何を言うと思いながら、会って話を聞く約束をした。

 その日の朝、何が原因だったかは覚えていないが、おそらく前田が散乱する洗濯物を踏んだとか食器を定位置に戻さなかったとかそんなことだろう。

「家族でしょう!」と母は叫んだ。

「共同生活なんだからルールぐらい守れッ!」

 そう言って足元に転がっていたアイロンを投げた。避けたらアイロンは柱に当たって二つに割れた。中の配線がはみ出したアイロンをまたいで部屋を出ようとする前田の前に立ちふさがって母は髪を掴んだ。前田は母の腕を掴み、目の前の母の顔を睨みつけた。母の手は離れなかった。

「いいご身分だね」と聞き慣れた文句を母は言った。

「でもね、その服も学費もお父さんのお金なんだよ。あんたの物なんてないの」

 母はぐいと髪を引っ張った。頭を引いて母の腕を引き離すと、髪がブチブチと抜ける感触がして、母の手がほどけた。掴みかかる母を振り払い、顔に平手を食らわして家を出た。指で髪を梳くと、髪は抵抗なくざらりと抜けた。抜けるだけ抜いてから、まだ長かった髪をクリップで止めた。引っ張られた頭皮がひりひりして、叫び出しそうな衝動に駆られたが、約束があるのだと思いとどまり薬局で安定剤を買って飲んだ。容量を守っては効かないので箱の半分をお茶で流し込んだ。

 飲み始めたのは中学の時、「時々本当に母さん殺したくなるんだけど」と父に話すと、父は気持ちは分かるがそれは困るから耐えろと言って、自分の飲んでいた市販の安定剤を前田に分け与えた。以来気分が悪くなると愛用している。

 いつもなら箱半分飲んでも何でもない。だがそのときは前夜に飲んだ頭痛薬やカフェイン剤が残っていたのか、一気に目が回った。

 友人に何と連絡したのかは覚えていない。気付いたら夜で、中央分離帯の上で自分の吐いた物に顔と髪を浸して横たわっていた。

救急車を呼んだのは、通行人から報告を受けた警察で、赤いランプを頼りに探したのか、呼んでもいないのに現れた友人が救急車に乗り込んだ。救急隊員が顔を拭き、吐くための器をあてがう。隊員は前田の後頭部のクリップを外し、「彼氏に持っててもらおうね」と言って友人に渡す。

「彼氏だって」と友人は照れたように笑った。それがたまらなく気持ち悪かったが、前田はそれを抑えて笑った。

 中途半端だ、と前田は思った。死ぬつもりでもなく、ただの飲み合わせのミス、致死量でもない。バカバカしくて情けなくて、胃からこみ上げる物を身体を丸めて器に吐き出しながら、消えてしまえと思った。自分も、自分に関わる人間も。

 その救急車騒ぎが祖父の状態が悪化した理由の一つだったかもしれない、と前田は思う。前田の救急車騒ぎが五月、祖父が死んだのは七月だった。あのとき自分がもっと大量の薬を飲んで死んでいたら、祖父は死ななかったかもしれないという考えが、前田の中にずっとある。

 前田、と呼ばれて、前田は驚いて振り返った。ひよりが、いつの間にか前田の後ろに立っていた。

「びっくりした」と言うと、ひよりは「あそこから、人が立っているのが見えたから」と東急ツインズの東西の建物をつなぐ連絡通路を指差す。五階の位置にある通路からは、かろうじてこの中央分離帯が見える。

