第一章-3


 法事の翌日は金曜日だった。一時限目から授業のあるひよりは七時半に家を出て、町田駅でJRに乗り換え、淵野辺駅からスクールバスに乗り込んだ。

 付属高校のある多摩川のバスは高校生と大学生、教員で毎朝ごったがえしている。高校の文化祭が近いせいか、いつも以上に高校生が賑やかだ。その話し声すら生理前の身体には苦痛だった。バスの揺れも、音も、ひよりをぴりぴりさせる。高校生が明るい声で受験や文化祭について語り合っている。浪人するかもと笑う男子の声に、昨日の康平の言葉を思い出し、ひよりはイヤホンで耳を塞いだ。ひよりの浪人生活は祖母の介護と薬の副作用で始まった。受験前は紀子と康平の話が勝手に耳に入ってきた。大学に入って、一年半が経っていた。

 平日に挟まれた秋分の日に執り行われたにも関わらず、法事に集まる親戚は多かった。祖父母の入っている飯田の墓には、ひよりの家族が行かなくてもいつも新しい花が活けられている。近くに住む祖父母の兄妹が散歩のついでに手入れをしているのだった。

 紀子や康平がどの程度墓参りをしているかは知らない。家から駅の途中で墓に寄ることのできるひよりは、死者を供養するための菊やカーネーション、ほおずきや百日草の鮮やかな色を見ては、祖母の死んだ日を思い出す。

バスを降りると頼子におはようと声をかけられた。並んで歩きながらイヤホンを外す。

「何聞いてるの」と頼子がイヤホンを指差す。耳栓代わりにしていたのだと言うと、頼子は不可解そうに首を傾げる。体調が良くないので、バスの中の話し声がうるさかったのだと説明すると納得し、「大丈夫?」と心配そうな顔をする。大丈夫だと答えた。

 頼子は下ろした髪を耳に掛け、「まだ暑いもんね、今日も気温上がるって」と西の方の空を見る。

「明日の準備はどう?」と頼子にひよりは聞いた。頼子は「順調なつもりだけど、どうだろう」と言って笑う。

 頼子は高校の同級生の西野梢という女と音楽ユニットを組んでいる。明日はそのライブがある。ひよりはそれを前田と一緒に見に行くことになっていた。

「楽しみにしてる」とひよりが言うと、頼子は「うわぁ、ちょっと緊張してきた。ありがとう」と言って目を細める。

 風のある日だった。風になびく髪とスカートを押さえる頼子の腕に、ビーズのブレスレットが光っている。指輪はつけていなかった。

頼子はひよりと同じ二年で、ひよりと同い年だった。ひよりはそれを、フィールドワークの書類に書かれた生年月日で気付いた。ひよりに聞かれ、頼子は一年浪人したのだと答えた。

 だがひよりは、浪人ではないらしいという話を前田から聞いていた。前田はそれ以上詳しいことは語らず、ひよりも頼子に尋ねはしなかった。

手で髪を整えながら、頼子は「台風近いんだっけ」とひよりを見る。日本海を通過するはずだと答えて、「明日、雨降らないといいね」と言った。

「本当、明日一日もってくれればな」と頼子は曇り空を見上げる。さらりと落ちる黒髪の間から、したたる雫の形をしたイヤリングが見えた。ひよりは風で乱れた髪を直しながら、自分の耳たぶに触れる。きれいな横顔だと思った。恋人がいないのが不思議だった。フィールドワークの夜、当然のように盛り上がった恋愛話の中で、水を向けられた頼子は、ピアノ科は男が少ないからと言って自身の恋愛については語らず、文学部の女たちの噂話を、えげつない内容には似つかわしくない穏やかな表情で聞いていた。それ以後も頼子の周りに男がいるのを見たことはなかった。

 芸術学部棟の前で頼子と別れ、ひよりは一人文学部棟に向かう。食堂の前に来ると揚げ物や煮物のにおいが漂ってくる。薬を飲み始めたときはこうしたにおいが気持ち悪く、台所に入ることすら苦痛になった。その副作用は十日近く続き、祖母の身体から漂うにおいにも吐き気を覚えた。祖母の口からは時折家畜のようなにおいがした。

今はその副作用もなく、生理前は逆に油っこい、身体に悪そうなものを胃に詰め込みたくなる。食堂横の購買に寄り甘いものを物色したいという衝動を、ひよりは腕時計を見て抑え込む。寄り道をしたら、教室に着く頃には最前列の席しか残っていない。 ひよりは足早に食堂の前を通り過ぎ、教室に向かった。

 好きな授業はなるべく前の席に座るが調子の悪い時は後ろ寄りの席に座る。この日の一時限目、二時限目とそうやって過ごし、四時限目の心理学では一番後ろの席に座った。授業のなかった三時限目、食堂で仮眠をとったが、まだ強い眠気があった。

講義が始まった。淡々とした老教授の声に、半分近くの学生が机に伏せた。居眠りも内職も注意しない教授だった。

 ひよりの隣には稲城が、前には稲城の連れの男女が座った。稲城はフィールドワークで一緒だった男で、民俗学科の中では前田と不仲なことで有名だった。

「今日は前田と一緒じゃないんだ」と稲城はひよりに声をかける。「授業が違うんで」と曖昧に笑って、ひよりは板書を写し続ける。前の席の女がこちらを振り返った。

「飯田さん、前田と仲いいよね」と女はやたらと陽気な声で言う。女はひよりと同じ日本文学専攻の二年だったが、ひよりとはほとんど接点がなかった。どう答えたものかと思案して、「一緒の授業が多いから」と当たり障りのないことを言った。

「前田が付きまとってるだけじゃねえの?」と稲城が口を出す。そんなことはないとひよりは言う。稲城や女が前田を快く思っていないのを知っているひよりは、眠たい頭を叩き起こして警戒する。

 女は身体ごと後ろに向き直って「前田ってなんで休学してたの?」と言う。

「家を出るお金を稼いでたって」ひよりは前田から聞いたことをそのまま口にした。人に聞かれるたびにそう答えるので、稲城も、そしておそらくこの女も知っている話だった。女は眉をひそめて、納得がいかないという顔をする。

「本人はそう言ってるけど、普通それで留年する?」女は他に理由があるはずだと思い込んでいるらしく、他に何か知らないかと尋ねる。

家と相性が悪かったからだと前田は言った。だが前田はこう説明しても納得しない人間が多いのだと言った。この女もそれで納得する人間ではないようにひよりには思われた。

 ひよりが「聞かないなぁ」と首を傾げると、女の横から男が「そこはやっぱり男でしょ」と愉快そうに言う。

「想像できない」と女が笑う。その声がひときわ大きかったので、教授がこちらを一瞥する。ひよりは申し訳なさでいっぱいになり、この場から逃げ出したくなる。

「前田も悪ぶってるみたいで純情だからな」と稲城が言い、男は笑って「独りもんのひがみだろアレ。他の女が男作るのがムカつくから、少女マンガみたいな恋愛語ってさぁ」と言う。

 いやいや、と稲城が首を振る。

「友達が男に汚されるのが耐えられないんだよ。純情じゃねえか」芝居がかった口調の稲城に、女と男が腹を抱えて笑う。ひよりは引きつった顔で笑いながら、教授がここにいる自分たちを怒鳴りつけてくれないかと思う。教授はもうこちらに視線を向けてはいなかった。

「ひよちゃんに彼氏できたら、前田はへこみそうだよな」と稲城が言う。ひよりはどう答えてよいか分からず「できないよ」と苦笑する。女は「そんなことないよ」とひよりに顔を近づけて言い、「もうちょいおしゃれして、しっかり化粧すればすぐ彼氏できるよ、可愛いし」とひよりの髪を指で触る。気持ちが悪かった。

「胸もあるしな」と男が言い、女が「ヘンタイ」と笑って男を叩いた。

 ひよりはまた曖昧な笑みを浮かべて、口を開かずに板書を写す。

 かつて、祖母の世話をし、家事をしていた頃、身体が健康で祖母がボケる前に死に、普通に大学生になった自分を想像したことがあったが、趣味や恋愛に夢中になる自分の姿を思い浮かべることはできなかった。祖母が死んで症状も軽くなり、想像は現実になったが、あのとき思い浮かばなかった生活は、やはり現実にも訪れていない。恋など美男美女の特権だと中学まで思っていた。そうではないと気付いた高校生の時、ひよりには世の中のすべての男女が遠い世界の人々のように思えた。その時感じた抵抗は今はないが、ひよりは未だに自分を恋愛のない側の世界の生き物だと思ってしまう。

「瀬戸内海行った連中でいたよ。ひよちゃんのこといいなって言う奴」

稲城の言葉に、ひよりは全身が粟立つような感覚に襲われた。頭が痛んだ。

女は途端に顔を輝かせ「なにそれ、早く言ってよ」と稲城に迫る。ひよりはそのやりとりを他人事のように見ている。ぞわぞわとする感覚もどこか夢のようで、ひよりには頭痛だけが現実的な痛みとしてある。

 責め立てるような女の勢いに、稲城は「前田がガードしてんだもんよ」と言うが、ひより自身は前田に邪魔をされていると感じることはなかった。あるとすれば稲城個人への牽制だった。家を出るために休学し留年した前田は、浪人したうえに親の仕送りがあるにも関わらずバイトとサークルに夢中になり一年生を二度やった稲城を嫌っていた。それを当たり前のものとして享受できるのは稲城が男だからだろうか。ひよりは康平を思い出す。金がないならそれ相応の身の振り方をするべきで、バイトと遊びで留年して親に学費をせびるような人間は「親の前で腹切って詫びろ」と前田は言う。そういう考えに共感したから、授業での接点の減った今でもひよりは前田との付き合いを続けている。

 稲城の言葉に女は、前田に呆れたように「あいつ本当に何様だろうね」と言い、「そいつ、まだ飯田さんに興味あるのかな」と言う。稲城はフィールドワーク以来その話をしていないので分からないと言い、がっかりしたような女からひよりに視線を移して「ぶっちゃけ、ひよちゃんは彼氏欲しい? いらない?」と尋ねる。嫌な聞き方だとひよりは思う。

 一生独り身でいようという覚悟があるわけでもないが、積極的に欲しいとは思わない。人を好いたり好かれたりする世界が未だ遠くに感じるひよりは稲城の二択の通用するところにすら立っていなかった。そちら側への違和感と憧れだけが、中学の時から変わらずひよりの中にある。

 稲城の問いにひよりは、いらないとも思わないが特別欲しいとも思わないと答えた。稲城はそう答えるのは分かっていたというように頷いて、「いい人がいればってことだよな」とひよりの言葉を言い直す。それが一般的な解釈なのだろうとひよりは思う。どこかに〝いい人〟がいるという根拠のない理想すら、ひよりは持ち合わせていない。

 曖昧な笑みを浮かべたまま何も言わないひよりの態度を肯定と受け取ったのか、女が「純情ー」と冷やかす。そんなことはないと、ひよりは謙遜するように言って笑う。自分が馬鹿にされているのに気付かない、頭の弱い子のような反応だとひよりは自分を嘲る。女は、純情、純情と囃す。不愉快だった。

 愛想笑いを浮かべたまま、教授の板書を写し続けた。エディプス・コンプレックスという単語の下に異性の親に対する近親相姦的な感情と説明書きがあり、その下に、女児の場合は自身がペニスを持たないということに対する性的な劣等感を持つ、とある。ひよりは女性に対する劣等感をいつも破裂しそうなほど抱えている。老教授は、やっと聞き取れるほどの声で、今は、男児の持つ妊娠できない、子を産めないという感覚にも焦点が当てられていると述べる。その男児は自分だとひよりは思う。

 ノートをとるのを止めないひよりに、稲城は露骨に寂しそうな顔をして、聞いているかと問い質す。聞いていると答えると、聞いていても考えてくれなきゃ意味がないと言う。

 気持ちが悪くなるほど考えていると言いたかった。

「ひよちゃん自身のことだよ?」と稲城は言う。ひよりは、実感が湧かないのだと言って苦笑し、謝る。前の席から男が「いいかどうかなんて、付き合ってみないと分かんねえよ」と言う。女はそれに同調するように頷き、ひよりに好きな人はいるのかと尋ねる。いないと答えると「ならいいじゃん、付き合っちゃえば」とそれが当たり前であるように言う。

「前田も飯田さんと同じようなこと言ってたけどさ、ようは傷付きたくないだけなんだよ」と女は言い募る。ひよりは「そうかなぁ」と曖昧な言葉を返す。この女は、女性に対して自分のような劣等感を抱いたりするのだろうかとひよりは考える。

 教授の口頭での説明はノートの端にメモした。女の出産機能に対する男児の劣等感。ひよりは二十歳で、女で、一時的に排卵を止めているだけで妊娠できないわけではなかった。だがひよりは妊娠し出産する女たちより自分が劣っているような気がしてならない。生理前だというのに出血は止まらず、それなのにPMSはきちんと現れる。

 稲城はひよりを諭すように、古い恋愛観も悪くないが価値観は変わるものだと話す。何か答えなければと思う。椅子に座り直すと、血液が流れ出て生温かいものが股に広がるのが分かった。その感触に、ひよりは冷やりとする。

「チャンスは、待っててもなかなか来ないよ」と稲城は言う。ひよりは苦笑しながら、慌てるのは年をとって危機感を持ってからでいいと言い返した。

「そんなこと言ってると、賞味期限切れちまうぞ」と男が見下すように言う。ひよりはへらへらと笑い続ける。早く頭痛薬を飲みたかった。

 稲城はノートの端に自分の電話番号とメールアドレスを書いて「そいつに連絡取ってみるからさ、気が向いたらメールちょうだい」と言って、ノートの切れ端をひよりの前に置く。仕方なくそれを受け取って定期入れに挟んだ。女はダメ押しをするように「自分で決めなきゃ、何も変わらないよ」と言う。通信講座か何かのキャッチコピーのようだとひよりは思った。

 


 四時限目の講義が終わり、稲城たちが教室を出るのを待って、ひよりは頭痛薬を飲み、前田との待ち合わせ場所に向かった。

 大学の敷地の北側を走る都道四十七号線には人が一人立てるほどの幅の中央分離帯がある。ひよりが初めて前田を見たのはその中央分離帯の上だった。一年の夏休み明け、久し振りに乗ったスクールバスの中から、中央分離帯の上で煙草をくわえている女が見えた。変な趣味の眼鏡の女、それが前田の第一印象だった。

 その中央分離帯が待ち合わせ場所だった。前田はまだ来ていない。周りに人が歩いていないことを確認して車道を渡り、中央分離帯に立った。ひよりが一人でここに立つのは初めてだった。なぜこんなところにいるのかと聞いたとき、前田はここに立つと頭がからっぽになるのだと答えた。何も考えたくないときに、ここで煙草を吸うととても安らぐ、前田はそう説明した。

 その言葉を思い出して、ひよりは中央分離帯に立ち、四方を見回した。頭はまだ痛く、身体は気だるく吐き気を伴う眠気があった。痛む頭でひよりは稲城たちの言葉を考え続けている。恋人が欲しいとも子を持ちたいとも思わないのに、恋人のいる女や母になった女や排卵のある女に劣等感を覚える。欲しくもないものを羨む自分の感情が、ひよりには不思議だった。

 痛む頭を真っ白にしたいと思った。

 これ以上考え続けたくなかった。

 大型トラックがひよりの鼻先を通り過ぎた。ひよりは息を飲む。それを皮切りにしたように、ひよりの前後を車が通り過ぎていく。大型の車が通ると、橋の上でもないのに足元が波打った。恐ろしかった。

 ひより、と名前を呼ばれて振り返ると、絶え間なく通り過ぎる車の向こうで前田が手を振っていた。車が切れるのを待って歩道に渡った。

前田と共にバス乗り場に向かう。前田は、ひよりが道路の中に立っていたのに驚いたと言い「ついにこの魅力に目覚めたか」と嬉しそうな顔をする。ひよりはそれを否定し、「前田の真似してみたけど、車が怖いだけだった」と苦笑する。あのスリルがいいんだ、もっと広いところで試してみればいいと前田は言う。そうまでして分かろうとは思わないと言うと、前田は唇を尖らせた。

 中央分離帯に立つ前田の癖は、大学構内だけに留まらず、町田や淵野辺の周辺でも中央分離帯に立つ眼鏡の女が度々目撃されている。その噂のどれもが前田の仕業だった。

 到着したバスに乗り込み、淵野辺駅まで行き、電車で町田に向かった。町田駅に着く頃には頭痛は治まっていた。

 町田駅で二人は路上ライブを見ることになっていた。だが、いつも誰かしら歌っている東急ツインズの前では選挙の演説が行われ、目当ての人物どころか他のストリートミュージシャンの姿も見えない。探していたのは、頼子の同級生の西野梢だった。

前田とひよりは小田急とJRの連絡通路を一回りする。選挙前のために連絡通路は候補者や支援者の演説やビラ配りでやかましかった。子宮頸がんワクチンの助成金を、と演説する女の候補者がいた。ひよりは、自分の母よりも若い、まだ子育て中のような女性候補者を見て、この女は医師の前で股を開いて子宮頸がんの検査をしたことがあるのだろうかと思う。その演説の前を通り過ぎると、支援者にマニフェストの書かれたチラシを渡された。町田市民じゃないのになんで受け取ってるんだと前田は笑い、左の腕を服の上からぼりぼりと掻く。傷跡が痒いのだった。

 ひよりはその手つきを見ながら、その跡は消えないのかと尋ねる。前田は、小さい傷は数年で消えると思うが、大きいものや火傷は一生残るだろうと答え、質問したひよりに「気になる?」と聞き返す。ひよりは紀子の腕を思い出していた。それで思わず「昨日法事で」と言った。

 前田が不可解そうな顔をするのを見て、すぐに的外れなことを言ったと気付き、慌てて「ごめん間違えた。痒そうだから気になって」と言い繕う。前田は不思議そうにひよりを見てから、手術で消えるらしいが金がかかるのだと話した。

 小田急からJRを一周し、東急ツインズの前に戻ると、モニュメントの前でゴシックロリータファッションの女がうちわで顔をあおいでいる。西野だった。

 前田は西野を見るなり暑苦しい服だ、見ているだけで暑いと文句を垂れ、西野は前田の長袖を見て「素直に日焼けしろ、もやしっこ」と言う。

 西野はギターもアンプも持っていなかった。ひよりがそれを尋ねると、選挙のせいで許可がとれなかったと言い、連絡しなかったことを二人に詫びた。

「金曜、なんかあったなとは思ってたんだけど、聞きに来るって言ってたの、さっきまで忘れてて」

 前田は薄情者めと西野を詰り、ひよりは演奏もないのにわざわざ出てきたのかと聞く。

「いや、学校帰り。ギターの弦買ってた」西野は楽器屋の袋を見せる。

 西野は二人に飯は食べたかと聞く。夕飯には少し早いが、腹は減っていた。

三人でイタリア料理の店に入った。「三人です」と言う前田を見て、奇妙な感覚を覚える。ちぐはぐな三人だった。

 席について水を飲んだ。西野は暑さで死にそうだったというように一息で水を飲み干して、ようやく涼しくなったと言う。前田が笑って「だからその服が」と袖口の黒いフリルをつつく。西野はやめてよと腕を引き、フリルを押さえた。店員がすぐに水を注ぎに来た。

 西野はいつもこういう服でギターを弾き、歌っていた。前田は常連の客だった。頼子と知り合ったのも路上ライブがきっかけだったと言う。ユニットを組んではいたが、路上で歌うのは西野一人で、頼子は時々客として西野を見に来ていた。

 西野のきつく締まったウエストを見ながら、ひよりは普段もそんな格好なのかと尋ねる。西野はもちろんと頷き、「別に音楽用の衣装じゃなくて普段着だよ」と言う。ひどく汗をかいていたはずなのに、厚い化粧はほとんど崩れていなかった。

 趣味なのかと尋ねると、西野は少し考えて、好きでもないが色々試したらここに落ち着いた、とはっきりしないことを言う。

「高校からだっけ、ゴスロリ」前田が口の中で氷を転がして言う。

「高三からだね。話したっけ?」西野が首を傾げると、前田は「紗枝っちから聞いた」と言う。紗枝というのは西野と頼子の同級で、ひよりは会ったことがないが前田は付き合いがあるらしかった。

「西野が男にモテまくりだったのも聞いたよ」と前田はニヤリと笑う。

「やめてよ、黒歴史なんだから」と嫌そうに眉根を寄せる西野に、前田は「付き合っては振り、付き合っては振り」と面白がって囃し立てる。

「ほんとやめて、若気の至りだって」西野は苦り切った顔をして耳を塞いだ。

 そのやりとりをひよりは笑って眺めていた。ゴシックロリータの派手な服と隙のない厚化粧の姿しか見たことがないが、服越しに見える肢体や整った顔からは、普通の格好でも綺麗なことが想像できる。

 前田はひとしきり笑ってから、「でも今は一人なんだよな?」と不思議そうに言う。西野は苦い顔のまま、そもそも男にそれほど興味がないのだと言った。

「高校の時はノリで付き合っちゃったけど」

 それを聞いた前田は急に色めき立ち、「気をつけろひより、こいつのストライクゾーンは女だ」と声を上げる。

「なんでだよ」と西野も叫ぶ。前田は自分の言った言葉で笑いながら、「イケメンが独り身だったらホモかなって思うだろ。それと一緒だよ」と知り顔で言う。

「思わねえよヘンタイ」西野は呆れたように前田を見る。ひよりは笑った。

 前田や西野なら、恋人が欲しいかという問いに、はっきりとした答えを示しそうだった。

 スパゲティーとピザが運ばれてきた。ひよりがスパゲティーを取り分け、前田がピザを切り分けた。

「清南女子で男にモテたってことは、他校生だよな。どこで知り合うの。部活?」前田がスパゲティーを蕎麦のように啜りながら尋ねる。合コンがあったのだと西野は話す。前田とひよりは目を丸くする。「高校生が?」驚く前田に、西野は女子高の方が共学よりがっついているのだと言う。ひよりは合コンというものに行ったことがなかった。

「ませてんなぁ。私、夏前に紗枝っちに誘われて行ったのが初めてだよ」

「あれ、結局行ったんだ」と西野が思い出したように言う。ひよりもその話は多少聞いていた。頼子にも西野にも断られた紗枝が前田に連絡したのだった。ひよりには、前田が着飾って男たちと楽しげに会話をする様子が想像できない。

「前田も彼氏欲しいんだ」とひよりは前田を見た。前田はピザを飲み込んで「いや」と答える。

「メシ奢るって言われて行っただけ」と言い、「それよか西野」とフォークの柄を西野に向ける。

「高校の時は合コン三昧だったわけかよ色女」

 西野はその話題はもう嫌だというような顔でスパゲティーを飲み込み、「付き合いだよ、女同士の」と言ってピザにかじりつく。

 恋人が欲しいわけではないのかとひよりは聞いた。西野は困惑したような顔をして「ビミョウ」と言う。その意味が分からず、ひよりは聞き返そうと口を開いた。だが前田が口を出す方が早かった。

「西野、女にもモテそうだよな。女子高だし」

 西野はピザを喉に詰まらせたらしくウグッと呻き、水でそれを飲み下すと「ゴス始めたら男は寄らなくなったけど後輩に捕まるようになった」と弱り切ったように言う。ひよりと前田は声を上げて笑った。

店を出て西野と別れると、煙草を吸いたいと言う前田に付き合って駅前の喫煙所に行った。喫煙所は仕事帰りのサラリーマンやOLで溢れていた。うまそうに煙を吐いて、前田は、家族で煙草を吸う人はいないのかとひよりに聞いた。父は若い頃に吸っていたらしいが、今は誰も吸っていないと答えた。前田の家はどうなのかと尋ねると、死んだ祖父が吸っていたと答えた。

「ずっとわかば吸ってたんだよ。値上がりしたら私もわかばにすっかな」と前田は言う。煙草の銘柄の分からないひよりは安いのかと尋ねる。

「普通は一箱三百円前後だけど、わかばは百九十円」と言った。

 煙草の話をすると、ひよりは薬のパンフレットを思い出した。三十五歳以上で一日十五本以上吸う人には処方できない薬と書いてあった。医師には、酒はいいけれど煙草は吸うなと二十を過ぎた時に言われた。

「おいしい?」とひよりは聞いた。

 味の良し悪しはあまり意識していないが、とりあえず落ち着くのだと前田は言った。それから「最初に吸ったのは、じいさんの部屋に残ってたわかばだったな。初めはキツくて吸えたもんじゃなかった」と言い、「今じゃすっかり中毒だわ」と笑った。

 風は相変わらず強くて、煙草は手に持っているだけでどんどん短くなった。それを灰皿に押し込むと、二人は小田急の駅に向かった。

 前田とは改札を入って別れた。ひよりは伊勢原、前田の下宿は狛江だった。帰宅ラッシュの電車に乗り込み、恋愛に縁がないという共通項があったと気付き、独り苦笑する。恋愛感情って何だろ、と口の中で呟いてから、それでも西野はかつて恋人がいたのだと思い、ふと息苦しさを覚える。電車が揺れて、隣の学生らしい男と身体が触れた。詫びるように会釈をする男の顔を見て、ひよりは、前田にも相手がいたのだと思い出した。恋人などいたことがないし欲しいとも思わないと前田はいつも言っていた。だが、性交する相手はいると、打ち明けられたことがあった。

 前田はその男のことをただの友人だと言い、好きでも何でもないと言った。その何でもない相手と交われるものなのかと不思議に思うひよりに、前田は右の指で左の腕をトントンと叩き、「これの延長みたいなもんだから」と言った。それを聞いたのは一年の冬、フィールドワークの終わった後だった。前田は今もその男との関係を続けているのだろうか。

 家に着くと、母が寝間着姿で台所に座っていた。ひよりを見るとおかえりとも言わずに、明日は法事に来られなかった親戚が来るから家にいろと言う。用事があると言うと、母は不機嫌そうな顔をして「法事の前後ぐらい空けとけばいいのに。気が利かないんだから」とひよりを詰る。ひよりは謝った。

 薬を飲むために水を汲むひよりを見つめ、母は顔をしかめて「あんた煙草吸うの?」と聞く。自分は吸わないが飲食店のにおいが移ったのだろうと言うと、母は服と部屋に消臭スプレーを撒くように言い、吸っても構わないが、家ににおいを入れるなと言う。「庭やベランダで吸うなら構わないからね。子供産むなら反対するけど、あんたどうせ産まないでしょ」母はまるで推奨するかのように言う。ひよりはただ「わかった」とだけ答えた。

 飲んでいる薬は低用量避妊薬のマーベロン、いわゆるピルであった。ピルを飲むことになったと言った時、母はまるで娘に梅毒だったと告白されたように嫌悪感をあらわにした。

 母の視線を感じながらひよりはその薬を飲み込む。わざわざ見届けるつもりだったのか、母はひよりがコップをゆすぎ始めると立ち上がった。それから思い出したように「最近、ナプキン減るの早いんだけど」と言う。不正出血があるせいだと言うと、母はまだ副作用があるのかと顔を歪め、「飲まない方が健康なんじゃないの。お金もかかるし」と言う。低用量避妊薬は、避妊以外の目的で飲む場合でも保険がきかない。ひよりが「飲まないと大学行けなくなるから」と苦笑すると、母は「五体満足に産んであげたのにね」とため息をつく。母のよく使う、聞き慣れた文句だった。それを言われるたびに、ひよりはどこかもっと分かりやすいところが欠けて生まれてくればよかったと思う。ひよりは申し訳ないというように苦笑いを浮かべるが、その笑みは頭の弱い娘がへらへら笑っているようにしか見えないと知っていた。どうしてこんな頭の弱い子が、というように母はまたため息をつき、「ナプキン買っておいてね」と言って寝室に消えた。

 ひよりは消臭スプレーを探した。父も母も、ひよりが結婚することも子を産むことも期待していなかった。ひより自身、結婚も出産も考えていなかった。だが、両親のあからさまに期待していないと示すような態度が苦しかった。

飲んだ薬が喉に引っかかっているのが分かった。小さな痛みが、食道を入ってすぐのところにある。

 その喉の違和感を、ひよりは薬が溶け切るまでじっと意識し続ける。

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