第二章

第二章-1

第二章



 ひよりと別れて新宿方面のホームに向かった前田は、携帯電話を見て弟の和之から着信があったことに気付いた。ホームに出て、電車が来るまでに数分あるのを確認して、和之に電話を掛け直した。和之はすぐに出た。今どこにいるのかと和之は聞いた。町田駅のホームで、これから帰るところだと答えた。和之は、今は塾の休み時間でこのあとにまた授業があり、と一方的な説明をしてから「今日泊めてくれ」と切り出した。

 狛江駅で弟を待った。学生服姿の弟は、十キロはありそうな、本で膨れた学生鞄を持っていた。うっすらとあごひげが生えていた。畑に囲まれた道を下宿に向かって歩いた。部屋に人を泊めるのは禁止されているのだが、夜七時から朝八時までは管理人がいないので気付かれない。人が多く、入れ替わりの多い下宿では、新顔が紛れ込んでいても気にする住人はいなかった。前田はそう説明して

「だから、前と同じで八時前に出てってくれな」

 和之は頷いて、「明日、新宿で模試なんだわ。朝マックでも食いながら勉強する」と言った。下宿は、元社員寮で、四階建て、個室が百二十ある建物だった。前田は建物横の喫煙所に寄り「一本吸わせて」と煙草に火をつける。建物の中は禁煙だった。和之はそれを見て「俺にも一本」と言う。

「おいこら未成年」と前田は弟を小突く。

「じゃあ一口」

「だめ」と笑って前田は弟の手を払う。和之は笑わなかった。和之は大きくため息をつくと、あーあと声を上げ、鞄をどさりと地面に放り出し、その場にしゃがみこんで単語カードをめくり始めた。ブロンドの髪をした男が二人、何語か分からない言葉を話しながら前田たちをちらりと見て下宿に入って行く。

「今のなにじん?」と和之が尋ねる。前田は白人だということしか分からんと言って煙を吐いた。外国人の方が多い下宿だった。

 メシは、と前田が尋ねると和之は、塾の休み時間に食べた、風呂もジムで入ったと言った。

 岩のような鞄の中で携帯電話が鳴った。取ろうとしない和之に、前田は出なくていいのかと尋ねる。

「いいよ、どうせ母さんだから」 

 泊まると言ってきたのかと聞くと、言っていないと答える。呼び出し音が止まった。前田は煙草を揉み消すと、実家に電話をかけた。母は携帯電話を持っていなかった。

 和之が下宿に泊まることを告げると、母は「そうだね、私いない方が和之も集中できるだろうね」と卑屈な態度をとる。

 前田がそれには取り合わず、「うちの部屋ならクーラーあるしな」と言うと、母は「お父さんが買ってくれないんだよ、しょうがないでしょうが」と怒鳴った。

「何怒ってんの、別に責めてないじゃん」と言うと、母は責めているじゃないか、それで責めていないと言うならお前の感覚がおかしいのだと叫ぶように言い募る。前田は相槌も打たずに電話を切った。

 前田は和之を見て苦笑する。

「大変だなぁ受験生」

「人生ドロップアウトしかけたあんたほどじゃねえよ」和之は立ち上がって鞄を背負った。

 下宿は普通のアパートではなくゲストハウスという共同住宅で、風呂トイレ台所共有、個室には最低限の家具がついていて布団さえあれば生活が始められた。敷金も礼金も保証人も不要のその下宿は、一人暮らしを反対されていた前田にはうってつけだった。家族に何も言わずに荷物を送り、入居一日目に下宿から家に電話をかけた。住所は未だに教えていない。弟にだけ最寄りの駅を教えた。