 あんなところに立つ人間は前田ぐらいしかいないだろうと思って近くに来たら、やっぱり前田だった、とひよりは笑った。

「目ェいいなあ」と前田は呆れたように言う。

「私、裸眼だとひよりの顔も分からない気がする」と言うと、ひよりは「そんなに悪いの」と驚く。

「中央分離帯で眼鏡奪われたら、車道渡るのに車見えなくて撥ねられるね」と笑うと、ひよりは苦笑する。

 トラックの一団が通り過ぎ、その向こうから歩行者の好奇の目が見える。前田は伸びをしてひよりを見る。

「これぐらい広いと怖くないっしょ。気持ちよくね?」

 ひよりはううんと首を傾げて「気持ちいいか分からないけど、面白い」と言って笑う。前田はその言葉に満足して、笑顔をつくった。



 ライブ会場は、ジャズ喫茶のような小さなバーだった。小さいものの、楽屋もあり、一段高くなったステージにはピアノやドラムが置いてある。音楽の好きなアマチュアが、よく演奏しているらしかった。カウンターとテーブル席のうち、前田とひよりは後ろの方の丸いテーブル席に座った。西野と頼子の出番は四組中三番目である。二人が着いたとき、まだ演奏は始まっておらず、まばらに座った客たちはそれぞれに酒を飲み、談笑していた。前の方のテーブルに見覚えのある顔ぶれが見える。頼子と同じ学科の人たちらしかった。

 前田はサワーを、ひよりはカクテルを頼み、ひよりが物珍しそうにバーを見まわしていると、一組目の演奏が始まった。ピアノとドラムの男女のユニットで、ピアノの女性が歌う。ジャズでもポップスでもない、前衛的なユニットだった。

「前もこんな感じだったの?」ひよりが面食らったように前田に耳打ちをする。前田がライブを見に来るのは二度目で、前回の会場もこのバーだった。

 前田は、前回はジャズっぽいのが多かったと言い、「とくにジャンルとか決まってないみたいよ。パンクな人とタイバンになったこともあるって聞いた」と話す。ひよりはへぇと頷いて、カクテルに口をつける。前田は煙草に火をつけた。演奏が始まってから、少しずつ人が増え始めた。

 二組目が始まり、席がだいたい埋まった頃になって、二人の座るテーブルにスーツ姿の女が現れた。

「よっ」と前田の肩を叩いて「疲れた」とテーブルにもたれかかるように席に座る。川島紗枝だった。

「なに、就活?」前田が聞くと紗枝は「合同説明会」と答え、手に持った酒を一気に半分ほど飲み干し、息をつく。

「頼子たち、まだだよね」と確認してから「飯田ひよりちゃん?」とひよりを見る。ひよりが頷くと「川島紗枝です、よろしく」と笑顔をつくる。薬指に指輪があった。ひよりがぺこりと頭を下げると、前田が横から「西野のゴスロリの歴史を知る生き証人な」と茶々を入れる。

「生き証人て何よ、なんか老人みたい」と言って紗枝は前田を睨む。前田はけらけらと笑って、それから紗枝の足元のリクルートバッグに目をやり、「説明会ってどんなんなの?」と尋ねる。

「デパートのワンフロア使ってやってる、小さい奴よ。でも二十くらいの企業が出てたかな」と言い、早いペースで酒を飲み干す。

「就活生なんですか」とひよりが話に加わる。ひよりが敬語なのに気付いて、前田は「タメ口でいいよ、同い年だし」と声をかける。それを聞いて、紗枝は浪人かとひよりに尋ねる。

「一浪です」と答えるひよりに、紗枝は「頼子と同じかあ」と明るい声を出す。

ひよりは「そうですね」とぎこちなく笑ってちらりと前田を見た。

 前田はひよりの視線に気付いたが、あえて無視をして酒を飲み続ける。顔が紅潮しているのが分かった。

「良さそうな企業とかあった?」

 前田の質問に、紗枝は顔をしかめてまだ分からないと言い、それから介護職の給料が他と比べて明らかに低くて驚いたと話した。

「人不足だなんだって言うけど、あれじゃあ確かにねぇ。誰でもなれるけど誰にでもできる仕事じゃないとか言ってたけど、それ3Kで体力とメンタルが持つ人しかできないってことでしょ」

「どこも厳しいもんなぁ。一つも通らなきゃ介護かな。体力はあるし」と言う前田に、紗枝は

「多摩川ならコネじゃないの?」と言う。多摩川は金持ちの子息子女が多いことで有名だった。

「そういうのは多いけどね」と言って、前田は同意を求めるようにひよりを見る。

カクテルをちびちびと飲んでいたひよりは、こくりと頷いて

「そうじゃない人もいる」と言う。

「コネのない少数派にはキツイですよ」と前田は頬杖をつき、コネ就職が多い分そうでない人への情報やフォローが少ないのだと嘆く。

「就職課とか人いないもんね」

 前田の言葉にひよりが頷く。それを聞いて紗枝が首を捻る。

「今みんなネットでやるからじゃない? 力入れてるところは別だろうけど、就職課なんてそんなもんでしょ」

「やっぱりその人次第なんですね」

「ひよりちゃん、敬語」と紗枝が笑う。

 ひよりはしまったというように口をおさえ、それから苦笑して「三木さんたちとは、高校の同級生?」と紗枝に尋ねる。紗枝はそうそうと頷いて「私と梢は幼なじみで、頼子は中学のとき塾で知り合ったのよ。志望校が一緒だったから。三人揃ったのは高校に入ってから」

「その頃の西野はゴスじゃなかったんだよな」と前田が言う。紗枝は「むしろダサい子だった」と言って空のグラスを揺らし、「なんでああなったのか、ホント謎なんだよね。最初男ができたせいかと思ったんだけど、方向おかしいじゃん」

「たしかに、男でああはならんわなぁ」前田は男と並ぶゴスロリの西野を想像して苦笑する。

 ひよりがふと「三木さんは昔から変わらないんですか」と言いだした。

「そうねぇ、中学のときからあんな感じ。清楚な優等生」

 ひよりはすごいなぁと言って笑い、前田はふぅんと相槌を打つ。ひよりが素直にすごいと笑うのを見て、自分が苛立っていることに気付く。

 バンドのボーカルが、これが最後の曲ですと言って歌い始めた。

 前田は立ち上がり、「三木さんたち始まる前にトイレ行ってくるわ」と言って席を離れた。

 トイレの鏡の中の紅潮した自分の顔を見る。何に苛立っているのかよく分からなかった。

 清南女子で留年した子がいるという話を稲城から聞いた。真面目な進学校で、そういう子は珍しく目立つが、その分噂を続ける人も一部を除いて少ない。その噂好きの一人が多摩川にいた。お嬢様校でも色々あるんだねぇ、とその子から聞いた話を稲城は酒の肴にしていた。留年したのが誰だか、稲城も清南女子の子も知らない。ただ留年して二年生を二回やった人間が、自分の代にいるという人づての噂が、清南女子の子と稲城の間で交わされただけだった。

 それが頼子ではないかと前田は思っている。浪人したと言ったが予備校は行かなかったと言う。進学校の清南女子で多摩川に来る人間は少ない。芸術学部でも落ちる人間はほとんどいない。

 高校で落ちこぼれたのという頼子に、そのナリでそれはないだろと前田は思う。それが引っかかって、胸の内で頼子に突っかかってしまう自分がいる。

 何を知りたがっているのか、そもそも知りたがっているのかいないのかも分からない。

 ふと中央分離帯に行きたいと思う。左右で逆に走る車と音、揺れ、それで何も考えないでいられる。

 カウンターで酒をもらい、席に戻るとちょうど前の組が終わるところだった。

「顔真っ赤だけど、大丈夫?」と自分の方が酔っている紗枝が言う。

「足はまだ大丈夫」と答えて席に着く。顔はすぐに赤くなるが実はさほど酔わない、この体質は便利だった。酒で饒舌になったことにして聞ける、話せる。

 こずえーっ、と前方の一団が叫ぶ。西野の大学の友人らしい。舞台にはドレス風のワンピースを着た二人が立っている。マイクの前に立って礼をする長い黒髪の美女を指してひよりが目を見開き、「あれ西野さん?」と尋ねる。

「本当、派手に変わるよなぁ」と言って前田はグラスの中の氷を口に含む。

 頼子がピアノの前に座り、西野が頷いたのを合図に曲が始まった。

 以前、路上ライブのあとで前田は西野に聞いたことがある。どうしてそんなに着飾るのかと。

 西野は「落ち着くから」と言って笑った。その答えの意味が分からなかった。

 舞台の上で歌う西野は美しかった。ピアノを弾く頼子も美しかった。ひよりに目をやると、素直に見とれている。中途半端に笑う以外の顔もできるんじゃないかと、食い入るようにステージを見つめているひよりを見て前田は思う。

 ゆったりとしたピアノの伴奏に合わせて、西野が歌い始める。柔らかなメロディーなのに、その歌声は悲痛に響く。

 曲はオリジナルかと尋ねると、紗枝は、歌詞は西野、曲は頼子が作っていると答えた。

 恋愛を歌っているようで微妙に違った。恋愛まで辿り着けないような女の歌だと前田は思う。

 経済的な自立もなしに愛だの恋だの言う人間が前田には分からない。もちろんそれが一般的には当たり前なことで、法的にも認められているのは分かっている。しかし前田には理解できなかった。

 爪の先、髪の先まで親の金が作り上げたものだという意識が前田にはある。指一本自由に動かすことがそのまま不孝になるように感じている。

 自由であることは不孝だ。

 早くすべてを返したいといつも思っている。だが自分で稼いだ金であってもそれを稼いだ自分の手が親の物だと思うとき、前田はどこまで行っても逃げ切れないと感じる。その感覚がおそらくおかしいのだ、病的なのだということも分かる。けれど、前田の生きてきた二十一年の人生の中では、その感覚が普通だ。

 親の金で、親の物で作られた者同士が、愛だの恋だの語る。前田には、やはり分からない。

 祖父が死ぬ直前、和之は祖父がどこかに電話するのを見ていた。入院費がどうの病院がどうのと言う祖父の言葉から、和之は電話の相手は父だったのではないかと言った。

 父に、祖父が死ぬ前に電話があったかと聞いたが、知らないと言われた。通夜の夜、父の携帯電話の着信履歴を調べたが、葬式会社や親戚からの電話で履歴は流され、祖父の死んだ日のものは残っていなかった。

 祖父を死に追いやったのは父かもしれない。だがそれは別に不思議なことではないと前田は思う。

「怖い歌だね」とひよりが呟く。前田はひよりを見た。紗枝は「ああ、やっぱそう思う?」と言って「さらっと聞く分には分かんないんだけどね、じっくり読むと、結構怖いのよ、梢の詞は」と苦笑する。

 恋を歌っているようで、微妙に違っていた。届かない、届かないと言う言葉が、前田にはどこにも行けない、どこにも逃げられないという風に聞こえた。耳鳴りがした。

 西野は、マイクを握り締めて叫んだ。

 会場が飲まれるのを感じた。



 四曲を歌い終えると、西野と頼子は頭を下げ、そのまま客席に降りて来た。

 前方の大学の仲間に囲まれて、二人は笑顔で話し始める。

「大学の連中も、ゴスじゃない西野って珍しいのかな」と学友にちょっかいを出されて苦笑する西野を眺めて前田は言う。

 紗枝は「声楽の発表なんかは普通のドレスなんじゃない?」と言ってから「でもレアだよね」と笑う。

 いじられ続ける西野を置いて、頼子がこちらに歩いてきた。

 お疲れ、と声をかけると、頼子は「ありがとう、来てくれて」と顔をほころばせた。

「ひよりは、すっぴん西野も三木さんのピアノも初めてだったんだよな」と前田が水を向けると、ひよりは頷き、目を輝かせる。

「ピアノも歌も、すごいよかった。あと、二人とも綺麗でびっくりしたよ」

 頼子は照れながら礼を言う。

 前回よりも鬼気迫る感じだったと言う前田に、頼子は「梢が上手くなってるの。声楽の方もすごい伸びてるみたい」と西野を見る。頼子に釣られてそちらに視線を向けると、西野は携帯で写真を撮ろうとする友人を阻止するように両腕で顔を隠し、別の友人に腕を掴まれ、笑いながら抵抗を続けている。

「西野モテモテじゃん」と前田が言うと、紗枝が携帯電話を取り出して「こっちから隠し撮りしたれ」とシャッターを切る。撮った写真を見て紗枝は「ひどい、ブレすぎ」と言って笑う。ひよりと前田もそれを覗き込んで笑いだした。

 頼子はもう一度礼を述べ、着替えてくると言ってテーブルを離れた。入れ替わりに西野が現れる。遠目で見ても間近で見てもやっぱり西野は綺麗だった。

「よっ、美人歌手」と冷やかす前田を無視して西野は「来てくれたんだ」とひよりの手を取る。

「ちょっとあたしらに礼は」と紗枝が絡むと

「なんでスーツだよ空気読めよ」と西野はスーツの襟をつかむ。

 就活生なめんな、と言って紗枝はグラスに口をつけ、空だったのに気付いてカウンターに目を向ける。自分のグラスも空なのを思い出し、何か注文しようとカウンターを振り返った前田は、視界の隅で頼子を見た。

 出口付近にスーツだか背広だかを着た、ひょろりとした男が立っている。頼子はその男としばらく話し、一緒に外に出て行った。

「あー、もうできあがってんじゃんコイツ。ちょっと外で冷ませって」西野が紗枝の腕を掴む。

「えー」と抵抗する紗枝に、西野は「いいから」と言って腕をぐいと引っ張り上げる。紗枝は一瞬酔いの冷めたような目をしたが、またすぐとろんとし、「わかりましたよォ」と立ち上がる。

「紗枝っち、何か飲む?」

 立ち去る紗枝に向かって前田が叫ぶ。振り返った紗枝はすっかり落ち着いた顔をして、「いいわ、ありがと」と手を振り出て行った。

 ドアが閉まると同時に最後のバンドの演奏が始まった。

「今の、誰だろ」

 ジャズバンドのサックスの音にかき消されるほどの声で、ひよりが言う。

 え? と聞き返すと、ひよりは顔を近づけて「三木さんと一緒に出て行った人。前田も見てたよね、誰かな」と言う。

「よく見てんなぁ」と苦笑して「元カレかね? それとも彼氏候補か」と言って、グラスの底に残った氷を口に流し込む。前田は元カレだろうと踏んでいた。

 ひよりも前田もそれ以上何も言わずに、バンドの演奏を聞いていた。

 二曲目の途中で戻ってきた紗枝は「今日は二人ともすぐ帰るって」と言って席につき、「水貰えるかな」とカウンターを窺う。

「ねえ紗枝っち」前田は紗枝の腕をつつく。そして耳に口を近づけて、声をひそめて言う。

「三木さんと一緒にいた男の人、三木さんの元カレ?」

 途端に、紗枝の表情が険しくなる。

「見てたの」と呆れるように言い、答えない前田に観念したように「そうだよ」と認める。「そっか」と言って前田は黙る。

 ひよりは二人を窺いながら、残り少ない酒を舐めるように飲んでいる。

「それじゃあさ」

 前田は、ひよりにも聞こえるギリギリの大きさを慎重に選んで紗枝に声をかける。

「あの人が、孕ませた人だったりするの?」

 紗枝の表情が変わった。

「頼子が言ったの」

「清南の子経由の噂」

 前田はグラスを持ち上げるが、空だと気付いてテーブルに戻し、ポケットから煙草を取り出した。

「吸う?」と差し出すと、紗枝は無言で受け取り火をつける。前田も続けて火をつけた。

 曲が終わって、拍手が弾ける。前田と紗枝もそれに合わせて手を叩く。

 ひよりだけは、グラスを持ったままじっと二人を見つめていた。

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