第二章-2
2
朝、和之を送り出してシャワーを浴び、前田は食堂に向かった。土曜日の朝だった。留学生は休みらしく、中国人とアメリカ人がそれぞれ群れてテーブルを囲んでいる。そのどちらにも属さない人たちが一つのテーブルに集まっていた。前田は温めたご飯と即席の味噌汁を持ってそこに加わった。
大型テレビからは、誰がチャンネルを選んだのかワイドショーが流れている。子供が親に殺されたニュースだった。それを見ていた韓国人留学生が、日本人はなぜ子供を殺すのかと身も蓋もない質問をする。テーブルにいた日本人は失笑し、韓国にはこういう事件はないのかと尋ねる。韓国人留学生は、あるが日本ほどではないと言う。中国は? と日本人の大学院生が中国から働きに来ている若者に尋ねる。中国人の若者は、地方の農村ではまた違うだろうが、都会では子供が少なく、親戚中で育てているから、こういうことは起こりにくいと言い、「今、中国の都会ではmetabolic syndromeの子供が問題です」と英語交じりの日本語で答える。みんなは笑った。
「でもネグレクトはともかく、しつけで叩いたりはしますよね?」と前田が言う。
それはもちろんするが、日本はしつけの域を逸脱しているケースが多すぎる、と韓国人留学生が顔をしかめる。
「中国や韓国じゃ、日本ほど簡単に産めないんじゃないの? 家の制度が厳しいでしょ」と院生が言う。それはあるかもしれない、とみんなが頷く。
「子供産んでも、親が子供のまんまなんスかね」と就活中のフリーターが言う。
「韓国も中国も、所帯持ったら家の縛りがキツそうだもんねえ」と院生が頷いた。
耳の痛い話だ、と単身赴任中の会社員が苦笑し、「親の世話なんかもきっちりやるんでしょう。うちは子育てよりも介護の方が問題だな」と頭を掻いた。考えたくない、と院生と前田が呻く。「オヤフコウですよ」と中国人が片言の日本語で言った。みんなは笑った。
介護と聞いて思い出すのはひよりのことだった。体調不良と祖母の介護で進学も就職もしなかったが、半年で祖母が死んだので大学受験をしたと話した。もし身体が良くなり、祖母が生きていたらどうしていたのかと尋ねると、ひよりは「ずっと家事手伝いだったかも」と言う。家事手伝いのまま見合い、結婚という人生設計は今はほとんどあり得ないし、そもそもひより自身が結婚願望を持ち合わせていなかった。不思議な娘だった。
飾れば自分と違って映えそうなのに、飾るということをしない。だがそういうことに頓着しない性格かというと、そうでもなかった。言葉や態度の端々に見られる劣等感は、前田をかすかに苛立たせた。苦労しているのだとは思う。卑屈になるのも分からなくはない。だが、前田はその態度が嫌だった。
部屋に戻ると、前田は部屋の壁に備え付けられている鏡に向かい、自分の姿を見つめた。貧相な体だった。細いと言われるが、健康的でもなければ整ってもいない。ふっくらしたひよりの方がよほど女らしい身体をしていた。
紗枝あたりにプロデュースしてもらえば、ひよりもそれなりに可愛くなるのではないかと想像を巡らし、まるで稲城のようなことを考えていると思い、前田は苦笑する。
来週中に出さなくてはいけないレポートがあった。明日は昼からバイトである。前田は机に向かった。前田は資料を取り出し、パソコンを開いた。机の上に消しゴムのカスが散らばっている。時計を見ると、ちょうど模試の始まる頃だった。机の上を片付けると、前田は課題に向かった。
民俗学のレポートだった。テーマは何でもいいと言われたので夜這いについてまとめていた。前田の研究テーマは一貫していて、テーマを与えられればそれを女性学や家の歴史に結び付け、自由と言われれば必ず夜這いや出産といった下半身の歴史を書いて提出した。瀬戸内海でもその研究をしたため、前田は下ネタを扱う学生として、学科内で知られた。前田はそれも本望と開き直っているが、一部の学生からは「そんなことをやっているから独り身なのだ」と後ろ指を指される。その後ろ指グループの筆頭が稲城だった。
前田と稲城の不仲っぷりは学科内でも知られていて、二人は民俗学科の犬と猿と言われるまでになっていた。どちらが犬でどちらが猿かは決まっていない。稲城とひとくくりにされるのが嫌で以前は不快だったが、相手も同じように嫌がっていると知ってからは、稲城への嫌がらせの意味を込めて自分から広め始めた。
犬猿コンビの誕生は、入学直後の研修旅行までさかのぼる。研修旅行とは名ばかりで、内容はただの親睦旅行、一泊二日を箱根で過ごした。民俗学科の新入生六十二名を、コンピューターでランダムに分け、班を作った。前田が割り振られたのは女三人男二人の五人班で、男の一人が稲城だった。
研修旅行の夜、就寝時間を過ぎると、待っていたとばかりにみんなは部屋を抜け出し、思い思いの場所に集まった。前田はずっと部屋にいたが、その部屋が溜まり場の一つになっていた。いつの間に買ってきたのか、男たちは大量の酒を持っていた。年齢確認は大丈夫だったのかと聞くと、男の一人が稲城を指して、「あいつもう二十歳なんだ」と言う。一浪で四月生まれだから二十歳。前田はまだ一八だった。