 入居者でない者が入り込んでいても気付かれない下宿だが、顔見知りに和之のことを聞かれると面倒だと思い、前田はまっすぐ自分の部屋に向かった。

 部屋に入ると、和之は重たそうな荷物をどさりと下ろし、机を借りていいかと言って勉強道具を引っ張り出した。

 弟が下宿に来るのは二度目だった。一度目は七月の終わり、高校が夏休みに入ってすぐのことだった。少し前に祖父の法事で会ったばかりだった。和之は模試のあとで電話をしてきて、唐突に泊めてくれと言った。狛江駅で会った弟の顔はひどく腫れていた。苛々して自分で殴ってしまうのだと言った。和之は顔の形が変わるほどに自分を痛めつけ、その顔で当たり前のように高校と予備校に通っていた。

 それから二ヶ月近くが経っていた。机に向かう和之の顔にもう腫れはなく、ただガサガサに乾いて血の滲んでいる手だけが痛々しかった。もともと、なぜか家族で一人だけ乾燥しひび割れてしまう手をしていた。その固くなった皮膚を、和之は引っ掻く。

 右手でノートを取りながら、左手を口に持っていき、手の甲のささくれた厚い皮膚に口をあて、ぶつりと音がするように噛みちぎる。問題集に血が垂れた。

前田は弟には何も聞かずにベッドの隅でノートパソコンを開いてレポートを始める。食堂の賑やかな声がドア越しに聞こえていた。

 なぜ留年してまで家を出たのかと聞かれると、前田は「家と相性が悪かったから」と答えることにしていた。それで納得できないと言う人間に説明できるだけの言葉を前田は持ち合わせていなかった。ずっと家を出たくてたまらなかった。物心ついたときにはそう望んでいた。

 大学は一人暮らしと勝手に決めていた。家に金があるのは知っていたし、母はずっと前田に出ていけと言っていた。だが父は反対し、勝手に願書を出したらただじゃおかないと言って取り寄せたパンフレットを処分した。風呂の燃し木置き場に破かれたパンフレットがあるのを見て、前田は父に食ってかかった。家の中で怒号と物の壊れる音が響いた。母は近所迷惑だと顔をしかめ、和之と祖父は何も言わずに壁に穴が開き、割れた蛍光灯が降るのを見ていた。壊すのは父のときもあったし前田のときもあった。父は、怒鳴って物を壊しはしたが、前田や和之に手を上げることは少なかった。手を上げるのはもっぱら母だった。母は割れた蛍光灯を片付ける前田に、本当にやりたいのなら反対など気にするわけがないと言い、本当は家を出る覚悟がないのだろうと罵った。金は父が握っていた。奨学金も反対された。だから説得するのだと言っても母はそんなものは詭弁だ言い訳だと言い、早く出ていけと繰り返す。

「あんたいつも言ってるでしょ。出てかないと、私かあんたのどっちかが死ぬって」

 前田は本気でそう思っていた。前田が母を殺すか母が前田を殺すか前田が自分で死ぬか。

 母との言い争いで鈍器が用いられるのは日常茶飯事で、止める者もいなかった。小学生の前田が思わず包丁を手にした時、母は「なに、刺すの? それとも死ぬの? 自殺するの?」と言って笑った。

 死ね、ではなく、死ねば、と言われた。言われるたびにずるい言い方だと前田は思った。

 弟は伸びをして頭を回し、ベッドの隅でパソコンを抱える前田に「中国人多いの?」と尋ねる。食堂からは中国人留学生の声が響いていた。

中国、台湾、アメリカの学生が多いと前田は言った。

「アメリカいるんだ。ヒアリングの練習できねえかな」

「ネイティブ過ぎて使えねえだろ」前田は笑った。

 弟はもう一度伸びをして、違う参考書を手に取り勉強を再開した。

母と前田のどちらかが死ぬという予言は外れて、結局二人とも生きていた。そして、その代わりのように祖父が死んだのだった。前田が大学一年の七月だった。それで前田は家を出た。

 昔から死にたがりの子供だった。中学の時、母との口論の末にあてつけのように腕にカッターを刺した。その刃は静脈に達して血が噴き出した。母は、あてつけに悲劇のヒロインぶる娘が面倒くさいというように顔をしかめ、「あんたが障害持ちになったら、世話すんの私なんだけど」と、血を流す娘に汚らしいものを見るような目を向けて言った。前田は自分で止血して部屋を掃除した。間抜けだと思った。襖についた血は拭いてもとれず、それはそのままシミとして残っている。そういうやりとりを、和之は小学生の頃からずっと見ていた。和之にとって姉は、泣きわめいて暴れるキチガイ女でしかなかった。ずっとそうだった。

 和之に対する負い目のようなものが、前田の中で凝っている。

レポートははかどらなかった。前田は掛け布団を床に落としてこれで寝ろと弟に言い、自分はベッドに横になった。風呂はと弟が尋ねる。今の時間は並ばないとシャワー室に入れないから朝入ると言って、前田はアイマスク代わりにタオルを顔に乗せた。和之は勉強を続けている。ときどき数式を呟くのが聞こえた。

 前田はふとライブのことを思い出し、模試のあとライブに来ないかと弟を誘う。弟は「無理」と取り付く島もなく、模試のあとは仲間と答え合わせをするのだと言った。分かったと頷いて、前田はまたタオルをかぶり、目を閉じた。

祖父が死ぬ直前の家は、家族のそれぞれが根腐れを起こし、そこから発生したガスが充満して破裂しそうに張りつめていた。それに風穴を開けるようにして祖父が死んだ。そこから噴き出したガスの勢いに乗るように前田は家から逃げた。風通しの良くなった家は、中の圧力を失ってスカスカになった。

 その、あとひと吹きで崩れそうな家で、いま和之は生活している。

前田は弟に申し訳なく思う一方で、そういったことは今突然に始まったのではなく、父の代、祖父の代からの呪いのようなものだとも思っていた。祖父が不眠症だと言って入院したとき、前田はまだ小学三年で、入院の理由を知らなかった。祖父の父、前田の曾祖父から貰った土地を売ってから、祖父は死んだ父親、前田の曾祖父の亡霊を見るのだと言い始めた。それが入院の理由だった。

 曾祖父は前田の父が幼い頃に死んでいて、前田は写真ですらその姿を見たことがない。だが家の裏の物置や庭先の車庫は曾祖父の建てたものだということは知っていた。曾祖父の名残は家の端々にあった。

 貧しい小作人だったという。戦後の農地改革で土地を手に入れ、それを六人いる子供のうち、地元に残る二人の息子、長男の昭一と次男の達郎に譲った。達郎が前田の祖父だった。前田が八歳の時、祖父はその土地の一つを売った。

 田畑はあったが農家ではなかった。農業で生計を立てていたのは祖父が子供の頃までで、父が生まれた頃の祖父は、百姓をしながら日雇いや期間工をして生計を立てていた。売ったのは田んぼだった。前田が小学校に上がるまで、田植えを手伝い、タニシを拾った田んぼだった。前田が八歳のとき、そこは駐車場になり、祖父は眠れなくなった。たまに眠ると、親父に申し訳ないと言ってうなされた。

 死ぬ直前の祖父は眠れない眠れないと言って家をぐるぐると歩き回り、前田や両親はそれが目障りで、不快感を隠さなかった。

 眠れない祖父はまた入院をしようと、かかりつけの病院で書類を受け取り、必要な物を書き出して入院の準備をし、その日のうちに、首を吊って死んだ。

 物置で首を吊った祖父を最初に見たのは和之だった。それを一人で下ろして救急車を呼んだのも和之だった。家には祖父と和之しかいなかった。まだ身体は温かく、身体の中の物が垂れ流しになるということもなかったと和之は説明した。

 祖父が死んで、前田は次は自分だと思ったのだ。

 その日も和之は勉強をしていた。試験期間中であった。今、前田の部屋にいるように、英文を読み、数式を呟いていたかもしれなくて、祖父も今の前田と同じようにそれを聞いていたかもしれなかった。親戚から「たっちゃん、いるかい」と電話が掛かってきて、和之は祖父を探して物置に行った。

 そこで、梁に下がった祖父を見たのだった。

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