みんな酒を飲んだ。ビールの味の分からない前田はサワーやカクテルを飲んでいた。話題は授業のことからサークルに移り、サークル内の恋愛からそれぞれの恋愛遍歴に移る。浪人したという人間が何人かいた。現役で入った学生の多くは、浪人生は勉強一本で恋愛どころではないだろうと思っていたが、違った。予備校には、高校や大学よりもよほど激しく複雑な恋愛模様があるらしかった。
「真面目な子はずっと勉強してるけど、二浪も三浪もしてるとね。ずっと禁欲生活ってわけにもいかないでしょ」と一浪の男が言う。
恋愛にうつつを抜かすから二浪も三浪もするんじゃないのかと前田は思う。
何年も予備校にいると、人間関係も入り組んでくる、寮に住んでいるとなおさらだ、と自分の寮生活を話し始めたのは稲城だった。
「俺は彼女いなかったけど、周りの恋愛沙汰の世話をして、胃に穴開けて入院したわ」稲城の話に、みんなは笑って「苦労人」だの「キューピッド」だのと囃した。前田は周りに合わせて笑いながら、馬鹿じゃないのかと思う。
話は別の一浪の女に移った。高校時代、恋愛に縁のなかったという女は、予備校の時も勉強のためと言って、男からの告白をすべて断っていたと言う。もったいない、と何人かが言った。
「じゃあ、大学でいよいよハツカレだね」と別の女が煽る。一浪の女は困ったような顔をして、そもそも男と付き合うのが怖いのだと打ち明けた。予備校時代は勉強を理由にしたが、本当は単純に怖かったのだと言う。
男たちが不可解だという顔をした。
「一生独りでいるつもりなわけ?」 男の一人が尋ねる。
女は困惑した様子で「そんなことないけど……もちろん、いい人がいればとは思うよ」と言う。
「そう言ってる人間が四十近くなって慌てんだよ。外見いいんだから、選り好みしなければすぐ彼氏なんてできるだろ」
男の言葉に、何人かが賛同する。
「いい人ったって、経験しなきゃわかんねえじゃん。とりあえず付き合ってみないと。なんならサークルの奴紹介するよ」
日本酒片手にそう言ったのは稲城だった。
でも、と躊躇う女に、助け船を出すつもりで前田は口を開いた。
「普通にお互い好きになってから付き合えばいいんじゃね? まだ一九なんだし、とりあえず付き合うのも悪いとは思わないけど、合わない人もいるだろ」
「僻むなよ前田ぁ」と隣にいた男が笑った。稲城は笑わずに、可哀そうな奴だという目で前田を見て言った。
「いまどき、腐女子のお姉さんでもそんなこと言わねえよ」
やってみないと分からないというスタンスが前田は嫌いだった。経験しないと分からないことがあるのは認めるが、経験すれば分かると思っている人間は傲慢だと思った。話題の中心にされた女は稲城に紹介された先輩と付き合って、やって、半年で別れた。
「ためらってたのがバカみたいだったよ。こんなもんなんだねぇ」休学中に会った時、女はそう言って笑った。
その女から聞く限りでは、稲城はそうやってちょくちょく人をくっつけることに夢中になっているようだった。ただの嫌な奴が嫌悪の対象になったのは、その話を聞いた時だった。
休学して戻ると稲城がまた一年にいた。フィールドワークまで一緒になった。それ以来、前田は開き直って稲城との仲の悪さをアピールしている。前田は稲城をエロゲ脳と呼び、稲城は前田を中二病と呼んだ。男と女がいれば恋愛が成り立つと思っている、恋愛シュミレーションゲームのような発想をする、だからエロゲ脳。稲城の方は、男女間にすぐに恋愛を持ち出すなという前田をお子様だと言って中二病と呼んだ。子供の喧嘩のようだ、と前田は思った。
一浪の女は、それから二回男を変えて、前田に「やらなきゃわかんないよ」と稲城と同じことを言う。
「私も、付き合う前は怖かったけど」と、前田を勝手にかつての自分になぞらえる。
「男の方にも選ぶ権利ってもんがあるでしょうよ」と言っていつも切り抜けた。そのたびに「そうやって自分を悪く言うのはよくないよ」と言われた。「自虐を、努力しない言い訳にしてるんだろ」とも言われた。
くっついたり離れたりを繰り返す男女を、前田は否定していなかった。だがそこに愛だの恋だの精神的な成長だのという話を持ち出されると、前田は途端に嫌悪感を覚える。
夜這いを調べ始めたのも、そんな理由からだった。前田には〝それ〟がなんだか分からなかった。恋愛も性交も出産も、それらの持つ意味も。
古臭い、子供っぽいと笑われた貞操観念は、明治以降に大衆に広まったもので、長い目で見ればとても新しいものだと知った。両親は恋愛結婚だったが祖父母は親戚同士で、親や親戚に言われて一緒になったと言う。父の弟も母の妹も恋愛結婚、母の兄だけが見合い結婚で、母方の祖父母も見合いだった。そういう流れの先端に前田と和之がいた。恋愛も結婚も、前田はしたいとは思わなかった。好きだとか捧げるとか、そういう面倒くさいことを抜きに、ある年齢になったら筆おろしをし、水揚げをし、当たり前のようにセックスをする。それを含めて相性がよければ結婚する。それはとても合理的な社会だと、前田は思う。
レポートは完成間近だった。要約すると「貞操観念くそくらえ」ということになるのだが、そういうレポートを書く自分が周りからは少女趣味だの頭が固いだの言われているのは滑稽だと思った。
ひよりとの約束の時間が近づいていた。前田はパソコンを閉じると、出かける準備を始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます